第1章 揺れる列島、走る世界
初投稿です、16章で完結する予定です。
閲覧いただきありがとうございます、感想等頂けますと励みになります。
1 突風の午後
春にしては肌寒い雨雲が垂れ込めた二〇二四年四月一九日、午後三時二十二分。
多摩川の堤防に腰を下ろした真柴蒼汰は、大学院の研究発表から逃げるようにスケッチブックを広げていた。
「気象制御の未来像──実測とシミュレーションの乖離」
そんなタイトルの修論下書きが、研究室のホワイトボードにまだ赤ペンで殴り書きのまま残っている。
吹き付ける川風は濁流の匂いを運び、背後の桜並木では最後の花びらが泥に溶けていた。
蒼汰は鉛筆を止め、灰色の雲間にぽっかり開いた青色を見上げた――まるで誰かが空に穴を穿ったかのような、完璧な円形の蒼。
次の瞬間、“瑠璃色の雫”が空から滴り落ち、彼のスケッチブックの真ん中で跳ねた。
卵より少し小さい球体。表面は濡れているように艶めき、芯から淡い光を放っている。
(ガラス玉……じゃない。何だ、これ)
球体は微弱な振動音を立てながら、蒼汰の鼓膜の奥で囁いた。
——「名を刻み、空を統べよ」
気がつけば、蒼汰は折りたての彫刻ナイフを握っていた。
誰かに操られているわけではない。好奇心と本能が、思考より速かった。
M・S・SOTA――
透き通る表面に刻んだ瞬間、風景の彩度が跳ね上がり、五感が飽和した。
大気が収縮し、頭上の雲がスパイラルを描き、雷鳴が川岸へ垂直に落ちる。
自分の鼓動と大気の脈動が同期する感覚――それは「支配」ではなく「合流」だった。
(これが……風?)
彼が左手を横に払うと、堤の上空に溜まった雨雲が真っ二つに裂け、
陽射しがスポットライトのように都市へ降り注いだ。
世界最初の〈自然魔術師〉が誕生した瞬間だった。
2 全人類への“宣告”
蒼汰の視界が眩い白でフラッシュアウトしたのと同時刻、
全地球79億の脳内に別々の言語で、だが同一の意味を持つ三行の文字列が滑り込んだ。
〈七つのオーブが世界に散在する〉
〈名を刻む者は、その自然を操る魔術師となる〉
〈最初のオーブは東京の青年が手にした〉
情報ではなかった。体験だった。
記憶の書庫に勝手に挿し込まれたページのように、誰もが「昔から知っていた」かのように理解した。
ロンドンの証券マンは電話を取り落とし、
ムンバイの路上市場では祈祷師が空を見上げて叫び、
ハバナの老画家はキャンバスを破った。
東京・渋谷スクランブル交差点。
大型ビジョンがフリーズし、砂嵐のなかに蒼汰の顔写真と名前が浮かび上がる。
誰が流した映像かは分からない。だが群衆は一斉にスマホを掲げ、
#StormArtist のハッシュタグが尻尾に雷をつけた獣のように世界を駆け回った。
3 失われた平穏
内閣情報調査室は十五分で非常招集。
「対象は無害の可能性もあるが、最悪“戦略級兵器”」
防衛省は即時に多摩川河川敷をヘリで捜索し、
警視庁は高解像度の衛星写真をAI解析に回した。
しかし蒼汰は、既に雲に溶けていた。
風を「感じ」れば、空気抵抗も質量も自分の一部になる。
無意識に体を前傾させただけで、気圧差が背中を押し、
彼は人間の限界Gを遥かに超える速度で上昇していく。
(逃げているわけじゃない。追い風に、ただ乗っているだけだ)
やがて成層圏に近い高度で、彼の網膜に青い数値がポップアップした。
ETHER : 83/100
そこに説明は無い。だが勘づく。
魔術を使えば使うほど数字は減る──そしてゼロになれば何かが起こる。
蒼汰は急降下した。雲を突き抜け、東京湾の夜景がシャンパンの泡のように揺れる。
