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魔性の恋  作者: 霜月ニ條
第一章
1/5



 静かな夜が、そこにはあった。樹木を渡る風の音だけが山を満たしている。不自然な程静かな夜であった。

 天空にある十六夜月が白く輝き、樹木の間にある闇をさらに深く変えて行く。わずかな月明かりでは、足元さえおぼつかない。山の闇がいつもより深い、静かな夜が、そこにはあった。

 月が南天を過ぎた頃、その静かな夜に不思議な笛の音が響いた。物悲しくも美しいその音色は、どこかで聞いたことがあるような、遥かな山に似合いの旋律となって風を渡る。山の全てがこの笛の音のために静かであったのかと思えるほどに、その音色は山に染み渡り、時間さえも止めるようだった。

 そして少年はただ一人、何物も動かないその山の中を歩いていた。家族でキャンプに来ている少年だ。その夜に限って眠れず、少し散歩するつもりでテントを出てきた。それだけだった。ところが、ふいに笛の音が聞こえてきたのである。

(こんな夜中に誰が吹いているんだろう)

少年の好奇心が疼いた。少年は、月明かりを頼りに笛の音の主を探す事にした。

 どれぐらい歩いただろうか。それまで辺りを覆っていた樹木がふいに途切れた。見れば、眩しいほどの月光の中、一つの影があった。その影は、草原の中程、何本かの木がそばに生えている、少し大きな岩に腰掛けて笛を吹いていた。

 嬢々と響き渡る笛の音がぴたりと止んだ。曲が終わったらしい。少年は思わず拍手を送った。

「何をしているの」

そう咎める声は幼い。どうやら今年で九歳になる少年とそう大差がないようだ。木の影に入っているために、少年からはその容姿を伺い知ることはできない。ただ、闇の中に浮かぶ色から、どうやら白いワンピースらしき物を着ていることは判る。

「え?あの、えっと……」

「何?」

気の強そうな声に気圧されて、元々内気なところのある少年は、うまく答えられない。

「その、何か笛の音が聞こえたから……それで」

「笛の音が聞こえたの?」

声の主は随分驚いたらしい。腰掛けていた岩から飛び降りて、少年の方に近づいてきた。

「あなた、名前は?」

そう尋ねられた少年は、とっさに答える事ができなかった。場所を移動したために、一身に月光を浴びた声の主の姿に、心を奪われていたからだ。

 声の主は、少女だった。肩の辺りで揃えられた黒髪、月よりも白く光る肌、血を吸った後であるかのように赤い唇。そして、山猫のように鮮やかに輝く金の双眸。完璧なまでに整ったその顔立と明らかに“人”とは異なる瞳の美しさは、少年から束の間、言葉を奪い去るには十分な程神秘的であり、圧倒的なものだった。

「どうしたの?」

少年の戸惑いをよそに、少女は小首をかしげ、無邪気な表情で少年の目の前で止まった。

「あ……いや……あの……」

少年は真っ赤になって下を向く。少女はきょとんとした顔をして

「ねえ、名前は?」

と少年の顔を覗き込んだ。少年は耳まで赤くして、

「……」

と何か言った。聞き取れなかった少女が

「え?」

と聞き返す。

「槙田、和昭」

少年は顔を上げ、少女としっかり目を合わせるとそう名乗った。少女は、にっこりと笑った。

「和昭君っていうんだ」

少年は、こくりと頷いて

「き……君は?君は何て名前?」

と勇気をふりしぼって、金の瞳の美少女に尋ねた。

「私?……沙姫っていうの」

「沙姫……」

大人びた微笑を浮かべ少女が名乗った。月が一際白く輝き、吹き抜けた一陣の風が大きく樹木を揺する。葉ずれの音が大きなざわめきとなって、和昭の耳に響いた。



(ああ、またあの時の夢か……)

けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止めてから、和昭は大きく溜め息をついた。枕につっぷし、時計を睨みつける。七時ジャスト。低血圧気味のせいで起きてから家を出るまでに最低一時間はかかる。今日は珍しくすんなりと目が覚めたが、すぐに起き出す気にはなれなかった。

(久しぶりに見たな……)

小学校三年の夏、家族でキャンプにいった時の出来事。あまりに強烈なその体験は、四年を経てなお心に残っている。そして四年の間、幾度もその時の事を夢に見た。夢はいつも体験の忠実な再現で、不思議な美少女・沙姫の金の瞳と、その美しさが繰り返し繰り返し胸の中に刻み込まれていった。

(沙姫か)

