第8話:凍りつく心
制服に着替えて階段を降りると、
その下に、お母さんが影のように立っていた。
泣きはらしたのか、少し腫れたまぶた。
悲しそうな顔で、か細い声がさくらの名を呼ぶ。
「さくらちゃん…」
足を止め、さくらは黙って見つめ返した。
心は動かない。
何を言われるか、もう分かっていたから。
「ごめんなさい。お母さんが悪かったわ。
許して…」
お母さんは崩れるように抱きつき、
震える手で頭を撫でてくる。
さくらは、その腕の中で人形のように固まっていた。
いつもと同じ、甘くて重い香水の匂いが鼻をつき、思考を麻痺させる。
いつもの「ごめんね」の言葉。
いつもの撫でる手。
ただ、今日のそれは弱々しく、
まるで泣いているかのように震えていた。
けれど――
その震えは、さくらの心には届かない。
(まただ…)
心の中で、冷え切った自分が呟く。
振り子のように、怒りと優しさを行き来するお母さん。
この優しさは、次の嵐の前触れにすぎない。
さくらはもう、体で覚えていた。
信じれば裏切られる。
期待すれば突き落とされる。
その繰り返しが、心に厚い氷を作ってしまった。
お母さんの腕からそっと抜け、
何も言わずに食卓の椅子へ座る。
無言の拒絶に気づかないのか、
気づかないふりなのか――
お母さんは一瞬だけ悲しそうに顔を歪めたが、
すぐに何事もなかったように朝食の準備を始めた。
カチャカチャと食器の音が、やけに大きく響く。
食卓には、こんがりと焼かれたパン、
黄身がとろりとした目玉焼き、
色とりどりの野菜。
いつもなら「おいしそう!」と声を上げるのに、
今日は何も、喉を通りそうになかった。
目の前の料理が、やけに鮮やかに見える。
トマトの赤は血のようで、
レタスの緑は毒々しい。
まるで、
私を誘う罠みたいだ――。
「さくら、食べないの?
せっかくお母さんが作ったのに…」
さっきまでの弱々しさは消え、声が少しだけ、不満を帯びる。
さくらは小さく首を振った。
胃が鉛のように重く、フォークすら持てない。
そのとき――
頭の中に、あの悍ましい声がささやいた。
《食べたら死ぬかもしれないぞ。毒が入っているかもよ》
確信に満ちた声。
背筋を冷たいものが走る。
「食べたくない…」
「なんでそんなこと言うの!せっかく、お母さんが作ったのに!」
「だって食べたくないときは、ちゃんと言いなさいって、お母さんが…」
「そんなこと言っていません!言うわけないでしょ!」
ヒステリックな声が突き刺さる。
(お母さん…前に言ったのに。嘘つき)
正しいことを言っても、怒りの燃料になるだけ。
何を言っても無駄。
聞き入れられることはない。
だから――
秘密の部屋に入ればいい。
そこに入れば、私の代わりに誰かが怒られる。
時間が経てば、怒りもおさまる。
「あ、そう。食べたくないなら、さっさと学校へ行きなさい。
せっかく作ったのに、もったいない」
吐き捨てるような声。
さくらは黙って椅子を離れ、音を立てずにランドセルを背負い、玄関を出た。
ドアが閉まり、家の重い空気から解放された瞬間、
こらえていた息を、そっと吐き出した。