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第2章 嵐の中の静寂

1 潜伏

東京湾岸・廃コンテナヤード。

夜の海風は塩と機油の匂いを運ぶ。

真柴蒼汰は錆びたキャンピングカーの天井に寝袋を敷き、

星がほとんど見えない都心の空を仰いでいた。


(風は、俺の呼吸に合わせて鼓動する……でも俺の心拍が速いほど暴れる)


横でうずくまる九重響子は、

遮光カーテン越しに届く街灯の明滅でノートPCを打ち続けている。

未読DM 3800件。

「私に世界の終わりを語らせろ」

「一兆円で座標を教えろ」

「悪魔め」

液晶に走る罵倒と取材依頼の津波に、彼女は無表情で返信を振り分けた。


蒼汰は尋ねる。


蒼汰「……怖くないのか。俺を匿って、捕まったら共犯なのに。」


響子は指を止め、

胸元の割れた水晶ペンダントをそっと撫でた。


響子「十年前、福島で妹を亡くしたの。

“安全”という政府発表を信じて避難が遅れた。

私は“情報”が命を奪う瞬間を見た。

だから今度は――情報で人を守りたい。」


蒼汰は言葉を失った。

脳裏には――炎天下の避難所で、幼い妹を抱えて立つ少女の写真が焼きつく。

それは九重響子がかつて発表した原発事故ルポの一枚だ。

あの透徹したカメラの視線の先に、今の自分がいるのだと蒼汰は悟った。


蒼汰「……俺の力を公にすれば、人々はもっと混乱するんじゃ?」


響子は首を横に振り、静かに言い切った。


響子「いいえ、蒼汰くん。噂は真実より速い。

だからこそ私たちは噂よりも精密な真実を、先に世に出すしかないの。」


彼女は電源ボタンを長押しし、画面を落とした。

薄闇に二人の呼吸だけが残る。

蒼汰は初めて、風鳴りより静かな夜を感じた。



2 小さな生活、大きな世界

夜明け前、コンテナヤードの闇を自衛隊ヘリのローター音が引き裂いた。

蒼汰は寝袋をはね飛ばし、「また来た」と低くつぶやく。

胸骨の奥がビリッと震え、空気の揺らぎを告げる。

響子はノート PC を閉じて顔を上げた。


響子「高度は二百メートル。偵察コースだけど、熱源は探ってるはず」

蒼汰「俺が眠っていても、風は勝手に反応する。まるで――」

響子「心拍の裏声ね。抑えるより、リズムを測った方が早いわ」


同じ時刻、渋谷では突風がショーウィンドウを粉砕し、

銀の破片が朝日にきらめいていた。

SNS には《風魔術保険、初月無料》の広告が走り、

噂だけが始業ベルより先に街を回遊していく。


日が射す。狭い車内で、二人はインスタント味噌汁を啜る。

蒼汰がスプーンをつまむと、金属が勝手にくるりと回り、

湯面に小さな渦が生まれた。


蒼汰「……見た?」

響子「ええ。撮ったわ」スマホのカメラ音。

蒼汰「撮らないでくれ。こんなの公開したら――」

響子「公開はしない。数値化するの。

   “噂より精密な真実”って言ったでしょう?」


ノート PC の株価ボードが真紅に染まり、

“気象リスク指数 新設”のテロップが走る。

蒼汰は渦の止まらない味噌汁を見つめ、ため息を落とした。



午後の秋葉原。

人波に紛れて歩きながら、響子は帽子を深くかぶる蒼汰を横目で見る。


響子「似合ってるわよ。俳優のオフみたい」

蒼汰「逃亡犯の間違いだろ」

響子「じゃあ、映画の主人公だと思えばいい。

   追われる物語は、観客を引きつける」

蒼汰「……俺は観客なんて要らない」


鏡張りショーケースに映るのは〈風をまとう青年〉ではなく、

肩をすぼめた逃亡者。

その瞬間、遠い上海で高校生が「オレも飛べる」と屋上の縁に立ち、

転落ライブが炎のように拡散した。


蒼汰はポケットで拳を握った。

響子はそっと肩を叩き、


響子「噂は速い。だからこそ、あなたが生きている理由を先回りして語るの」

蒼汰「意味なんて、まだ俺自身も分からないのに」


黄昏。港区の裏路地でスマホを落とす。

屈むと同時に空気が吸い込まれ、看板と紙屑が渦を巻く。

HUDがETHER 59 → 54 を赤く点滅。

額を撃つ頭痛に蒼汰が蹲ると、響子が駆け寄り背を支えた。


響子「残量が半分を切ったわ。今日はもう使わないで」

蒼汰「使いたくて使ってるわけじゃ――」

響子「分かってる。でも気をつけて」


はるかニューヨーク。

気圧データを誤読した高頻度取引プログラムが停止し、

取引フロアに赤色灯が回る。


蒼汰が吐く一呼吸は、