着地したのは埠頭近くの倉庫街。
高架下の薄闇から、カメラを構えた一人の女性が姿を現した。
「――九重響子。フリーのジャーナリストよ。
逃げ回るより世界に真実を曝け出したほうが、生存率は高いわ」
響子の瞳は恐怖より先に好奇心で光っていた。
彼女はスマホを差し出した。録画はもう回っている。
蒼汰は深呼吸し、カメラの奥にいる“世界”へ向けて口を開いた。
「俺は兵器じゃない。これは――
この力は、空を愛するすべての人間のものだ。」
その言葉がネットに流れた時点で、
政府の拘束作戦は世論の矢面に立たされ、
“Storm Artist VS 世界各国” の構図が出来上がった。
4 旋風の逃亡者
翌未明。品川埠頭を包囲した特殊部隊のヘッドセットに、突如として突風の悲鳴が走った。
風速六十メートル超。倉庫のトタン屋根が剥がれ、ドローンが遠心力で吹き飛ぶ。
暗視ゴーグル越しに見えたのは、風圧を翼のように纏った蒼汰のシルエット。
「上空に逃走! 追跡ドローン展開――」
しかし大型ドローンは上昇三十秒で逆風に煽られ、
プロペラごと捻じ曲げられて炎上落下。まるで空気が“意思”を持っていた。
蒼汰は雲の裏側へ身を隠しながら、ETHER残量が再び減ったことを感じる。
67/100。
逃げるたびに、使うたびに、残りは削れていく。
(このままじゃ、いずれ墜ちる。俺は“風”じゃなく“人間”だ)
そして思い至る。
オーブは七つ。自分と同じ立場に立つ者が、世界のどこかで同時に生まれつつある。
もし彼らが“力”を争えば、このゲージがゼロを示すとき――
雲より上ではなく、人類が墜落する。
蒼汰は風を静め、雲海を漂うグライダーのように滑空して、新天地を探した。
彼に残された時間、そのカウントダウンを誰が刻んでいるのかを知らないまま。
5 世界の目覚め
その頃、太平洋を隔てたアメリカ合衆国。
ホワイトハウス地下の状況室では国家安全保障会議(NSC)が緊急招集され、
衛星偵察写真に映るハワイ・キラウエア火山の“赤い脈動”に目を凝らしていた。
「炎陽のオーブがあそこにある、確率87%」
「先に掘り出すのはどこだ? 我々か、それとも……中国か?」
同じ刻、国連総会ビルでは非常会合が開かれ、
「オーブは全人類の共有財産か、各国の主権対象か」で議論が割れる。
議場のスクリーンに表示された世界地図には、七つの仮想座標が真紅に光っていた。
だけど国際政治より速く、
人類の欲望が走り出す。
・数億ドルを投じる投資ファンドが、アマゾン奥地へ企業傭兵を派遣
・ロシアと中国の連合潜水艦隊が、マリアナ海溝を囲い込む
・暗号通貨コミュニティが、オーブ発見者にビットコイン100万枚の懸賞を宣言
世界規模のゴールドラッシュが、わずか数時間で立ち上がった。
6 疾風前夜
夜明け前。東京湾の上空二千メートル。
蒼汰は風の静寂を破らぬよう、雲海に指先で円を描く。
彼の背中には九重響子が装備したハーネスが繋がり、
二人分の息遣いが凍てついた空を白く染めた。
響子「いい? あなたの言葉はもう世界中に拡散したわ。
でも“力”は言葉より雄弁。あなた自身のストーリーを、
あなたのペースで語るの。」
蒼汰は頷き、胸の内でETHER残量を読む。
65/100――まだ、余裕はある。
そして東の空、うっすらと朱が滲む地平に目を凝らす。
七つのオーブが世界を巡り、やがて必ず交わるその未来を想像しながら。
(俺たちは嵐の中心で、
ただ風を鎮める“鍵”を探す旅人になる――)
雲の切れ間で、黎明の一条が彼の頬を照らした。
新しい章を告げる風が、まだ誰のものでもない地球を滑っていった。