第三章 風は名前を避けている
神殿の回廊は、朝と夕でまったく違う表情を見せる。
朝は光が差し、祈りの声が反響する。
夕刻になると人の気配は薄れ風の音だけが残る。
リュシアがこの時間を選んだのは、偶然ではなかった。
神官たちが下がり、儀式も終わる頃。
神殿が「役目」を外し、ただの場所に戻る時間。
その時だけ彼女は少しだけ自由だった。
祭壇の前に立つ。
今日も、風はすでにそこにあった。
強くはない。触れるほどでもない。
それでも、確かに空気が動いている。
「昨日は、答えてくれませんでしたね」
責める声ではなかった。
確認でもない。
会話の続きを、置いてみただけだった。
風は返事をしない。
代わりに、天井近くの梁が、きしりと鳴った。古い木材が、風を受けて音を立てる。
「それが、あなたの距離なんですね」
リュシアは少しだけ考えてから言葉を続ける。
「近づきすぎると壊れるものがある。だから、答えない」
彼女は神を見上げない。
姿を探さない。
いると分かっている相手に、あえて視線を向けない。それも彼女なりの礼儀だった。
風が、わずかに強まった。
否定でも肯定でもない。
ただ、言葉が届いたという合図。
「神官は、私に“名を呼べ”と言います」
その声は、少しだけ低くなった。
「神を呼び、願いを述べ、答えを得る。それが神凪の務めだと」
リュシアは、祭壇の縁に手を置く。
冷たい石の感触が、掌に残る。
「でも、私は知っています」
風が止まる。
ほんの一瞬。まるで耳を澄ませるように。
「名を呼ぶということは、あなたをこの国に縛ることだということを」
沈黙が落ちた。
神殿の外で、遠く鐘の音が鳴る。
夕刻を告げる合図だ。
「だから、私は呼びません」
それは決意というほど強い言葉ではない。
誓いとも違う。
ただ、選択だった。
「……呼ばれない神は、寂しいですか?」
問いは、ふいに零れた。
用意していたわけではない。
自分でも少し驚くほど素直な問いだった。
風が揺れる。
今までより少しだけ近い場所で。
外套の裾が、確かに持ち上がった。
髪が、頬を撫でる。
それは偶然ではなかった。
答えではない。けれど拒絶でもない。
「……そうですか」
リュシアは、静かに息を吐いた。
「それならここに来ます。呼ばずに、縛らずに」
その言葉に、風は強くならない。
音も立てない。
ただ、彼女の背を押すように吹いた。
帰路へ向かう、その一歩を。
振り返らずに歩き出しながらリュシアは思う。
まだ、何も始まっていない。
それでいい。
名を呼ばれない神と、名を呼ばない神凪。
この距離が、今は一番、正しかった。
神殿の回廊は、朝と夕でまったく違う表情を見せる。
朝は光が差し、祈りの声が反響する。
夕刻になると人の気配は薄れ風の音だけが残る。
リュシアがこの時間を選んだのは、偶然ではなかった。
神官たちが下がり、儀式も終わる頃。
神殿が「役目」を外し、ただの場所に戻る時間。
その時だけ彼女は少しだけ自由だった。
祭壇の前に立つ。
今日も、風はすでにそこにあった。
強くはない。触れるほどでもない。
それでも、確かに空気が動いている。
「昨日は、答えてくれませんでしたね」
責める声ではなかった。
確認でもない。
会話の続きを、置いてみただけだった。
風は返事をしない。
代わりに、天井近くの梁が、きしりと鳴った。古い木材が、風を受けて音を立てる。
「それが、あなたの距離なんですね」
リュシアは少しだけ考えてから言葉を続ける。
「近づきすぎると壊れるものがある。だから、答えない」
彼女は神を見上げない。
姿を探さない。
いると分かっている相手に、あえて視線を向けない。それも彼女なりの礼儀だった。
風が、わずかに強まった。
否定でも肯定でもない。
ただ、言葉が届いたという合図。
「神官は、私に“名を呼べ”と言います」
その声は、少しだけ低くなった。
「神を呼び、願いを述べ、答えを得る。それが神凪の務めだと」
リュシアは、祭壇の縁に手を置く。
冷たい石の感触が、掌に残る。
「でも、私は知っています」
風が止まる。
ほんの一瞬。まるで耳を澄ませるように。
「名を呼ぶということは、あなたをこの国に縛ることだということを」
沈黙が落ちた。
神殿の外で、遠く鐘の音が鳴る。
夕刻を告げる合図だ。
「だから、私は呼びません」
それは決意というほど強い言葉ではない。
誓いとも違う。
ただ、選択だった。
「……呼ばれない神は、寂しいですか?」
問いは、ふいに零れた。
用意していたわけではない。
自分でも少し驚くほど素直な問いだった。
風が揺れる。
今までより少しだけ近い場所で。
外套の裾が、確かに持ち上がった。
髪が、頬を撫でる。
それは偶然ではなかった。
答えではない。けれど拒絶でもない。
「……そうですか」
リュシアは、静かに息を吐いた。
「それならここに来ます。呼ばずに、縛らずに」
その言葉に、風は強くならない。
音も立てない。
ただ、彼女の背を押すように吹いた。
帰路へ向かう、その一歩を。
振り返らずに歩き出しながらリュシアは思う。
まだ、何も始まっていない。
それでいい。
名を呼ばれない神と、名を呼ばない神凪。
この距離が、今は一番、正しかった。




