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その週の日曜日。初めての雪が降る寒い日だった。朝の九時に、美紀子から二時過ぎに着くという電話があったおかげで、紘一・和昭共に友達と遊びに行く約束を反故にされ、二人してさんざん母に文句を言った後だ。
「どんな女だと思う?」
余程気になるらしく、紘一が和昭に言った。
「知るかよ。顔を見てないのは、僕も同じなんだから」
あの朝の事を今だに根にもっている和昭は幾分素っ気なく応じた。
「何なんだろうな。すごく妙って言うか、嫌な予感がするんだよな、俺」
「何だよそれ」
「わかんねぇ。ただ、第六感っていうやつ?あれが働いてるんだよ。良くない事があるって」
「何言ってるんだよ。馬鹿らしい」
そう言うと和昭はさっさと兄に背を向けて自分の部屋へ引っ込んだ。
(やっぱり兄貴も何か感じてるんだ)
ベッドに寝転がって兄のセリフを思い出す。和昭自身、ここ三日続けて奇妙な夢を見ていたせいだ。
沙姫の夢だ。といっても今までのような過去の忠実な再現ではない。彼女はあの時よりも髪が伸び、大人びた表情をしていた。ただ鮮やかな金の瞳と神秘的な雰囲気は変わらないままで。その彼女が訴えるのだ。私はここよ、と。
(私はここよ……和昭。私はここにいる……)
か細い声が必死で和昭を呼んでいた。闇の中に白く浮かび上がったその姿は、初めて出会った時よりも美しく、そして頼りなげに見えた。
(沙姫、大丈夫。今、行くから)
いくらそう叫んでも彼女の耳には届かないらしく、頬を涙が伝い始める。抱き締めて、大丈夫だ、と言いたくてもできない。もどかしさにたまらない気持ちにさせられる頃、朝を告げる目覚ましが鳴るのだ。やたらと疲れる夢だった。
(一体、どうしたっていうんだろう。こんな夢を見るなんて)
そう思っていた矢先、美紀子が引っ越して来ると言い、兄が嫌な予感がすると言う。何かが起こる前兆なのだろうかと思う。
(美紀子さんってどんな人なんだろう)
関係がないと思いながら、ついつい考えてしまう。あと三時間もすれば当人に会えるとわかっていても、気になるのは兄と同じだ。必要以上に胸騒ぎを覚えていた。
「おかしいわね」
母がそうつぶやいたのは三時を回った頃だ。昼食後、どうせすぐに来るのだから下にいろ、と言われ、兄弟共に部屋へ戻れず、いい加減不貞腐れていたところだった。
「紘一、ちょっと駅まで迎えに行ってきて」
「嫌だね」
「もう。和昭、行ってきてくれる?」
「パス」
「何よ二人共!」
怒った母は、きつく二人を睨みつけると
「あなた、行って来てくださいな」
と父にふった。
「別に行ってもかまわないが、駅から家まで一本道のようなものだ。迷うとは思えないがね」
「あなたまでそんな事を言って。もういいわ、私が行ってくるから。その代わり三人で乾燥機の中の洗濯物を畳んでおいてちょうだい」
と乱暴にエプロンをとって玄関先まで行った時、タイミング良くチャイムが鳴った。
ドアが開く音がする。続いて、若くはしゃぎたがる母の高い声とは違う、落ち着いた声が紘一の耳に届いた。
「まったく、この子は。一時間も遅れて来るなんて」
「本当にごめん。荷物を送る手配に少し手間取っちゃって」
「そんなの放っておいたらお母さん達がしてくれるわよ」
「してくれない。私が家を出るのに反対だから」
「そうかしら」
母は、久しぶりに会った妹と楽しそうに話をしながら居間へ入ってきた。
「はい。この子が美紀子よ。紘一、和昭、挨拶しなさい」
「どうも、美紀子です。今日からお世話になりますけど、どうぞよろしく」
そう言って微笑した若い叔母を見て、紘一は鳥肌が立つのを感じた。背中の中程まで伸ばしたつややかな黒いストレートの髪。肌の白さがまぶしい程で、大きな黒々とした瞳の端には軽く青いシャドウが入れてあった。それが実に彼女に似合っており、ワインレッドの口紅と共にたまらなく妖しい、大人の女を効果的に演出していた。
(和昭に似てるな)
