第九章 沈黙は奪われるものではない
夜明け前。神殿の回廊は白く冷えていた。
儀式の時間は、日の出とともに始まる。
それが、風嶺国の古い定めだった。
リュシアは神官に導かれて歩いていた。
足音は、ひとつだけ。
誰も、声をかけない。
誰も、名を呼ばない。
沈黙の儀に臨む神凪は、すでに「半分、沈黙の中にいる」とされる。
祭壇のある円堂は天井が高く、空に近い。
中央には白い石で作られた小さな台座。
その上に立つことで神凪は“言葉を手放す”存在になる。
恐怖は、なかった。
緊張も、ほとんどない。
ただ、胸の奥に薄い痛みがある。
声が、無くなる。
それだけのことなのに、それだけでは済まないことを彼女は知っていた。
台座の前で、足が止まる。
神官長が、一歩前に出た。
「神凪リュシア。汝はこの国の安寧のため、己の声を神へと返す覚悟があるか」
形式的な問い。
答えは決まっている。
「はい」
短く、はっきりと。
それが彼女の最後の“公式な言葉”だった。
神官長が静かに頷く。
周囲の神官たちが円を描くように配置につく。
詠唱が始まる。
古い言葉。
意味よりも音が重ねられたもの。
空気が少しずつ変わる。
風が――ほんのわずかに、揺れた。
それは儀式に干渉しない程度の存在感。
見守ることしか、できない。
リュシアは、台座に上がる。
石は、冷たい。
それでも、足は確かに地についていた。
詠唱が終盤に差しかかる。
神官長が最後の言葉を告げる。
「神凪は沈黙をもって、神と国を繋ぐ存在となる」
その瞬間。
何かが、ほどける。
痛みは、ない。
喉が焼けることも息が詰まることもない。
ただ、“道”が閉じる感覚。
言葉へ至る道が、静かに消える。
リュシアは、息を吸う。
そして声を出そうとする。
音は、生まれなかった。
喉は、動く。
息も、ある。
それでも声だけが存在しない。
沈黙が完成した。
神官たちが膝をつく。
儀式は終わりだ。
リュシアは、ゆっくりと台座を降りる。
世界は変わらない。
光も、風も、人々の表情も。
変わったのは彼女の中の、たった一つ。
けれど、風が頬を撫でた。
はっきりと。
言葉よりも明確な存在として。
リュシアは目を伏せる。
微笑もうとして、やめた。
もう、声で応えることはできない。
それでも、沈黙は孤独ではなかった。
彼女が奪われたのは声だけだ。
想いも、記憶も、信頼も。
何一つ、失われていない。
円堂の天窓から朝の光が差し込む。
風嶺国は今日も風に守られている。
そして神凪リュシアは、沈黙をもって風神ヴァルと在る者となった。




