王子が令嬢の屋敷に行くと、王太子妃は少し変わった
「アーサーはどこ?」
美しくも厳格な王太子妃ジュリアナの問いかけに、王子付きのメイド達は粛々と答えた。
「デボラ様のお屋敷でございます」
ジュリアナのこめかみがピクピクと動き、眉間にしわが寄せられる。
(確かに今日は、学問の講義や馬術や剣術の稽古もないお休みの日だけれど。休みの日は予習や復習に充てるべきだと何度も言っているのに、遊びに行くだなんて……)
デボラの屋敷は王都の中心地から外れた閑静な住宅街にある。そこまでアーサーが一人で行けるわけがないから、側近達が気を回したのだろう。
月に一、二度、アーサーはデボラのところに遊びに行く。
アーサーを彼女に会わせないように、ジュリアナはそれとなく周囲に何度も釘を刺しているというのに、誰も聞き入れてくれない。
隣国の王家から嫁いできた自分が軽んじられている……というより、それ以上にデボラが重要視されているせいだ。
ジュリアナの目下の悩みの種であるデボラは、さる高貴な血の流れる私生児だった。
上流階級という社会に属してはいるが、貴族ではない。しかし誰からも丁重に扱われている。そう、王太子妃である自分を差し置いて。
扱いづらい、厄介な女……それがデボラに対するジュリアナの評価だった。品位を疑われるので口に出したことはないが、デボラなど早く死んでしまえばいいと思ったことは一度や二度ではなかった。
「王太子妃殿下、どちらへ?」
「デボラ様のお屋敷よ。アーサーを迎えに行くわ」
ジュリアナは毅然と言い放ち、王宮を後にした。
*
「あらぁ、ジュリアナさん。どうかされたのかしらぁ?」
庭の木陰にデボラはいた。彼女の膝に頭を乗せ、アーサーは安心しきった表情で寝息を立てている。アーサーに膝枕をするなんて、ジュリアナもしたことがないのに。
「アーサーを迎えにまいりました」
湧き上がるのは怒りか、嫉妬か。胸に渦巻く激情を飲み込み、ジュリアナは貴婦人らしく優雅に微笑んだ。
「そうなのねぇ。でも、アーサーはこの通りお休み中だからぁ、もう少し待っていただけるかしらぁ。疲れて寝ちゃったのよぉ」
デボラはアーサーの頭を撫でた。勝手に触らないでと叫びそうになる。
「デボラ様」
ジュリアナは呼吸を整える。
「何度も申し上げております通り、アーサーに会うのはおやめになっていただけないでしょうか」
「そう言われてもねぇ。わざわざ来てくれたのに、追い返すのは可哀想でしょお?」
それに、とデボラはジュリアナを見つめる。
「いつだって親からも教師からも厳しくされているのだからぁ、息抜きの時間は必要だと思うのぉ」
「ですから、無責任に甘やかさないでいただきたいのです!」
「いやだわぁ。ちゃんと責任は持っているわよぉ」
デボラはクスクスと笑う。間延びした話し方も、ふやけたようなその笑みも、ジュリアナは大嫌いだった。
「あのねぇ、アーサーは、王族である以前に人間なのよぉ」
そんなジュリアナの心中を知ってか知らずか、デボラは澄んだ目をしている。
「立派になってほしいと期待をかけるのが、悪いことだとは言わないわよぉ。でも、ただ上から重荷を乗せていくだけだとね、いずれ潰れて歪んでしまうわぁ」
「……ッ」
デボラに言われ、ジュリアナは言葉に詰まった。
『あなたはいずれこの国の王になるのです。この程度のこともできなくてどうするのですか?』
アーサーが何かに失敗したのなら、それを諫めるのが自分の役目だと信じていた。
『試験で満点を取った? では、次も満点を取れるように励んでください。一度達成できたのならばできますわよね?』
アーサーが調子に乗ってつけあがらないように、どんなときでも厳格に接するのが大切だと考えていた。
『あなたはわたくしの言う通りにしていればいいのですよ』
アーサーには完璧であってほしい。交友関係、時間の使い方、何もかもに口を出した。自分に従わせるのが正しいのだと思っていた。
