第十章 言葉ない朝はやさしい
朝の風は変わらなかった。
神殿の高窓から差し込む光も、回廊に落ちる影の形も、昨日までと同じだ。
それでもリュシアにとっての朝は少し違っていた。
目を覚ますと、まず息を吸う。
喉の奥に違和感がないことを確かめる。
そして声が出ないことを思い出す。
不安は、もうない。
沈黙の儀は恐れていたほどの痛みを残さなかった。
ただ「世界への触れ方」が変わっただけだ。
身支度を整え、神凪としての白衣をまとう。
布の重さが、昨日より少しだけ重く感じる。
神殿を歩けば人々の視線が控えめに集まる。
哀れみではない。恐れでもない。
どこか慎重さを含んだ、敬意。
リュシアは、軽く頭を下げる。
声はなくとも、その仕草だけで十分だった。
中庭に出る。
風が葉を揺らす音だけが聞こえる。
「……」
無意識に名前を呼ぼうとして、やめた。
代わりに胸の奥で、そっと想う。
――ヴァル。
すると、風が応えた。
強くもなく、激しくもなく。
ただ、「いる」と伝えるように。
それは、言葉ではない。
それでも、確かな対話だった。
リュシアはベンチに腰掛ける。
ここは、彼女と風神が何度も言葉を交わした場所。
今はもう、彼女の声は届かない。
けれど、風が長く留まる。
まるで彼女の沈黙を待つように。
リュシアは、そっと目を閉じる。
言葉を使わずに考えを整える。
「……ありがとう」
声にならない感謝が胸の内で形を持つ。
風がやさしく、髪を揺らした。
それで、十分だった。
神官の一人が遠くから会釈をして通り過ぎる。
誰も、無理に話しかけてこない。
沈黙は隔てるものではなくなっていた。
むしろ彼女の存在を、静かに守っている。
正午前。
神官長から小さな書板が渡される。
必要な意思疎通は文字で行う。
だが、それすら最低限でよいとされた。
神凪は多くを語る存在ではない。
沈黙の象徴であり、祈りの器なのだから。
回廊を歩きながらリュシアは、ふと思う。
これで、よかったのだろうか。
問いは、すぐに否定される。
彼女は最初から覚悟していた。
選んだのは自分だ。
風が、少しだけ、強く吹く。
否定ではない。叱責でもない。
ただ、背中を押すような気配。
リュシアは小さく息を吸い、吐いた。
言葉はない。
それでも彼女は、ひとりではない。
沈黙の中で、風と共に在る。
それが、神凪リュシアの日常になった。
そしてこの静けさが
やがて国を揺らすことを。
彼女は、まだ知らない。




