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魔性の恋  作者: 霜月ニ條
第一章
4/21



 その冬一番の冷え込みを記録した日。

 和昭は熱を出して寝込んでいた。外は雪がちらつき、窓の外は灰色一色で目を和ませてくれるものはない。しかも、父方の祖父が急に亡くなり、家中が慌ただしく、落ち着かない雰囲気に包まれていた。

 何せこの祖父というのが、年に似合わず元気な人だったのだ。それが、急の冷え込みのせいか突然心臓発作を起こし、あっさり亡くなったのである。危篤も何もなかった上、父の実家は山陰の旧家である。どう急いでも日帰りできる距離ではない。おかげで両親と紘一は、時ならぬ小旅行の準備をしなくてはならない羽目になったのだ。

「具合はどう?」

母がそう言って和昭の部屋に入ってきたのは夕方近く、出発間際のことだ。夫と息子、そして自分と最終的に三人分の支度と家事に手を取られ、病気のもう一人の息子をかまえなかったのだ。

「少し眠い」

間を見て熱を計らせていたが、三八℃から下がらない。今も体温計は三八.六℃を表示している。これではとても山陰は無理である。

「やっぱりお母さん残るわ」

「別にいいよ。気にしなくても」

「だけど」

心配そうに額に手を当てる。

「お父さんに言ってくるわ」

「いいよ。行かなきゃ又伯父さん達がうるさいだろう?」

「そんな事、あなたが気にしなくていいの」

母は眉の根を寄せ、嫌そうな顔をした。

 その時ドアをノックする音がした。美紀子である。

「お義兄さんが呼んでるわよ」

「そう」

「心配なら和昭君、私が見てようか?」

「あなたが?」

心底意外そうな声である。

「何よ、その言い方」

憮然として美紀子が言った。

「だって、あなた……おかゆも作れないでしょう?」

「それぐらいどうとでもなるわよ。レトルトだってあるんだから」

「それはそうだけど……」

まだ母は心配そうだ。

「そんなに私は頼りない?」

「そんな事はないけど」

いくら義父の葬儀だといっても病気の息子を放っておいて一晩以上家を空けるのが嫌なのだ。“良妻賢母”というより、実父母の心配性をそのまま受け継いでいるのである。

「母さん、父さんが早くしろって」

美紀子の肩越しに紘一が声をかけた。母は軽くため息をつくと

「じゃ、頼むわね、美紀子」

と言って階下へ降りていった。

 母が完全に下へ降りたのを見届けてから、紘一は振り返った。前に見える美紀子の背を探るような目で見る。そして、意識した明るい声で

「何、美紀子さんが看病してくれるって」

と言った。

「そうよ。あ、まさか紘一君まで頼りないなんて言うんじゃないでしょうね」

「言いませんとも。ただ、美紀子さんみたいな美人に看病してもらえるんなら、俺も熱出せばよかったと思って」

「まあ」

芝居じみた妙に白々しい笑い声が起きた。

「紘一。車呼んだから、下に居なさい」

「わかった」

返事をしてから美紀子と正面から目を合わせる。紘一は無性に嫌な予感がしていた。

「それじゃ、和昭の事、よろしく」

口元にだけ微笑を浮かべ、きつい視線で美紀子を見据える。それを受け、美紀子の方は明らかに挑発するような表情を作り

「安心していってらっしゃい」

と返した。

「和昭、ゆっくり寝てろよ。何も考えずにな」

「うん」

素直な弟の返事を聞き、柔らかい微笑を浮かべて、紘一は階段を降りていった。

 その背を見つめる美紀子の口元には、会心の微笑が刻まれていた。



 和昭は夢を見ていた。闇の中にぽつんと一人取り残され、出口を探してさ迷い歩く夢だ。自分を導いてくれる声は聞こえる。声の主は、沙姫のようにも、美紀子のようにも思えた。けれども、その声の方へ一歩踏み出した途端、そちらへは行くなと言う、もう一つの声が引き留めるのである。どちらの声を信じるべきか悩んでいると、再び女の声が呼ぶ。その繰り返しが延々と続くのだ。自分を取り囲む闇の重さに耐え切れず大声で叫んだ時、和昭は体が揺らされている事に気づいた。ゆっくりと目を開けると、心配そうにのぞき込む美紀子の顔があった。

