第十二章 声なき祈りは風に触れる
神殿の中庭は、いつもより静かだった。
風嶺国の神殿は、風を通すための構造を持っている。
高い柱の間を抜け、白い石畳を撫でるように、風は常に流れているはずだった。
だが今は、その風さえ息を潜めているように感じられた。
リュシアは中庭の端に立っていた。
白衣の袖が、わずかに揺れる。
その動きだけが彼女が生きてここにいる証のようだった。
声はない。
けれど彼女は祈っていた。
言葉ではなく、呼吸でもなく、ただ“在り方”として。
沈黙の儀から日が経つにつれ、
彼女は少しずつ理解し始めていた。
沈黙は、空白ではない。
沈黙は、重さだ。
視線。距離。
人が一歩引く、そのわずかな間。
神官たちは、丁寧だった。
以前よりも、慎重だった。
それが、痛かった。
「やっぱり、ここにいたか」
声がした。
軽く、風に溶けるような声。
リュシアは、驚かない。
ただ、ゆっくりと振り向いた。
ヴァルがそこにいた。
神としての威圧は抑えられている。
だが、風の流れだけは彼の周囲で微妙に変わっていた。
彼は彼女の前まで来て立ち止まる。
「座ってもいい?」
問いかけは確認に近い。
リュシアは小さく頷いた。
二人は石の縁に並んで腰を下ろす。
沈黙が間に落ちる。
だがそれは気まずさではなかった。
「人間ってさ」
ヴァルが空を見上げながら言った。
「沈黙を見ると、すぐに意味をつけたがる」
リュシアは視線を伏せたまま、耳を傾ける。
「守られてる。失われた。あるいは危険だ、とか」
風が、彼の言葉を運ぶ。
「でも君は違う」
ヴァルは、横目で彼女を見た。
「沈黙を選んだ」
リュシアの指先が、わずかに動いた。
彼女は、懐から小さな板を取り出す。
薄い木片に、簡潔な文字が刻まれている。
《選んだ、でも怖くないわけじゃない》
ヴァルはそれを読み、苦笑した。
「正直で助かる」
少し間を置いて、彼は続ける。
「国王も神官も君を“守る”と言っている」
その言葉に、棘はない。
ただ、事実として。
「でもね」
ヴァルは、声を低くした。
「守るって言葉は、時々動かさない理由になる」
風が、強く吹いた。
中庭の木々が、ざわめく。
リュシアは板を持つ手を握りしめ、新しい文字を書く。
《私は、閉じ込められたいわけじゃない》
その文字は、乱れていた。
ヴァルはそれを見て目を伏せる。
「……知ってる」
短い答えだった。
「だから話しに来た」
彼は、彼女の方を向く。
「君の沈黙が刃になる前に」
その言葉にリュシアは息を詰めた。
刃。それは彼女自身が薄々感じていた感覚だった。
沈黙は、祈りであると同時に誰かを傷つける可能性を持つ。
「国は均衡を求める。神殿は秩序を守ろうとする」
ヴァルは淡々と語る。
「でも、神凪は“人”だ」
風神としてではなく一つの存在として彼はそう言った。
「君が耐え続けるだけの存在になるなら、俺それを看過しない」
リュシアは、ゆっくりと顔を上げた。
声はない。だが、瞳は確かに彼を見ていた。
《それは 神として?》
ヴァルは一瞬だけ黙り、そして、答える。
「……半分は、神として」
もう半分は、言わなかった。
言葉にすれば、それは境界を越えてしまうから。
風が、二人の間を通り抜ける。
沈黙は、まだそこにある。
けれどそれは、孤独ではなかった。




