第4話:歪む世界の朝
ドタドタドタ。
さくらは目を輝かせ、少し上ずった声を上げて階段を駆け下りた。
「ねえお母さん、ポテトが変なの!いつもと違うの!」
リビングでは、母親が背中を向けたまま、
忙しなく朝食の準備をしている。
テレビからは、
ニュースの音声が流れていた。
――ニュースの声。
「AIペットセラピーがアップデートの不具合で、一部、喋りだすという…」
さくらが、わくわくした表情で食卓の椅子に腰を下ろした、
その瞬間。
母親が鋭く振り返り、
その目に怒りの光が宿る。
「さくら!今何時だと思ってるの!
私を困らせないでって、いつも言ってるでしょ!」
突然、母親の声がリビングに響き渡った。
さくらはビクッと肩を震わせ、
手に取ろうとしたパンから、手を引っ込める。
「すぐに下りてこないで、いったい上で何をしていたの!」
(あ…お母さんのスイッチが入った)
次の瞬間、母親の輪郭がぐにゃりと揺らめき、
さくらの体が縮んでいく。
必死に椅子にしがみつき、
落ちないように踏ん張った。
「…お母さんが大きくみえる…」
か細い声で呟くと、母親は顔を怒りで歪め、
鬼のような表情になった。
その怒りが、母親の体をさらに巨大化させる。
「またそんなこと言って!お母さんの体が大きくなるわけないでしょ!
何度言えばわかるの!二度とそんな嘘、言わないで!」
さくらは息をひそめ、(消えてしまえばいい)と願うように、
椅子の上で小さく縮こまった。
すると――
目の前の光景が急速に遠ざかっていく。
巨大だった母の姿は、まるで望遠鏡を逆から覗いたように、
部屋の隅へ小さくなっていく。
声は水の中にいるようにくぐもり、
はっきりと聞き取れない。
「さぁ、ぐずぐずしてないで!早くご飯を食べて。
学校では絶対に、変なこと言わないでね」
くもった声と視覚のズレに、
心は現実から遠ざかる。
頭の中で、悍ましい声がささやいた。
《おい、おまえ、怒られてるぞ》
知らない誰かの声――また聞こえた。
(ちがうよ…。怒られてるのは、私じゃない誰かだよ)
《けっ、また逃げるのかよ。弱っちいやつ》
目の前の母の頭は、豆粒ほどの大きさに変わり、
自分が座っている位置はどんどん遠ざかっていく。
世界は歪み、つーんとした耳鳴りと、
ふわふわした感覚に包まれた。
あとは、時間が過ぎるのを
ただ待つだけ。
「ご飯食べたいの?食べたくないの?
ちゃんと言ってくれないとわからないじゃない!」
「…食べる」
本当は食べたくない。
味もしない。
でも、食べないとまた、
怒られるから――
朝食を無理やり、口に押し込む。
やがて、何も言わなくなったさくらに、
母親は興味を失ったかのように黙り込む。
さくらは無言で立ち上がり、壁にかけたランドセルを背負った。
玄関のドアを開けて一歩外に出れば
……ほら、治る。
(だって、お母さんがいないんだもん)
冷たい朝の空気が頬を撫で、歪んでいた世界がすっと正常に戻る。
一人きりの登校時間は平和だ。変な声も聞こえない。
さくらは通学路を歩きながら、
小さくため息をついた。
(ずーっと、この登校の時間だったらいいのに)
学校は嫌い。何も面白くない。
それに、席に座っていると――
また、あの変な声が聞こえてくるから。