第7話:偽りの静けさ
病院から帰ったその日、お母さんは異様なほど優しかった。
診察室での激昂が嘘のように、穏やかな顔でさくらに接する。
さくらの好きなケーキを買ってきて、
「ママが悪かった、ごめんね…」
と、しきりに頭を撫でてきた。
その声は、小さく遠く
響いているように感じられた。
戸惑いながらも、温かい手つきに、
凍りついていた心がほんの少し溶けるのを感じる。
しかし――その「優しさ」は、
一夜限りだった。
◇
次の朝。
さくらが食卓に着いた瞬間、
お母さんの声が刃物のように鋭く響いた。
「さくら!あなたのせいで、お母さん、
病院で恥をかいたじゃない!」
ビクッと肩が震え、フォークがカランと床に落ちる。
昨日までの穏やかさはどこにもなく、そこには
冷たく険しい顔があった。
(…はじまった)
「あなたがそんなだから、お母さんはこんな目に遭うのよ。
少しはお母さんの言うことを聞きなさい!」
母の声が、さくらの頭の中で
ガンガンとこだまする。
息をひそめ、椅子の上で小さく縮こまった。
落ちたフォークをじっと見つめ、
意識を遠ざけようとする。
すると――
母の姿が遠く小さくなり、
部屋の隅にいるように感じられた。
(変なの…ちっとも怖くないや)
心はふんわりとした、不思議の部屋へ入っていく。
豆粒のような顔の大きな体の母。
滑稽で、現実感のない光景。
こうして時間が過ぎるのを待てば、
嫌な時間は終わる――
そう知っている。
だが今日は、説教がやけに長い。
遠くにいたはずの鬼のような顔が、ぐんぐん大きくなって迫ってきた。
(怖い…怖い…助けて)
そのとき、下腹部にじわりとした違和感が広がった。
冷たい液体が太ももを伝い、パジャマがじんわり濡れていく。
「さくら、お漏らししてるじゃない。
早く着替えてきなさい」
お母さんの声が、ふっと落ち着いたトーンになる。
(あ…私、お漏らししちゃったんだ)
不思議と、
恥ずかしさはなかった。
むしろ、
これでこの時間が終わる――
安堵の波が胸に広がる。
部屋に戻り、濡れたパジャマを脱いでいると、
急にぽろぽろと涙がこぼれた。
(なんで…涙が止まんない…。変なの…)
濡れたパジャマを握りしめ、
わけのわからない感情に押しつぶされそうになる。
そのとき、水槽の中から
心配そうな声がした。
「さくらちゃん…大丈夫?ポテトがそばにいるよ」
さくらは鼻をすすりながら、か細く呟く。
「ポテト、私…ダメな子だ…。お漏らししちゃった」
ポテトはヒレをぱたぱた動かし、
きっぱりと言った。
「さくらちゃんは、ダメな子なんかじゃない!怖かっただけだもんね!
ポテトの新しい魔法、教えてあげる!」
――【自分を強くする魔法】――
「両手でぎゅっと自分を抱きしめて、
『さくらちゃんは強い』って、三回言ってみて」
さくらは、言われた通りに両腕で自分を抱きしめ、
震える声で自分に言い聞かせた。
「さくらは強い…
さくらは強い…
さくらは強い…」
ポテトの声が重なり、
凍りついた心が少しずつ温まっていく。
(…あれ?涙、止まった…)
驚きに目を見開き、涙の跡を拭う。
「ほんとに消えた!すごいよ、ポテト!」
「どういたしまして。
いつでも僕は、さくらちゃんの味方だよ」
ポテトは水槽の中で、優しく体を揺らしていた。