「大丈夫?随分うなされていたけれど」

「ちょっと夢を見てて…」

「すごい汗。着替えた方がいいわ。ちょっと待ってて」

そう言うと美紀子はタオルを取りに行った。戻ってきて、

「パジャマはどこ?」

とクロゼットを開ける。

「そこじゃない。もう一つのタンスの上から二番目」

和昭が教えた場所から一揃いパジャマを出すと、和昭の足元に座った。

「さ、脱いで」

「え?」

当然自分で着替えるつもりでいた和昭は驚いた。同じ事を母が言っても驚いただろう。いくら熱が出ている病人だからといっても中二である。大人から見れば子供でも、本人は男を強く意識する年頃だ。

「いいよ、自分でするから」

「何、照れてるの?」

「そうじゃない」

「じゃ、どうして?」

そう言われて和昭は返答に窮した。

 紘一なら、何かおかしいと思っただろうし、美紀子の瞳を見てぞうっとしたに違いない。上気してかすかに濡れた瞳は、妖しい光を放っている。

 しかし和昭はその瞳に取り込まれてしまった。吸い込まれるように美しいと感じた。だから、美紀子の二重の問いかけも、彼女が過保護な両親に育てられ、その対応を当然のものとして受け入れてきた結果生じたものだと、理解したのである。

「別に照れなくていいじゃない」

冗談めかして言われた言葉に誘われて、和昭はパジャマの上を脱いだ。美紀子の手がゆっくりと和昭の汗を拭き取っていく。その度に少しずつ、和昭の鼓動は高まり、体が熱くなっていく。

「本当に綺麗ね、和昭君は」

和昭を正面から見て美紀子が言った。

「え、何?」

そう聞き返す声がかすかに上ずっている。美紀子はふわっと笑った。

「あなたは綺麗だって言ったの」

「え……」

「この髪も肌も顔立ちも全て。うらやましいぐらい綺麗」

美紀子はそう言いながら和昭の頬に手をあて、そっと髪を撫で上げた。和昭の心臓は、もはやドクンドクンと激しく脈打ち、白い肌を桜色に変えていく。

「そ……そんなことないよ。美紀子さんはもっと綺麗だ」

かすれた声がそれだけ言った。

「本当に?」

いつもよりわずかに低い声で美紀子が問う。その瞬間二人の間の空気の密度が上がったように感じられた。凄まじい程色気のある眼差しが和昭を捕らえる。

「あなたは綺麗です、美紀子さん」

恍惚とした表情で和昭が答える。自分を見つめる美紀子の顔だけしか目に入っていなかった。

(ああ、そうだ……この人は、綺麗なんだ)

妖しい瞳に見入られ、思考回路がショートしたようになっていた。ほのかに甘い薫りが和昭の鼻孔をくすぐる。美紀子がつけている香水の匂いだ。その薫りが、更に和昭から正気を奪っていく。

「可愛い子」

美紀子が艶然と微笑む。両手で和昭の頬を挟み、ゆっくりと口づけた。最初は軽く、そして少しずつ濃厚なキスになっていく。強くなる香水の匂いとキスが、媚薬となって和昭の中に染み込む。

 唇が離れた後、和昭は吐息がやけに熱く感じた。それが熱のせいではないことは、蕩けかけた頭にもわかる。

「美紀子さん」

吐息の熱さそのままに、女の耳元で囁く。

「美紀子さん……好きです……美紀子さん……」

繰り返し繰り返し囁きながら、和昭は美紀子を抱き締めて、その髪に顔を埋めた。信じられない程に体が熱い。体の芯からの疼きが、腕の中の“女”によって一層刺激され、息苦しかった。