海を越え都市の血管を震わせる。

彼の知らぬところで地図に皺が刻まれ、

人々はその歪みを「今日の天気」と呼び始めていた。



3 追跡者

深夜一時過ぎ。

コンテナヤードは海霧に包まれ、街灯の橙が鉄の山にぼんやり滲んでいた。

蒼汰が寝返りを打った瞬間、耳の奥で薄い膜が震える。

――金属モーターのかすかな唸り。

「風が警戒してる……異物だ」

寝袋を蹴り、彼は身を起こす。冷えた床が足裏に粘つき、心拍の高鳴りとともに

胸骨のセンサーが〈風〉のざわめきを拾った。


薄明りの車内で掌を突き出すと、空気の粒が手の輪郭に沿って密度を増す。

スライド窓の外、赤外線スコープを載せた小型クローラードローンが

外壁を這い、レンズの緑光だけが息のように瞬きながら近づいてくる。

プロペラブレードの微乱流が彼の呼吸リズムと混線し、

耳鼓膜が風切り音をエコーのように反射した。


響子「警察の識別コードだけど型番が十年前。

    アーマープレートが市販品――誰かの私物よ」

蒼汰「何者だ……」


彼は指を絞り、気圧を一点へ収束させた。

ゴン、と鈍い破裂音。突風がV字に折れ、ドローンは持ち上げられたまま

鉄枠へ叩きつけられ、スパークの火花が闇に弾ける。

ETHER 50 → 47

視界右下に赤い数字が跳ね、同時に胃が裏返るような吐き気と耳鳴り。

膝が半歩沈み、車体のサスペンションが軋んだ。


響子「わかったでしょう。浪費するたびに減るだけ。

“相殺”できる場所へ行こう。世界を巡って、

オーブの息吹が最も強い地点を計測するの」


蒼汰は返す。

蒼汰「旅、ね……。でもあなたは記者だ。

    俺を政府に渡せば身を守れるはずだろう?」

響子「私は“市民に開かれた真実”しか信じない。

    情報が隠蔽された時、妹は間に合わずに死んだ。

    同じ轍は踏ませない……私自身の贖罪よ」


響子は言い切ると、胸元の割れた水晶ペンダントをそっと握りしめた。

月明りがヒビのラインを銀に縁取り、

車内は一転、潮騒と彼女の心音だけを残して静寂に沈む。


蒼汰はゆっくりと息を吐いた。

冷えた空気が肺を満たし、外では倒れたドローンのバッテリーが

小さく火花を散らしては消えている。

数値は 47/100――限りのある灯。

彼は覚悟を決めた瞳で響子を見つめ、

「行こう。自然の極点で風を感じに」 と低く告げた。


鉄臭い夜気の中で、二人の決意だけが静かに温度を帯びていく。


4 世界の割れ目

東京都・三鷹

朝の園庭には、ツツジの香りと子どもたちの笑い声が満ちていた。

保育士 山口恵理子(28)は画板を並べ、絵の具皿に空色を足す。


「きょうは〈風神様〉を描いてみようね。雲のうえで、風がぐるぐる!」


五歳の涼太が両腕を回し、友だちは転がるように真似をした。

紙の上では真柴蒼汰のシルエットが、稲妻を背負ったヒーローへ変わる。

しかし恵理子の視線は窓ガラスへ――

一週間前、突風で割れたガラス片が床に散ったときの悲鳴が耳に残る。


(もう一度あれが来たら、私はこの小さな背中を守れる?)


園児たちの歓声と、胸の奥で鳴る薄い不安が重なり合った。


ロンドン・カナリー・ワーフ

シティの高層窓を雨斑が走る。

トレーダー リアム・カーター(35)は六面モニターの中央で

新設された Storm Volatility Index(SVX) のライブチャートを睨み、舌打ちした。


「魔術師一人がアルゴを脱線させるとか、どんなブラックジョークだ」


サーバールームの冷気が背広の襟から染み込む。

売買ボットは蒼汰の気圧データを変数に組み込み、

市場全体の呼吸は、東京の空と同じリズムで上がったり下がったりする。


ふと隅のサブ画面に目を走らせた。

テムズ川の流速モニターが、0.2%だけ沈んでいる。

取るに足らない誤差。

リアムは気にも留めずキーボードを叩いたが、

その数値こそ――まだ眠る〈時律オーブ〉が初めて刻んだ心電図だった。


ヴァチカン

聖ペテロ大聖堂の奥、蝋燭の灯りが揺れる静寂。

神学生 マリア・ジョルジア(22)は、

祈祷の列から離れた柱陰で小冊子を胸に押し当てた。


『風の使徒と七つの印』――信者が密かに配るパンフレット。

教義外の預言に目を通すだけで叱責は免れない。

けれどページをめくる指は震え、瞳は逃げ場を失う希望に濡れる。


(神は奇跡を禁じたわけじゃない。救いがあるなら、手を伸ばしたい)


