第16話:裏切られた母の怒り
母親のアヤは一人、テーブルで冷めかけたコーヒーを啜る。
昨日の激情が嘘だったかのように、リビングには冷たい静寂が満ちていた。
いつもなら、この時間には階上から物音が聞こえ、
やがて、不貞腐れた顔のさくらが降りてくるはずだった。
しかし、今日はなんの生活音も聞こえてこない。
(まだ寝てるのかしら。学校、サボる気じゃないでしょうね…)
苛立ちが、じわりと胸に広がる。
「さくら、なにしてるの!学校に遅れるわよ!」
いつものように怒鳴りつけようとして、ふと口をつぐんだ。
昨日、セラピールームで泣き叫ぶ娘の姿と、
それを庇った、あのセラピストの顔が脳裏をよぎる。
(…少し、やりすぎたのかもしれない)
珍しく湧き上がった後悔の念に戸惑いながら、
アヤは階段を上り、さくらの部屋のドアをそっと開けた。
「さくら…?」
返事はない。
部屋はもぬけの殻だった。
まるで、誰も寝ていなかったかのように、
ベッドは綺麗に整えられている。
ランドセルがない。
アヤの視線が、部屋の隅にある
小さな水槽に吸い寄せられる。
そこには、ただ水が揺れているだけだった。
さくらが「ポテト」と呼び、
心の拠り所にしてきた赤いフグの姿がない 。
それは、さくらが自らの意思で、計画的に、
自分の大切なものだけを選んでこの家から去ったことを明確に意味していた。
「あの子まで…!私を捨てたっていうの!?」
裏切られたという思いが、灼けつくような怒りとなって
腹の底から突き上げてくる。
(お母さんがいないと、さくらはダメでしょ…?)
と、昨夜泣きすがった自分が、惨めに思い出された 。
(あの先生ね!あの女がさくらをそそのかしたんだわ!)
憎悪の矛先を見つけた瞬間、アヤの体はわなわなと震え始めた。
さくらを心配する気持ちは瞬時に消し飛び、
自分を裏切った娘と「敵」への憎しみが、
彼女の心を完全に支配していた。
アヤは受話器をひったくるように掴み、
震える指で、セラピースクールの番号を押した。
数回のコールの後、聞き覚えのある穏やかな声が応答する。
「はい、こちら……」
「あなたね!」
アヤは、相手が名乗り終わるのも待たず、金切り声を上げた。
「さくらがいないのよ!どこにやったの!?
あんたがそそのかしたんでしょ!?」
「お母様、落ち着いてください。さくらちゃんが?
一体、どういうことですか?」
しずか先生の動揺した声が、
アヤの怒りに、さらに油を注ぐ。
「とぼけないで!あんたが児童相談所なんて
余計なところにチクったせいよ!」
「私のせいだって、さくらに吹き込んだんでしょ!
全部、あんたのせいじゃない!」
「……さくらちゃんが、いなくなったのですね。分かりました
お母様、今はさくらちゃんを見つけることが最優先です。
私も、すぐに……」
「うるさい!あんたの差し金だってことは分かってるんだから!
もし、さくらに何かあったら、あんたを絶対に許さない!」
一方的にまくしたて、アヤは受話器を叩きつけるように切った。
しずか先生が何かを言いかけていたが、
もうどうでもよかった。
さくらがいなくなったのは、あの女のせいだ。
その確信だけが、アヤの心を支配していた。