「私のものになりなさい」

冷ややかにさえ聞こえるような、絶対を込めた命令のように言う。

「僕はあなたのものです。あなただけの…」

すがるように囁く言葉に、美紀子は背に腕を回すことで答えた。美紀子はゆっくりと、上体を倒していった。



 長いようで短い時間が過ぎた。美紀子はゆっくりと体を起こすと、健やかな寝息を立てている和昭を見つめた。口元には満足気な微笑が浮かんでいる。愛しさに満ちた指先が、和昭の前髪に触れた。そして、額に口づけようと顔を近づけた時

「……き……」

かすかな声が和昭の唇から漏れた。それは、寝息に紛れるかと思える程小さな呟きだったが、美紀子の耳には、はっきりと聞こえた。その瞬間を誰かが見ていたなら、美紀子の体から、陽炎に似たゆらめきが立ちのぼったような幻覚を見たかもしれない。

 一瞬体を強ばらせ、美紀子はベッドから降りた。薄闇の中に、見事なプロポーションの裸体が白く浮かび上がる。ぬめるように光る肌を惜しげもなく空気にさらし、脱ぎ散らかされた下着と、和昭の汗を拭ったバスタオルを手に階段を降り、浴室へ入った。

 シャワーが激しく全身を叩く。しばらく何もせず、水が弾けるままにしていた美紀子は、ゆっくりと体を洗った。浴室から出てもすぐには体を拭かず、新しいタオルを胸元に抱いたまま、水が体を伝うままにしていた。ふと目を遣ると、無表情な顔が鏡の向こうからこちらを見返している。濡れた髪が額に絡む様が、妙に艶めかしい。化粧をしていない美紀子の肌は、白磁のように滑らかで、硬質な印象を与える。口紅なしでも十分に赤い唇と、その無表情でありながら整った顔立ちは、日本人形の美しさを感じさせた。そこには、いつものあの毒々しいまでの妖艶さはない。むしろ、清々しさすら感じさせる容貌だ。

 美紀子は、鏡から目を離さずに、タオルで顔を拭った。そしてなおも、鏡の中の自分を睨みつけるかのように、ただじっと見続ける。やがて、もう飽きた、とでもいう風にふいと視線をはずした。

 ほとんど自然に乾いてしまった体を拭って下着を付け、自室へ入る。白い厚手のセーターを頭から被り、髪をかき上げた所で鏡台の上の口紅に目を止めた。手に取って執拗な程丁寧に塗り付ける。白い肌に唇の赤が目立つ。ただそれだけで、人形から血の通った”女“になった顔が、鏡の中にいた。美紀子は、唇の両端だけをうっすらと吊り上げた。そこに浮かぶ艶冶な微笑は“女”ではなく“魔性”のものだ。