聖歌が高らかに響き、

その余韻のなかでマリアは冊子をローブに隠した。

祭壇の金色よりも強い、若い祈りの炎が胸を照らす。


5 遠い炎の揺らぎ

太平洋中央、ハワイ島の夜は黒曜石のように深く、

キラウエア火口の火映えだけが赤い脈を刻んでいた。

山腹にある USGS ハワイ火山観測所。

研究員 エイミー・カヴァナーは薄いコーヒーをすすりながら、

地震計の長周期ログをモニターへ呼び出す。


「またノイズかな……」

愚痴混じりの独り言。

だが波形をフーリエ解析にかけた瞬間、

スペクトルの 12 Hz に鋭い棘が立った。

同期して立つ複数のピーク――想定外の規則正しさ。


「トリガーは微動じゃなくて何か別の…?」

同僚のケヴィンが肩越しに覗き込み、

「計器の誤作動さ」と軽く笑う。

が、エイミーは手元のタブレットを操作し、

東京湾上空の気圧ロガー・オープンデータを呼び出した。


重ね合わせた二つのスペクトルが、

歯車同士の歯列のように完全な相似を描く。

脈打つキラウエアの12Hz と、

蒼汰が風柱を立てた時にだけ現れる12Hz――

二つの峰は、遠距離の共鳴を疑うには十分すぎる一致だった。


エイミー「風と……火が、同期してる?」


彼女はグラフをキャプチャし、

専門家チャンネル #geo-atmos-sync に

《Possible resonance @12 Hz between Tokio pressure spike and Kilauea micro-tremor》

と貼り付けた。

Slack の通知音が夜更けの研究室に連打され、

世界各地の地球物理学者が即座にスレッドへ飛び込む。


「データソースは?」

「誤差補正済み?」

「Magic-wind memeに踊らされるなよ」


議論は夜通し沸騰したが、

確証と呼べる計測例は他に見つからず、

チャット欄は未明に近づくほど熱を失った。


モニターの向こう、

キラウエア火口は依然として脈を打つ赤。

火の呼吸は大気の震えと密やかに律動し、

誰にも気づかれぬまま、

火山灰より重い前兆を空へ押し上げていた。


6 旅の決意

夜明け前のベイエリアは、まだ街灯のオレンジが残り、

潮と排ガスとわずかな朝露の匂いが混ざり合っていた。

蒼汰はキャンピングカーの屋根に靴音を立て、

ゆっくりと立ち上がる。冷たい風が頬を撫で、首筋の産毛を揺らした。


蒼汰「……行こう、響子さん。

    俺の風が世界を壊すか守るか、自分の目で確かめたい」


屋根の下で、響子がノート PC をパタンと閉じる音。

助手席へ回ると、ハードケースにカメラ三台、

折り畳み気象ドローン、そして厚い調査ファイルを積み込む。


響子「ルートはまだ白紙。けれど“自然の極点”を北太平洋側から時計回り。

    最初の目的地は――そうね、気圧と微動の同期が噂になってる……」

蒼汰「ハワイのキラウエア、か」


響子のスマホが震え、暗号化メッセージがポップアップする。

HELIO S : Helix Protocol ‒ Stage α

画面を見た彼女は一瞬だけ眉をひそめ、すぐ無表情に戻した。


蒼汰「“ヘリックス”って?」

響子「取材ネットワークの呼び名よ――いずれ話すわ。

    大事なのは、あなたを“観測対象”じゃなく“当事者”として守ること」


彼女は胸元の割れた水晶ペンダントをそっと握りしめる。

その仕草には、蒼汰さえ踏み込めない痛みが透けた。


響子(心中)

(蒼汰を守る。それが妹と、“まだ姿を見せない誰か”への契約――)


エンジンが低く唸る。キャンピングカーはゆっくりと動き出し、

曇りがちな東京の空を背景に高架を抜けていく。

バックミラーには灰色のビル群が遠ざかり、

蒼汰の HUD に ETHER 46/100 が小さく脈を打つ。


蒼汰「残量は半分以下。でも、風はまだ――静かに息を潜めてる」

響子「だからこそ今、遠くまで飛べる。

    太平洋を越えた先で“火の女神”が目を覚ましつつある。

    彼女を怒らせない方法を、私たちで探しましょう」


蒼汰は窓を三センチ開け、流れ込む潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。

その先に広がる大洋の彼方――

赤く脈動する火口と、まだ名もない暴風の胎動をまぶたの裏に描きながら。


エンジン音が朝の静寂を切り裂き、旅の始まりを告げた。

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