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風が名を呼ぶ日 ―沈黙の神凪と自由を失った風神―  作者: 宵待 桜


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第一章 風が名を呼ぶ日


その日、風は少しだけ強かった。


港町エオリスでは、風は珍しいものではない。

海から街へ、街から丘へと渡り歩き、帆を揺らし、洗濯物を乾かし、人々の声を遠くまで運ぶ。


風はここでは、日常だった。


けれどその日の風は違っていた。


どこか定まらず、彷徨うように港を巡り、まるで、名を探しているかのようだった。


リュシアは港の外れ、石段に腰を下ろしていた。


海と街の境目。人の往来が途切れ、風だけがよく通る場所だ。


祈りの刻ではない。

神凪として呼ばれたわけでもない。


ただ、彼女は風を感じていた。


外套の裾が揺れ、淡い色の髪が頬に触れる。

冷たいというほどではないが、確かに「触れられている」という感覚があった。


リュシアは目を閉じない。祈らない。名を呼ばない。


それが、彼女のやり方だった。


神凪とは、神に願う存在だ。

少なくとも、国はそう教える。


豊穣を。安全を。風向きを。


だがリュシアは、願いを言葉にしなかった。

願えば、神は応える。


応えれば、神は縛られる。


それを、彼女は知っていた。


「……不思議な子だな」


背後から、声がした。


軽い。だが、風よりもはっきりした声。

リュシアは驚かず、ゆっくりと振り返る。


そこに立っていたのは旅人のような青年だった。


淡い銀青の髪が風に揺れ、空の色を映したような瞳がこちらを見ている。


外套は留められておらず、風に任せて自由に翻っていた。


どこか、この場に属していない雰囲気。


「……あなた、誰ですか」


警戒でも好奇心でもない。

ただの確認。


青年は少し笑った。


「それ、今聞く?」


軽口のようで、けれど嘘はなかった。


「君が名を呼ばない神凪なら、俺は名を名乗らない神でいい」


その瞬間、風が強く吹いた。

港の旗が一斉に鳴り、海面がざわめく。


理解は、遅れてやってきた。


「……風神ヴァル・シェアリス」


青年――ヴァルは、わずかに目を見開く。


「正解。でも当てられたのは久しぶりだ」


沈黙が落ちる。


重くはない。

ただ、風が通り抜ける間の静けさ。


そのときだった。


突風が港を叩き、石段の砂が舞う。

リュシアの足元が、ほんのわずかに崩れた。


考えるより先に、ヴァルは手を伸ばしていた。


触れたのは、指先。

風ではない。体温だった。


リュシアは倒れなかった。

支えたのは風ではなく――彼だった。


「……今の」


彼女が、静かに言う。


「あなたの意思ですか」


責めるでも、感謝するでもない声音。

ただ、問い。


ヴァルは一瞬、言葉を失った。


神としてでも、風としてでもない。

もっと単純で、取り繕えない理由。


「……違う」


嘘はつけなかった。


「反射だ」


リュシアはそれ以上、何も言わない。

けれどその沈黙は、名を呼ぶよりも強く、彼を縛った。


しばらくして、彼女は口を開く。


「願いはありません」


神凪としては、あまりに異端な言葉。


ヴァルは、ふっと息を吐き、笑った。


「……助かる」


冗談のようで、ひどく本音だった。


「君、名前は?」


「リュシアです」


「そっか。いい名前だ」


風が、また吹く。

名を呼ぶようで、けれど縛らないように。


その日、約束は交わされなかった。

誓いも、願いもなかった。


だが確かに、何かが始まっていた。


風が、ほんの少しだけ留まってしまった日だった。


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