夢の続きを思い出の中から拾い上げる。あの後、沙姫と共に夜明けまで遊んだ。自分の事を“山の姫”だと言った少女は、初めて他人に見せるという秘密の場所に連れて行ってくれた。それは彼女が治める“山の民”の長老達でさえ知らない、“姫”である自分のために作られた場所だと言った。

(あの後、沙姫は何て言ったんだっけ)

いつも悩む。秘密の場所で遊んだ後、テントまで送ってもらった時だ。確かに沙姫は何かを言った。しかしどうしてもその言葉が思い出せない。もしかしたらその後のキスの印象が強すぎるせいかもしれない、と思ったこともある。だが、口だけがパクパク動いているのに声だけ聞こえない、という夢を見てからはそれも理由にならなくなった。誰かがその瞬間だけ耳を塞いでしまったようで、ひどく落ち着かない気分にさせられた。

(何だろう……)

思い出せない分、とても大切な事を言われたような気がして仕方ない。苛立ちというよりあきらめに近い溜め息をついた。

(沙姫……)

黒い髪と白いワンピースを風になびかせ、彼女は山を駆け回った。子供の狼だという、少し大きな子犬にしか見えない銀毛の獣を連れていたことが思い出される。生まれてすぐについた額の傷から“蒼月”と名付けられたのだと言っていた。金の瞳を輝かせ、ころころとよく笑う沙姫は本当に楽しそうで、その笑顔を思い出すだけで幸せになれた。

「和昭、いつまで寝てるの!早く起きなさい」

階下から母の声が響く。

(ちぇっ……)

せっかくの夢の余韻が簡単に乱されてしまった。不貞腐れて時計を見るといつの間にか七時二五分を指している。母が怒るのも道理だ。和昭はのそのそと布団から這い出した。

 クロゼットを開け、カッターを出す。制服のネクタイを締めるためにクロゼットの鏡と向き合う。見慣れた自分の寝ぼけた顔が見返してきた。母親譲りの色の白い肌、赤い唇と大きな目が目立つ顔だ。茶色がかった瞳と肌の白さのせいで、初対面の人は大概ハーフの少女と間違える。可愛い、と言われるのは少々気に入らないが、整った部類でも上位に入るであろうこの顔立は嫌いではなかった。実際、バレンタインの度に受け取るチョコレートの数と、それに伴う同級生からの冷やかしの多さはこの顔に起因するものだし、それは決して不快な事ではなかったから。

「いい加減に起きなさい」

さらに苛立ちを増した母の声がした。

「今降りる」

大声で怒鳴り返してから、和昭はクロゼットの扉を閉め、階下へ降りていった。

 洗面所で顔を洗って食堂に行くと、すでに父は席を立とうとしており、兄の方も食べ終わって、コーヒーをすすっているところだった。

「お早いお目覚めで」

兄の紘一がいつもの軽い皮肉を込めた挨拶をした。父に似て色黒な兄は、和昭よりも三歳年上なだけの割りに落ち着いた、精悍な印象を与える顔立と雰囲気を持っている。和昭とは見事に対照的な外見の兄弟だと言ってもいいだろう。

 そんな兄をちらりと見て、和昭は自分の席について朝食を採り始めた。一方の紘一は、今だに眠そうにしている弟が、とりあえずトーストに手を伸ばしたのを見てからおもむろに

「ところでさ、母さん」

と話し出した。

「その人、いつ来るの?」

「その人、なんて言い方しないでちょうだい。私の妹なんだから。それに、親戚に対してそんな言い方するもんじゃないの」

「だけど俺、会ったこと覚えてないんだぜ?他人と同じだよ」

「紘一。これからは一緒に住むのよ。他人と同じなんて言わないの」

「あのさ、何の話?」

少しの間をおいて、和昭が口を挟んだ。

 本当なら母と兄の会話に割り込んでいるような暇はない。が、どうも自分の知らないところで、自分にも関係のある事態が進行しているらしい。この辺りで口を挟んでおかないことには、納得のいく結論を得られそうになかった。

 母は唐突な問いかけをした和昭をわずかに咎めるような目で見、紘一は素知らぬ顔でコーヒーを口にした。

「何を言ってるの。昨夜話したでしょう」

「昨夜?」

「そうよ。ご飯の時」

「こいつ、昨夜は塾で帰ってきたの十時回ってたぜ」

「あら、そうだった?」

紘一の指摘に何とも呑気な台詞を口にした後、母は、自分の十五歳違いの妹が来週の日曜日に引っ越してくることを告げた。

「美紀子さんが?」

名前ぐらいは知っている。相当な美人らしいがまだ会ったことはなかった。いや、話では二歳の時に会っているらしいが、当然記憶にはない。

「どうして?」

当然の疑問だろう。何でも美紀子の通う大学は、三回生から全員二年前に完成した新学舎で授業を受けることになっているそうだ。その新学舎というのが、母の実家からだとバスの乗り継ぎやら何やらで二時間以上かかってしまうらしい。それがこの家からだと二〇分で済むというのだ。

