第9話:届かない声
さくらの世界は、静かに歪んでいた。
現実と幻の境界は曖昧で、母親の予測不能な感情の波に揺られながら、
息を潜めて日々をやり過ごす。
心を繋ぎ止められるのは、ポテトと話す時間だけだった。
学校では、友達の会話も遠くに聞こえる。
気づけば授業中に、意識を空想の海へ解き放っていた。
◇
ある日の放課後。
いつものように図書館の隅、
床に直接座り込み、膝に抱えた本の世界へ沈んでいた。
不意に、肩を優しく叩かれる。
びくっとして振り返ると、
クラス委員長が真っ直ぐな瞳でこちらを見ていた。
「さくらさん、最近、授業中もぼーっとしてることが多いけど…
何かあったの?」
視線から逃げるように目を伏せ、少し戸惑いながら答える。
「ううん…別に、何でもないよ」
「でも、先生も心配してたよ。
もし何かあるなら、私でよかったら話を聞くよ?」
その言葉が純粋な善意から来ているとわかっても、
この歪みをどう説明すればいいのか――
理解されるはずがない、という諦めが思考を鈍らせる。
そのとき、頭の中に悍ましい声が響いた。
《誰も信じるな。信じちゃいけない》
さくらは唇を固く結び、
自分でも驚くほど冷たい言葉が口をついた。
「……ほっといて」
委員長は一瞬だけ傷ついたように目を見開き、
それでも凛とした表情で優しく言った。
「そっか、ごめんね。
でも、私はさくらさんのこと、誤解されやすいだけだと思ってる。
もし気が向いたら、いつでも声をかけて。待ってるから」
柔らかな微笑みを残し、委員長は去った。
背中が見えなくなるまで、
さくらは、悔いと戸惑いを抱えたまま、動けなかった。
「待ってるから」
という言葉が、呪いのように頭で反響する。
信じてはいけない。
期待すれば、また傷つくだけ。
そう言い聞かせても、委員長の穏やかな声が耳から離れない。
《ほら、やっぱりみんな、お前を変だと思ってるんだ。
誰も理解なんてしてくれない》
悍ましい声が嘲笑する。
さくらは、開いていた本を乱暴に閉じ、
棚に戻すこともせず、何かに追われるように図書館を出た。
◇
家に帰ると、リビングから機嫌の良さそうな母の鼻歌が聞こえた。
今日は「良い日」らしい。
靴を脱ぐのももどかしく、息を殺して階段を駆け上がる。
自分の部屋に飛び込み、ドアに鍵をかける。
水槽の前に崩れ落ちるように座り、か細い声で呼びかけた。
「ポテト……」
岩陰から、心配そうな声が返ってくる。
「どうしたんだい?さくらちゃん」
俯きながら、指先でスカートの裾をいじる。
そして、今日の出来事を途切れ途切れに話した。
「……どうしよう。
委員長が、私の味方だって。待ってるって…」
「すごい!それはラッキーチャンスだよ!
難しく考えすぎだよ、さくらちゃん」
ポテトはヒレをぱたぱたと動かし、
明るい声で続けた。
「『ありがとう』――たった五文字の魔法の言葉さ。
それを言うだけでいいんだ」
「笑顔で言えたら、魔法の力は何倍にもなる!
次は、勇気を出して言ってみてごらん」
さくらはしばらく黙って、その言葉を反芻した。
やがて顔を上げ、迷いの残る瞳で、小さく、しかしはっきりと頷く。
「……わかった。
ポテトが言うなら、やってみる」
「うん。きっと君の魔法は届くよ!」
さくらは胸に手を当てた。
冷え切った心に、小さな灯がともるのを感じた。