ジュリアナに意見する者は正面から正論で叩き潰してきた。ただ一人、デボラ以外は。
「それにねぇ、アーサーには、あの高いお城から国民を見下ろすだけじゃなくてぇ、国民と同じ目線で国のことを考えるようになってほしいのよねぇ」
デボラはそっと目を伏せた。
「わたくしはアーサーのことが大好きよぉ。あなたもそうでしょう、ジュリアナさん」
「当たり前です!」
「なら、もうちょっとアーサーに優しくしてあげてもいいんじゃないかしらぁ。あなたも王族である以前に、人間なんですからねぇ」
遠くで子供達の笑い声が聞こえる。デボラの屋敷で暮らす孤児達のものだろう。彼女は自分の屋敷を孤児院として、多くの孤児達を受け入れていた。
「甘やかすだけが愛ではないのと同じようにねぇ、厳しくするだけが愛ではないのよぉ」
ジュリアナは何も言い返せなかった。
「んぅ……」
アーサーが身じろぎをして、ゆっくりと目を開く。
「あらあら、王子様はお目覚めみたいねぇ」
アーサーの目にかかった前髪を整えて、デボラは柔和に微笑む。
「……ははうえ?」
ぼんやりとした視界の中で、アーサーはジュリアナの姿を捉えた。
「迎えに来てくれたんですってぇ。今日はもうお城に帰りなさいなぁ。またいつでもいらっしゃい。今度は、孤児院のみんなと一緒にパンケーキを焼きましょうねぇ」
「うんっ!」
王太子の息子として王位継承権第二位の座につく、御年四歳の王子アーサーは明るく無邪気な笑顔を浮かべて起き上がる。その笑みは、ジュリアナの見たことのないものだった。
「またあそぼうね、おばあちゃん!」
「はぁい。またねぇ」
先々代の国王の落胤、齢七十を超す未婚の老嬢は、顔をしわくちゃにして笑いながら手を振った。
*
「デボラ様のところで何をしてきたのです」
王宮に向かう馬車の中で、ジュリアナはアーサーに問いかけた。少年は背筋をピンと伸ばして穏やかな微笑を浮かべている。あの年相応の輝く笑顔はそこにない。
「こじいんの子らと、王都のしさつをしてまいりました。お金のかちを学び、けいざいじょうきょうのはあくのため、自分で買い物もしたのです。しきんはデボラ様からいただきました」
どう言えばジュリアナが怒らないか、彼なりに考えて小難しい表現をしているのだろう。
ジュリアナがため息をつくと、王子の表情にわずかな怯えが混ざった。
「素直に答えて構いません」
「……えっと……友達と、街でたんけんごっこをして……おなかがすいたから、おやつを買って、みんなで食べました……」
アーサーは委縮したように目を泳がせる。
「おやしきにもどって、おにごっこして……ぴかぴかのどろだんごをつくって……おえかきもしました……」
「道理で服が汚れているのですね」
「ごめんなさい……」
謝るぐらいなら、最初からデボラの屋敷に行かなければいいのに。ついいつもの癖で厳しく叱りつけようとしたジュリアナだったが、アーサーの服のポケットから紙の切れ端が覗いていることに気づいた。
「それはなんですか?」
「……」
隠していてもどうせ怒られると踏んだのか、アーサーは素直に折りたたまれた紙を取り出す。
受け取って広げてみた。へたくそな絵が描いてある。大きな二人の間に挟まれた小さな人の絵。「ははうえ」「ぼく」「ちちうえ」と書いてある。
(この子は王子だというのに、庶民のような遊びを覚えてくるだなんて。こんなくだらないものを描く時間があるなら、もっと有意義なことに使えばいいのに)
もう二度とデボラの屋敷に行く気がなくなるように、ジュリアナはその紙を破ろうとした。
けれど、何故かできなかった。
「よく描けていますね。今度はその、ぴかぴかの泥団子とやらも作って見せてください。ただし、しっかり勉強をしてからです」
「えっ? は、はい!」
抑圧的で厳格な母からの意外な言葉にアーサーは目を丸くしながら頷く。一番驚いているのはジュリアナ自身だった。