第6話:診断と嵐
数日後。
さくらは母親に連れられ、大きな病院の診察室にいた。
消毒液の匂いがかすかに漂い、真っ白な壁がやけに冷たく感じられる。
目の前には、白衣を着た初老の医師。
ペンを片手に、難しい顔でカルテをめくっている。
紙が擦れる乾いた音だけが、重い沈黙を破った。
やがて医師は顔を上げ、カルテを机に置くと、
眼鏡の奥からまっすぐにさくらを見つめた。
「お母様のお話と、さくらさんのご様子から判断しますと…」
一度、言葉を選ぶように間を置く。
隣の母親が、ごくりと息をのむ気配。
「さくらさんは、妄想癖とアリス症候群を併発しています」
さくらは、その言葉の意味がわからなかった。
ただ「アリス」という響きに、どこかで聞いた物語の主人公を思い浮かべる。
でも、それが自分とどう関係するのかは、
まるで見当がつかなかった。
母親は沈痛な面持ちで、膝の上の手を固く握っている。
医師は続けた。
「そして…いくつかご質問をさせていただきましたが…」
「症状の原因として、お母様の言動が影響している可能性も考えられます」
俯いていた母親の肩がぴくりと揺れ、
勢いよく顔を上げた。
その目には、信じられないという色と、かすかな敵意が宿っていた。
「私の言動が?どういうことですか?」
医師は慎重に、諭すような口調で説明する。
「一般的に、お子さんの精神的な症状には、家庭環境が大きく関わります」
「特に、お母様ご自身が感情の起伏が激しい、
あるいはコントロールが難しいと感じることはありませんか?」
「そんなこと…ありません」
母親は絞り出すように否定したが、
その顔からはすっと血の気が引いていた。
「もしかすると、お母様は境界性パーソナリティ障害――
いわゆるボーダーラインの傾向がおありになるかもしれません」
その瞬間、母親の顔は
怒りで真っ赤になった。
「なによそれ!私がボーダーですって!?
ふざけないで!」
椅子を蹴るように立ち上がる。
その金切り声が、狭い診察室で反響し、
さくらの耳を突き刺した。
「この子がこんなになったのは、あんたみたいな医者が変なことを言うせいよ!
私を病人扱いするなんて、許さないわ!」
びくっとして、さくらは椅子の中で体を小さく丸める。
この空間から消えてしまいたい――
そう強く願った。
そんな母親を、医師はただ、静かに見つめ返していた。
やがて、冷静な声で
最後の質問を投げかける。
「お母様、先ほどの診察で、さくらさんの太ももにあざが見られました。
あれは、どうされたのですか?」
「だから、何だって言うの!?」
母親の声は、ヒステリックに跳ね返る。
「私はただ、この子を心配してるだけ!
転んだのよ!」
「あなたみたいな医者に何がわかるの!
いい加減なことを言わないで!」
止まらない怒鳴り声。
医師の冷静さが、逆に母親の怒りを煽っているようだった。
さくらは、目の前で繰り広げられる
嵐のような光景を、ただぼんやりと見つめる。
胸の奥で、大切な何かが
音を立てて凍りついていく――
その冷たい感覚だけが、はっきりと残った。