第3話:ポテトとの出会い
次のセラピーの日。
しずか先生の隣には、小さな水槽が置かれていた。
中にいたのは、赤いじゃがいものように丸っこい、一匹のフグ。
きょとんとした顔で、小さなヒレをぱたぱたと揺らしている。
「可愛い!」
思わず声を上げると、先生は優しく微笑んだ。
「ペットセラピー用の、特別な機能を持ったフグなの。
ミウルスっていうアフリカの淡水フグがモデルなんだって」
つぶらな瞳が、じっとこちらを見つめ返す。
その姿が、なんだか可笑しくて、愛おしい。
「それにね。さくらちゃん用にカスタマイズもされているんだよ」
「なんだか…ころころしてて、じゃがいもみたい」
さくらは水槽に、そっと指先を触れた。
本来、このフグには人と会話ができる特殊機能があったが、
先生はあえて、設定を切っていた。
今のさくらには、言葉よりも「そばにいてくれる存在」が必要だと考えたからだ。
「この子の名前は…ポテトがいいな」
そう言うと、フグは首を振り、照れるように砂へ潜った。
その日から、ポテトはさくらの「言葉を話さない同居人」になった。
学校から帰ると、真っ先に水槽の前へ座り込む。
楽しかったことも、嫌だったことも、全部ポテトに話して聞かせた。
お母さんにひどく叱られた夜も。
学校で友達に悪く言われた日も。
ポテトはただ、まんまるな瞳で見つめ、静かにヒレを揺らしていた。
変わらないその姿が、何よりの慰めだった。
それでも――ふと思ってしまう。
(もし、ポテトとお話できたらなぁ…)
水槽に映る、自分の寂しげな顔を見ながら、そっとガラスを撫でた。
◇
ある朝。
「さくらちゃん、さくらちゃん」
と、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
その声がポテトだと、さくらはすぐにわかった。
「ボクだよ、ポテトだよ」
「えええ!?ポテトって、しゃべれるの!?」
目をまんまるくするさくらに、ポテトは続ける。
「宇宙人に改造されたのか、異次元とつながったのかはわからない。
でも、しゃべれるようになったんだ」
普通なら驚くはずの状況なのに、
さくらは自然に受け入れた。
「じゃあ、これから毎日お話できるね!」
階下から、母親の鋭い声が響く。
「さくら、なにしてるの?
学校に遅れるわよ!」
「はーい、今行くー!」
「そのピンクのパジャマ、可愛いね」
ポテトに褒められ、さくらは笑顔になる。
「嬉しい。これ、お気に入りなの♪」
パジャマをベッドに放り投げ、
制服に着替え始めた。
ポテトは、
丸い目をぎょろりと動かし、
ぷくっと膨らんだ。
「さ、さくらちゃん!僕の前で着替えるなんて、ダメだよ!」
「え?いつも見てたじゃない?」
「でも、でも…」
笑いながらスカートを手に取った、そのとき。
ポテトの視線が、さくらの太ももに釘付けになる。
白い肌に、不自然に浮かぶ痛々しい痕。
まるで何かで叩かれたような、不規則な青あざ。
紫がかった縁と、中心が黄緑に変色した、古いあざだった。
ポテトのヒレが止まり、体が小さく震える。
「さくらちゃん…そのあざ、どうしたの?」
声は低く、慎重だった。
さくらは動きを止め、スカートで慌てて隠す。
一瞬、遠くを見るような目をしたが、
すぐに笑顔に戻った。
だが、その笑顔はどこかぎこちない。
「ん? これ?
転んだだけだよ。ポテトは心配しすぎ!」
明るく振る舞う声は、かすかに震えている。
ポテトは膨らんだまま、体を震わせた。
聞いてはいけないことだったのかもしれない。
それでも――あの痕は、ただ転んでできたようには見えなかった。
「さくらちゃん、誰かに意地悪されたら、ポテトにぜったい言ってね!
僕はいつも、さくらちゃんの味方だよ!」
その言葉に、さくらは一瞬、言葉を失った。
そのとき、頭の中に悍ましい声が響く。
《フグは嘘つきだ。絶対に信用するな》
視界がぐにゃりと歪み、水槽が大きく膨らむ。
まるで吸い込まれそうな感覚。
「さくらちゃん、大丈夫!?」
ポテトの声が錨のように、彼女を現実へ引き戻した。
「あれ…戻った?」
呟くさくらを見て、ポテトは言った。
「制服姿も可愛いね。これから、何して遊ぶ?」
「何言ってるの。今から、学校だよ」
「遊ばないんだ…残念」
「じゃあね、ポテト。帰ったらいっぱい話そうね」
さくらはそう言って、部屋を後にした。