第十六章 神は沈黙を破る
神殿の空気が変わった。
それは風ではない。祈りでもない。
決定だった。
神官長は円卓の中央に立ち静かに告げる。
「沈黙の儀は、予定を繰り上げる」
ざわめきが走る。
「神凪リュシアは、すでに十分に“静まった”これ以上の猶予は神殿の統制を損なう」
若い神官が、ためらいがちに口を開いた。
「ですが王城からは慎重に、との」
「王は神ではない」
神官長の声は冷たい。
「この国が風に守られてきた理由を忘れたか」
沈黙。
「神凪は神と国をつなぐ器だ。器が意思を持ちすぎれば、いずれ――」
言葉は、そこで切られた。
「神よりも、危険になる」
⸻
その夜、神殿の最奥。
リュシアは膝を抱えて座っていた。
沈黙の中で、音は消える。
だが、思考だけは止まらない。
(……早い)
儀の終わりが、近すぎる。
それは解放ではない。封じ込めだ。
そのとき、風が強く吹いた。
窓が、震える。
「来たね」
声は、はっきりしていた。
ヴァル・シェアリスが初めて“神として”現れた。
人の姿ではない。
風そのものが形を取り、
空気が彼の輪郭を描く。
神の威圧が部屋を満たす。
リュシアは立ち上がろうとしたが足がすくんだ。
「動かなくていい」
ヴァルの声は、優しい。
だが、その奥に怒りがあった。
「沈黙の儀は、明朝で終わる」
彼は、すでに知っている。
「終わりと同時に、君の声は“神殿の印”として封じられる」
それは、永久の制約。
神凪は神と話せなくなる。
神は、神凪を“感じる”だけになる。
――二度と、対等ではなくなる。
リュシアは必死に手を伸ばし床に文字を書く。
『それでも、私は……』
文字が、震えた。
ヴァルは、その前に膝をつく。
「違う」
彼は、はっきり言った。
「それを選ばせたくない」
リュシアの目が見開かれる。
「俺は神だ」
風が荒れ始める。
「だから破れる」
神殿の柱が、軋む。
「神殿の儀も国の都合も」
リュシアは必死に首を振る。
――それをしたら。
――あなたが、縛られる。
彼女は、文字を書く。
『あなたが失う』
ヴァルは少し笑った。
「もう失ってるよ」
その笑みは、どこか人間的だった。
「神が、誰か一人を選んだ時点で」
風が、渦を巻く。
神殿全体が、震え始める。
外で鐘が鳴った。警告の音。
神官たちが気づいたのだ。
「聞いて」
ヴァルは、リュシアの額にそっと手を置く。
触れられた瞬間
彼女の中に――風が流れ込んだ。
声ではない。言葉でもない。
理解だった。
「俺が介入すれば、神としての“自由”を失う」
神は、本来、均衡であるべき存在。
だが。
「それでも」
彼の目は迷っていなかった。
「君の沈黙が誰かの都合で決められるなら」
風が、爆ぜる。
「――俺は、嵐になる」
次の瞬間
神殿の封印が、ひとつ、音を立てて砕けた。
それは、救いか。
それとも――破滅か。
沈黙の儀は、今、崩れ始めた。