 二〇歳になる今年まで、家事一つしたことのない末娘を下宿させる気にもなれず、かといって片道二時間の通学にも今一つ乗り気ではなかった祖父母が、もう一人の娘の嫁ぎ先を思いついたのは当然かもしれない。

 そうは思ったものの、とりあえず

「ふうん」

とだけ返事をし、和昭は大急ぎで残った朝食を片付け家を出た。

「おい」

途端に先に家を出たはずの兄に呼び止められた。

「何してるんだよ」

「お前を待ってたんだよ。たまには一緒に行こうぜ」

兄の台詞に和昭は眉をひそめ、不信感をあらわにした。今までこんな事は一度もなかったのだ。

「んな顔するなよな、傷つくじゃないか」

大袈裟に表情を崩し、紘一は一向に傷ついた様子もない声で言うと和昭の肩に手を回した。

「どうしたのさ、一体」

和昭はますます混乱した。兄と肩を組んだ事など、中学に入ってからは皆無と言ってもいい。いつのまにか頭一つ分上にまで差をつけられた兄の顔をついまじまじ見てしまう。

 視線の先で予想以上に真剣な表情をしていた紘一は、

「どう思う。今朝の話」

と切り出した。

「どうって……別に」

「おかしいと思わないか?いくら家事をしたことがないからって下宿させないなんて。それなら最初から家から出さなけりゃいいんだよ。家からは出すけれど一人暮らしはダメって、何か変だぜ」

「そうかな?」

「そうさ」

紘一は絶対の自信をもって断言した。それに対し和昭は

「ううん……単に心配なだけだと思うけどな。祖父ちゃん達って過保護な心配性だから」

と答えた。小学校の時、偶然遠足の前日に遊びに来ていた祖父母にさんざん世話を焼かれ、閉口したことを思い出したからだ。

「う……」

紘一も和昭と同じような経験をしたことがある。その時の思い出から和昭の言葉に説得力を感じたらしく、難しい顔をして黙り込んでしまった。

 二人共それきり何にも話さず駅の近くまで来た。その時、ふいに和昭は駅の側にある女子高の生徒達の視線が妙に自分達の方に向けられている事に気づいた。

(何だろう)

今まで確かに視線を感じることはあった。が、今日はどうもいつもと違う気がした。すると

「絶対恋人だって」

という台詞が耳に飛び込んできた。

(何だ?)

驚いた和昭が反射的に振り返る。言った女子高生達は、

「馬鹿、聞こえちゃったじゃない」

など口々にして笑いながら逃げて行った。視界には紘一の腕だけが残る。

(あ……)

にぶい、というより極めてノーマルで平均的な男子中学生である和昭はその時、ようやく視線と台詞の原因であるものに気づいた。

「何だ?」

いきなり腕をはらわれた紘一は、驚きを素直に声にして弟を見た。弟は何やら赤面し

「いつまで人の肩に手を回しているんだよ

」と言った。

「は?」

「……変な目で見られてるんだよ、僕達。さっき恋人だと言われてたんだぞ」

「おお」

分かったのか分からないのかよく分からない返事をして、紘一はぐるりと辺りを見回す。確かに何組かの女の子の集団が慌てて視線を逸らせたのが分かった。紘一は、何とも言い難い複雑な、強いて言うなら人の悪い微笑を浮かべて、己が弟を改めて見た。そして

「それじゃあな」

と言って軽く頬に口づけ、駅の改札を入っていった。

 きゃあー、というけたたましいサイレンのような女子高生の嬌声の中にただ一人残された和昭にできたのは

「何を考えてるんだよ、バカ兄貴!」

と叫び、耳まで赤くして駅の横道を駆け抜けていくことだけだった。

「……バカ兄貴か」

弟の叫びを背中に聞いた紘一は、吐息と共にそんなセリフをつぶやいて、片手をポケットに突っ込んだ。

「そうとしか思わねえよな、普通」

暗い目でもう一言つぶやく。それから、とっくに走り去ったであろう弟が、もしかしたらまだ、と淡い期待を抱いて振り返る。予想通り、和昭はいない。求める姿のない改札の向こう側にせつなさを秘めた眼差しを投げかけてから、紘一はゆっくりと階段を昇っていった。




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