最終章 風は名を必要としない
風嶺国に新しい制度は生まれなかった。
神殿は残り、神官も祈りを続け
王も民も、それぞれの立場を変えなかった。
ただひとつ確かに変わったものがある。
「神は、そこにいなくてもよい」という理解だった。
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神殿の奥
かつて風神ヴァルが顕現した祭壇はは白布で覆われている。
封印ではない。否定でもない。
待たない、という選択。
神官長は朝の祈りを終え、しばらく祭壇の前に立っていた。
「……神よ」
言葉が止まる。
続けるべき名がない。
だが彼は祈る。
「我らが己の責を他に預けぬように」
それは初めて“神に頼らない祈り”だった。
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リュシアは、城下の丘にいた。
風が一番よく通る場所。
かつて彼と立った場所。
彼女はもう振り返らない。
名を呼ばない。探さない。
ただ立つ。
――ここに、私はいる。
声はない。
だが、その沈黙は、
誰にも奪われていない沈黙だった。
風が、丘を渡る。
優しく、穏やかに、それでいて確かに。
彼女の外套を揺らし、髪を撫で、頬をかすめる。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
誰かが、そこに立っていた気がした。
だが、姿はない。
名も、声も、奇跡もない。
それでいい。
リュシアは、微笑む。
――あなたは、自由になった。
――私も、自由になった。
それは別れではなく、
約束でもなかった。
選び続ける、という同意。
国は、続く。
神なき風の中で、人は祈り、迷い、責任を負いながら生きていく。
誰かが言った。
「神がいなくなって不安になった」
別の誰かが言う。
「でも、前よりも、風を感じる」
遠く。
どこでもない場所で風はただ流れていた。
誰にも縛られず、誰にも命じられず。
だが――
確かに、一人の名を覚えている。
呼ばれなくても。思い出されなくても。
それで、十分だった。
風は、今日も吹く。
名を持たず、神を名乗らず、奇跡を誇らず。
人の間を抜け、暮らしを揺らし、生きている証として。
そして――
その風の中で一人の神凪は
もう神に捧げられる存在ではなく、
ただの、人として歩いていく。
――完――




