第十九章 神なき風は誰のものか
風嶺国に異変は起きなかった。
それが、最大の異変だった。
神殿の鐘は鳴る。
祈りの時刻も守られる。
神官たちは、いつも通りの言葉を唱える。
だが、風神ヴァルの名はどこにもなかった。
それは禁忌ではない。
意図的な沈黙だった。
⸻
神殿の評議の間。
神官長を中心に重い空気が漂っている。
「民は、不安を感じていない」
若い神官が戸惑いを隠せずに言った。
「むしろ……穏やかすぎるほどです」
別の神官が、苛立ちを帯びた声で続ける。
「奇跡が減っている。これは信仰の衰退だ」
神官長は、ゆっくりと口を開いた。
「いいや」
全員が、彼を見る。
「これは、信仰が試されている」
沈黙。
「神が沈黙した時、人はなお祈るのか」
誰も答えない。
否定も、肯定もできなかった。
⸻
一方、城では――
国王が、神殿からの進言書を前にしていた。
「神凪を、再び隔離すべし」
「民との接触を制限すべし」
「沈黙の象徴として神殿に戻すべし」
国王は、ため息をついた。
「神官たちは、まだ“神の形”に縋っている」
側近が、慎重に言う。
「陛下。神凪リュシアは今や象徴です。放置すれば神殿の権威が――」
「揺らぐ?」
国王は、視線を上げる。
「揺らぐのは神殿の権威ではない」
静かな声。
「人の在り方だ」
⸻
その頃、リュシアは城下にいた。
特別なことはしていない。
井戸の水を汲み、市場の端を歩き、
子どもが転べば、手を差し伸べる。
声はない。
だが、人々は彼女を見て足を止めた。
「……神凪様」
呼びかける者もいる。
そうでない者もいる。
ただ、誰も跪かない。
それが彼女には救いだった。
老婆が、リュシアの前に立った。
「あなたが、あの神凪かい」
リュシアはゆっくり頷く。
老婆は少し笑った。
「不思議だねぇ。神様がいなくなったって聞いたのに」
空を仰ぐ。
「風は、ちゃんと吹いてる」
リュシアは胸に手を当てる。
――それは、彼が残したもの。
――いや、違う。
彼が“奪わなかったもの”。
老婆は続けた。
「神様がいた頃はね、風は“与えられるもの”だった」
「今は…最初から、ここにあった気がするよ」
リュシアは、目を伏せた。
涙は落ちない。
代わりに、深い呼吸。
その夜。
風が、城壁を越えた。
神殿の尖塔を撫で、城下の灯を揺らし、
そして、リュシアのもとへ来た
彼女は立ち止まる。
声は、ない。呼ぶこともできない。
それでも、胸の奥で、確かに思う。
――あなたは、ここにいる。
応答はない。
けれど風は去らなかった。
それで十分だった。
⸻
翌朝。
神殿に、正式な勅命が届く。
「神凪リュシアは神殿の所有物にあらず。王国の民として、保護される」
短い文。だがそれは神と人の時代を分ける一文だった。
神官たちは言葉を失う。
祈りの形が変わる。
神の不在を前提に、なお祈るという矛盾。
だが、誰かが言った。
「……それでも、祈りたい」
風は、今日も吹く。
神の名を持たず。奇跡を誇示せず。
ただ、人の暮らしの中を。
リュシアは空を見上げる。
声は、戻らない。
だが――
もう、奪われてはいなかった。




