三
ごく当たり前の日常が過ぎていた。変化があったのは、美紀子を見る和昭の目ぐらいである。初めて見た時の強烈な印象が薄れたからだ。
落ち着いてから見た美紀子は、どこまでも美しい“大人の女”だった。まさしく“妖艶”という言葉の似合う女性だと思った。確かに沙姫を思わせる美貌の主ではあったが、まとう雰囲気が対極に位置しているように感じることもあった。二人共、自由奔放に生きることを許された人種であることに間違いはない。しかし、沙姫の瞳にはなかったはずの邪気を美紀子に感じた。それは、年齢の違いだけで片付けることのできない、もっと根源的な何かに起因しているようだった。
「美紀子さんってさ、何か特別な感じがしない?」
一度だけ、そういう言い方で兄に尋ねてみた。
「特別?」
「何て言うのかな。少し怖いというか、綺麗すぎるというか」
「ああ、確かにそういう所はあるな」
「やっぱり」
「お前、ああいう女の事何て言うか知ってるか?」
「何?」
「傾城、って言うんだ」
「傾城って、国を滅ぼすような美女のことだろう」
「そう」
和昭は眉をひそめた。
「あんまり良い例えじゃないね」
「まあな。で、傾城にも二つのタイプがあるんだ」
「どんなの」
「まず、お人形さんタイプ。ただ、綺麗なだけ、本当にそれだけの女。自分の気持ちも意志も何もない。男を愛するのだって、男がのぼせ上がるから愛し返すだけなんだ。もう一つが女王様タイプ。あの人はこっちだな。男に愛される自分、っていうものを良くわかってる。強烈に“自分”と“自分の欲しい物”があって、その二つのためなら何でもできる。いわゆる“悪女”と呼ばれるタイプだな。本当に怖いのは、人形タイプだろうよ。自覚がないのに周りを破滅させていくんだから。だけどハタ迷惑なのは悪女タイプだ。意識的に嵐を起こして周囲を巻き込む」
「でも、別に美紀子さんは何もしてないじゃないか」
「まだな」
「まだ、ってそういう言い方は良くないと思う」
「どうして?」
「どうしてって」
うまく言い返せない。心の奥底にある本能的な何かが、兄の言葉にうなずいている。その一方で、一人の女性として意識しはじめている人を“悪女”呼ばわりされたままでは、どうも腹が収まらない。
「だけど悪女の方が魅力があると思う」
「そうだろうな」
意外にも兄はあっさりと認めた。が、すぐに人の悪い笑いを浮かべ、
「だけど、自分の手に余る女はだめだぜ、和昭。女は溺れるものじゃない、溺れさせるものだ。ま、子供のお前には、まだわからないだろうけどな」
と言って、和昭の髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回した。
「何だよ、自分だってまだ一七歳じゃないか」
「普通の一七歳じゃないんだよ。俺は」
「どういう意味さ」
和昭がムキになってつめよった。紘一の目が一瞬だけ真剣な光を宿す。が、すぐにそんな自分さえごまかすように大声で笑い、
「冗談だよ」
の一言で和昭の追及を断ち切った。
そんな兄弟のやりとりなど知らない美紀子は、少しずつ新しい生活に慣れ、自分のペースをつかみ始めていた。
新生活が始まってから一週間。まず、一人目の男が美紀子を迎えに来た。同じ大学のサークル仲間だというその男は、白のカローラを乗り回す普通の男子学生だった。美紀子を横に乗せられるだけで幸せを感じる、そんなタイプに見えた。和昭も何度か顔を合わせたけれど、“いい人”というイメージしか抱けず、どうも美紀子の恋人には物足りない感じがした。
(あれなら、僕の方がまだあの人に似合う)
内心そう思うぐらいで、失礼だと思いながら“下僕”の印象を拭えずにいた。
それから二カ月程した日曜日。クラクションの音に外を見ると、見慣れない車があった。黒色の車体にある紋章からフェラーリだとわかる。
(父さんの知り合いかな)
それにしては無作法だな、と思い、逸らしかけた目が止まった。いつもより清楚に見える服を着た美紀子が、助手席に乗り込んだからだ。
(あの男とは別れたのか)
納得すると同時に、何か不快なものが感じられた。押しのけられない石が、青くくすぶる炎を伴って和昭の胸の奥に沈んでいく。
運転する男の顔が見たくてたまらなかった。クラクションだけで美紀子を呼び出し、清楚に見えるように装わせる“男”がどんな男か知りたかった。
(どんな生活をしている人なんだろう。性格は?)
知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちだった。前に来ていた男には、勝ったという自信がある。根拠は美紀子の目だ。カローラの男を見る目より、自分を見る目の方が愛情があると思った。傍から見ていても、美紀子が付き合ってやっている、そばにいさせてやっている、と感じられる付き合い方だった。だが、今度は違う。前のようにデートをすっぽかすどころか、クラクション一つでいそいそと出掛けて行く。
(本命なんだ)
打ち明ける前に失恋してしまったようだ。それでも構わない、という気持ちもある。どちらにしろ美紀子は母の妹、すなわち叔母であり、近親者である。法的に見て、まず許される恋ではない。ただのあこがれでなくてはならない女性だ。
(どうしたって僕のものになる人じゃない)
わかっていても苦しかった。苦いものが込み上げてくる。何か沙姫まで奪われてしまったような、そんな気がした。
大きくため息をつく。諦めと苛立ちと嫉妬。言葉にできない様々な思いが溶け込んだ胸の中の塊のかけらが、口からこぼれ落ちたように思えた。
体をベッドの上に投げ出し、枕に顔を埋める。
(美紀子さん)
閉じた瞼の裏で、美紀子が見知らぬ男の腕に抱かれている。初めて、心の底から美紀子が欲しいと思った。あの車の男から美紀子を取り戻せるような“男”になりたいと思った。
(くそっ)
くやしさと嫉妬が激しく渦巻いていた。想像の中で美紀子が男に抱かれ、歓喜の声を上げている。どす黒い欲望の火が体の芯を焼き尽くすようだった。
(美紀子さん)
無意識の内に手が体の中心に伸びる。やりきれない思いが、屈折した快感となって和昭の中を駆け巡る。絶頂を迎えた後、手を濡らす自分の吐き出した液体を感じた時、やけに惨めに思えた。