第十八章 声なき祈りは国を支える
朝の風が、城下を撫でていた。
嵐ではない。予兆でもない。
ただ、穏やかな風。
人々は気づかない。
だがその風には、かつての“神の意思”が、確かに残っていた。
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沈黙の儀が崩れた翌日。
神殿は、異様な静けさに包まれていた。
祈りの言葉は、続いている。
儀式も、形式上は変わらない。
けれど、応答がない。
神官の一人が、低く呟く。
「風神は、沈黙なされた」
違う。誰もが薄々わかっていた。
風神は、罰を受けたのだ。
それでも、神官たちは言い換えた。
神の失墜をそのまま口にすることは許されない。
「神凪を、呼び戻せ」
「儀を再開する」
「沈黙を、完全なものに」
言葉は、整っている。
だが、そこに“神の意志”はなかった。
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リュシアは、神殿の奥にいた。
声は、戻らない。
それでも彼女の背筋は、まっすぐだった。
神官長が、彼女の前に立つ。
「神凪リュシア」
形式的な呼び名。
「沈黙の儀は未完だ。再度、完全な沈黙へと進んでもらう」
リュシアは、返事をしない。
できないのではない。
必要ないと知っているから。
彼女は一歩、前へ出た。
その動きだけで空気が変わる。
「……」
神官長が、言葉に詰まる。
彼女は祈らない。だが逃げもしない。
それは従属ではなく――覚悟だった。
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城下では、変化が起きていた。
風が、妙にやさしい。
畑を荒らさない。
屋根を壊さない。
航路を乱さない。
「最近、嵐がないな」
「神様も、お疲れなのかね」
人々は、そう笑う。
神の奇跡は減った。
だが、暮らしは安定した。
それが、何を意味するのか。
まだ、誰も言葉にしない。
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国王は、神殿からの報告書を閉じた。
「神凪は拒まなかった。だが、従ってもいない」
側近が、慎重に尋ねる。
「……処分を?」
国王は、首を横に振る。
「いいや」
しばし、沈黙。
「あれは、神凪ではない」
「……陛下?」
「いや。あれは、人だ」
国王の声は、静かだった。
「神の道具ではなく、神の代弁者でもなく」
窓の外を見る。
穏やかな風が、旗を揺らす。
「ただ、この国に立っている人間だ」
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その夜。
リュシアは、神殿の外に出た。
許可はない。
だが誰も止めなかった。
星が澄んでおり風が髪を揺らす。
「……」
声はない。
けれど、彼女は微かに笑った。
胸の奥で、何かが応える。
それは言葉ではない。
祈りでもない。
共に在る、という感覚。
「……ありがとう」
声にならない言葉が、風に溶ける。
応答はない。
それでも、風はそこにあった。
リュシアは歩き出す。
神凪としてではなく。
沈黙の象徴としてでもなく。
この国に生きる、一人の人として。
風は、彼女の背を、静かに押した。