否定しようのない美貌を認めた。が、同時に自分がいかに美しく、男を引き付けるか心得尽くしているような姿に反感を覚えた。その反感が、自分の中の“男”の意地だという自覚もある。
(こいつはとんでもない女だ。ただの好き者じゃない、男の精で生きていくような女だ)
頬に軽く口づけされただけで真っ赤になる弟の和昭と違い、紘一は早熟である。とっくに“男”となっている分、目も肥えている。一目で祖父母の心配の種を察知した。
(和昭がこの女に当てられなきゃいいが)
そう思いつつ、良い女にしか見せないとっておきの微笑を浮かべ、
「紘一です。帝院高の二年です、よろしく」
と言った。そして続いて挨拶するはずの弟をちらりと見て愕然とした。
和昭は魂を抜かれたように、ただ呆然と美紀子を見つめていたのだ。
(嘘だろう?いきなりかよ)
というのが紘一の正直な気持ちである。
「おい」
と小声で呼び、軽く肘でつついてもピクリとも動かない。
「で、こっちが和昭です。東南大附中の二年です」
ととりあえずその場を笑ってごまかした。
「どうしたのかしら?」
「さあ。こいつ初だから、美人に弱いんですよ、多分」
「へえ」
と言っておかしそうに笑う美紀子の目が、一瞬光る。
(狙いつけやがった、この女)
「こいつもそろそろ年下の彼女の一人ぐらい作ればいいんだけど」
と予防線を張ってはみたものの
「かえって年上の方がいいのよ、こういうタイプは」
と返された。
「そうかな」
ごまかしてはみたが、不安は残る。
(まだ正気に戻ってないのかよ)
ちらりと和昭を見てさらに不安が深まった。
「まったく仕方のない子」
呆れ返った声で母が言う。
「美紀ちゃん、とりあえず部屋へ案内するわ」
二人がその場を離れてから
「おい」
と肩をつかんで強く揺さぶった。ようやく紘一の方を振り返ったが、夢から醒めたばかりのような顔をしている。
「何、惚けてるんだよ」
「え?」
「え、じゃねえよ。何て顔してるんだ、お前」
「うん」
「うんって」
紘一はあきらめに近いため息をついた。
「もういないぜ、美紀子さん」
「ああ、本当だね。部屋へ帰るよ」
会話が成立しているのが不思議なぐらいだった。紘一は、自分の顔が情けなく歪んでいくのを感じた。
「和昭」
「何?」
自分を真正面から見ながら、弟はその瞳に何も映していない。
「もういいよ。さっさと部屋へ行けよ」
「うん」
父のあきれた、そして紘一の泣きそうな眼差しを背に受けて、和昭は階段を昇っていった。
(沙姫かと思った)
和昭は、自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んでもまだ、激しい動悸を感じていた。
美紀子を見た瞬間、時間が止まった。
(大人になって沙姫が僕に会いに来た)
夢を見続けていたせいか、そんな突拍子もないことを考えた。もちろん、そんな考えはすぐに消えたけれど、和昭は美紀子から目を逸らす事ができなくなっていた。どこが特に似ているわけではないと思う。しかし直感的に、沙姫だ、と思った。そう思った時、美紀子に恋をしていた。沙姫の身代わりとして。もう二度と会えない山の女神=沙姫を秘めた女性であるという理由で。和昭の心を占める女性はただ一人、沙姫だけだったのだ。
こんな思いに囚われている間、当然周りのことなど気にも止めていない。だから兄が何と言ったのか全然知らない。肩をつかまれ、強く揺さぶられてやっと正気に戻った後も、今度は胸の激しい鼓動を聞かれるのではないかと気掛かりで、一刻も早くその場を立ち去ってしまいたかった。
父と兄が十分に怪しんでいるとは思っていない。というよりそこまで頭が回っていない。早く沙姫との再会の余韻に浸りたい気持ちと、鼓動を静めるために一人になりたいという思いが先に立った。
(美紀子さんか)
その夜、夢の中で共に山を駆けた相手が美紀子なのか沙姫なのか、和昭には分からなかった。
ただ幸せな時間を過ごせたことだけが、翌朝目覚めた時、かすかな断片として感じられた。
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