 その微笑を見つめながら、美紀子はなぜか、耳の奥で誰かの哄笑を聞いたような気がした。



「和昭、起きなさい。おかゆできたから」

そう美紀子に起こされるまで、和昭は夢一つ見ずにぐっすりと眠っていた。さっき目覚めた時に感じた気怠るさはなく、熟睡の後の爽快感がある。熱も下がったようだった。

「調子はどう?」

「大分、楽です」

「適度に汗を流したのが良かったのかしら?」

そう言うと悪戯っぽくクスリと笑った。和昭がたちまち赤くなる。

「あの……」

「責任を取るなんて言わないでね。笑いそうだから」

何か言いたそうにしている和昭の機先を制す。

「私は、ただあなたが私のものだということをわかってくれれば、それだけでいいの」

低くかすれるような声で囁かれただけで、和昭は呪文をかけられたかのように、うっとりとした表情になる。

「はい」

「いい子ね、和昭」

素直に返事をした和昭の頤に手をかけ口づけた。

「さ、早く着替えて。ご飯にしましょう」

美紀子は、殊更安心させるような優しい微笑を浮かべる。幸せそうに頷く和昭を見つめる美紀子の中で、ぞわりと蛇が鎌首をもたげた。

 二人差し向かいの夕食を終えると、美紀子は

「明日はもう一日寝ていなさい」

と言った。

「美紀子さんは?」

「心配しなくてもちゃんと一緒にいてあげるわよ」

「でも学校は?」

「大学はもう春休みよ」

「そうか」

和昭が安心したように、にっこりと微笑んだ。“天使のような”と表現するに相応しいほど、満ち足りた美しい微笑だ。

「明日も一緒だなんて夢みたいだな」

「そう?」

「うん」

幸せそうな和昭をどこか冷ややかな目が見つめる。美紀子はその日、和昭のベッドで一夜を明かした。

 翌日、といってもすでに翌々日となった夜中の一時過ぎ、母が一人で帰ってきた。

「和昭、大丈夫?」

が、帰宅第一声である。その時、美紀子は折よくシャワーを使っている所だった。今晩は自分の部屋で休むつもりだったからだ。姉の性格からして、遅くても昼前には帰ってくるだろうし、自分は朝が苦手である。万が一、自分が和昭のベッドにいることが姉にばれたらどうなるか。それぐらいは十分にわきまえていた。

「和昭?」

風呂場の美紀子に気づかないまま、母のは和昭の部屋に入った。適度に寝乱れたベッドで息子が心地よさそうな寝息を立てている。どうやら熱は下がったようだ。母は息子を起こさないようにそのまま部屋を出た。布団の中で、彼が一糸纏わぬ姿でいることには気づかずに。



 父と紘一が帰ってきたのは、母に遅れること丸一日経ってからのことだ。遺産相続で随分ともめたらしく、常になく父は不機嫌だった。珍しく父は、紘一と酒を飲んだ。普段なら、紘一がブランデーを飲もうものなら、眉をひそめてグラスを取り上げるのだ。それが

「もっと飲め」

と自ら注いでくれた所からも、相当頭にきていることがわかる。

 おかげで紘一は、酒量の限界を越え、翌日は父と共に二日酔いで寝込むはめになった。

「全く……二人共いい年をして何て様」

と呆れる母にしても、心底からではなさそうだ。止めるどころか、氷を追加し、水を置いていったのは彼女である。

「参った……母さん、俺今日は学校休むからな」

ぼやきながら紘一は階段を下りた。捏ねる父をなだめ、ようやく解放されたのが朝の七時。それから、ついでとばかりに洋服の片付けやら何やらしていたものだから、八時を回ってもまだ、一睡もしていない。

「すごい顔をしてるな」

寝ぼけた頭に、茶化すような声がした。どうやら、もう和昭は起きてきているらしい。紘一は、しょぼしょぼした目が和昭を探した。

「何だ。お前、風邪直ったのか」

と言いながら、目の焦点を合わせて見た顔に、自分の表情が強ばるのを紘一は感じた。

 和昭が変わっていた。病後で面やつれしているからだけではない。明らかに何かがあって、それが和昭を脱皮させたのだ。

(あの女……)

美紀子が和昭に手を出したのだと、紘一は直感した。それほど和昭は変わって見えた。どこが変わったんだと問われれば、答えに窮したかもしれない。造作の一つ一つは同じだが、それの放つ光が違う。少年らしい無垢な美しさが、深みを増して別のものになっている。それは、男でも女でもなく、大人でも子供でもない、まるで別のもの。性も年齢も、もしかしたら時さえも越えた、いわゆる“絶対”と呼ぶにふさわしい“美”。

(人でなくなっていく……)

弟を見ているとそんな不安に駆られる。だいたい“絶対の美”などという表現を使うことに抵抗を感じさせない一四歳の少年など存在していいはずがない。

「和昭……」

お前あの女と寝たのか、などとまさか母の前で聞くわけにはいかない。寝ぼけている振りをして軽く目をこする。改めてみた弟の顔は幾分自分の知る弟のものだった。それでもどこか変わったという印象は拭えない。

「何?」

「いや。直って良かったな」

なんとも決まらない台詞だ。和昭が小馬鹿にしたようにふんと笑った。

「ゆっくり寝た方がいいんじゃない?まるで冴えないぜ、今の兄貴。いってきます」

そう言って身を翻した時、タイミングを計っていたかのように、美紀子が姿を現した。どこかへ出掛けるつもりなのか、クリーム色のオフタートルのセーターに赤いタイトスカートをはいて、腕には皮のハーフコートとハンドバッグをかけている。

「あ、おはようございます」

和昭が信じられないほど柔らかい微笑で美紀子を迎えた。紘一の胸の奥でどす黒い炎がちらつく。

「おはよう。あら、紘一君。おはようと言うよりおやすみなさいって言った方がよさそうな顔をしているわね」

まるで屈託のない様子で、美紀子が声をかけた。

「おはようございます。目的は達成したみたいですね」

「何のことかしら?」

「紘一、訳のわからない事を言ってないで寝たら?」

当惑したような母の言葉が、なぜか胸の中に棘を刺した。

「訳がわかるように言ってやろうか?」

「ぜひ聞きたいわ」

そう言ったのは美紀子だ。

 紘一は、美紀子が挑発するような目で、傷つくのは私だけ、と問いかけていることに気づいた。

(たとえ和昭が一四歳でも、あいつは男で自分はか弱い女だってのか?)

寝不足で据わった目付きがさらに凶悪になる。

(殺せるなら殺してやりたい……)

美紀子はその殺意を平然と受け流し、邪気のなさを演じた微笑で

「ゆっくり寝てきなさい、紘一君。いつものあなたらしくないわ」

と言ってのけた。

「何だと?」

殺気に怒気が加わる。元来、紘一は短気ではない。というよりポーカーフェイスが板についているから、怒っていても、それを表に出さないでいられるのだ。

 だが、今朝は思うようにいかなかった。確かに紘一らしくなかった。感情のコントロールができない。初めて“兄弟”を越えて和昭に魅せられた時から、身体の奥で育ててきた獣が牙を剥き、理性を喰い散らす。すぐにも殴りかかりそうになるのを、かろうじて押さえ込んでいるような状態だ。

 自分でも何がそこまで駆り立てるのかわからなかった。和昭を奪われたという事実が、彼自身が意識している以上に衝撃を与えたとしか思えない。視界が赤く染まるような錯覚を覚え、美紀子の方に手が伸びかけた。

「いい加減にしろよ、兄貴」

のぼせた頭に、唯一静けさをもたらす声がした。紘一は、ゆっくりと、弟の方へ向き直った。

「和昭……まだいたのか」

「当たり前だろう。それより美紀子さんに絡むのは止めろよ。さっさと寝た方が良い」

そういう和昭は怒っているようにも、心配しているようにも見えた。

「俺が心配なのか?それとも美紀子さんが心配なのか?」

子供じみた言葉が口をつく。

「両方だよ。まったく、こんなに酒癖悪かったっけ?」

間違えようのないほどはっきりと、呆れた表情をして、和昭は紘一の腕をとった。

「ほら早く。これだけ身長差があったんじゃ、肩貸すのも大変なんだから」

間近で見ると、一層内からの輝きを感じる。本来あるべき姿に一歩近づいたようでもあった。

「いい。一人でも大丈夫だ」

先程までとは別人のようにかすれた小さな声で、紘一は、和昭の腕を弱々しく払いのけた。 ゆっくりと、一段一段階段を上りながら、紘一は敗北感を味わっていた。

(俺が抱いてもあいつは変わったのか)

(あの女が変えたのか)

(血があいつを変えたなら、俺はあの女よりも血が濃いじゃないか)

(失いたくなかった)

(大切にしたかった)

(弟だから)

(守りたかった)

(独り占めしたかった)

(抱きたかった)

(抱けなかった)

(愛している)

(欲しい、今でも)

(弟ダカラ)

(弟デモ)

(和昭)

(愛シイ)

まとまらない様々な思いが心の中で渦巻く。それらを一言で言うなら“後悔”という言葉になるのだろう。ただ何を後悔するのか、それは紘一にもわからなかった。

 想いの混沌の中で紘一は眠りについた。そして見た夢は、女の哄笑が響く原始の闇を一人さ迷う夢だった。

 その夢の中、まず一人。そう言う女の誇らしげな声を聞いた気がした。

 そして紘一の中で何かが壊れていく。粉々に砕け散る。目覚めた時、そのかけらが胸の奥深く突き刺さった痛みを覚えるだろう。すぐに忘れるその痛みがやがて激痛となって全身を貫くことなど、今の紘一には知る術もなかった。



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