ネリーへ捧ぐ
純粋に、真っ直ぐであっても、燃え滾る炎は揺らめく。
それはどこかを、彷徨うようで。それは誰かを、追い求めるようで。
これは、鎮魂ミサ曲なんかではない――生きるもの全てにそう言い聞かせる。
目の前の炎がはじき、彼は声を詰まらせ囁いた。
「愛、しているよ」
亡骸に言うには遅すぎる。その言葉を口にするのは遅すぎる。その言葉に気づくのが遅すぎる。
それでも叫ばずにはいられなかった。叫ぶことでしか、今を乗り越えられそうになかった。
焼かれる彼女の前で、彼は鍵盤を叩き続ける。この村で一番最初に奏でたあの曲を、あの時以上に力強く奏で続けた。
ひたすらに、泣きながら――
到着して間もなく、村に響き渡るピアノの音色。優雅で心地のいい音色であるにもかかわらず、村人たちの顔色は青ざめていった。
その異変に気づかないほど、ネリー・アベルは鈍感ではない。
「この曲は、そんなに縁起の悪いものなの?」
フードを被った見慣れない少女に村人は一瞬戸惑ったが、その目を村の外れにある小高い丘へと向けた。
「縁起の悪いなんてもんじゃないぜ、旅のお嬢ちゃん。これは“悪魔の音色”なんだ。あそこに小さな家があるだろ。そこに住んでいる悪魔が奏でているんだ」
村人の話を聞きながら、ネリーはその小さな村を見渡した。質素で、家々の間隔が広いためか、伸び伸びと日々を送っているように思えた。しかし、住人の表情を見る限り、この村に平和な空気は漂っていないことがわかる。
「よし――」
怯え続ける村人を前に、彼女は自分の胸に拳を当てた。
「私、こう見えても、世界を旅してきた“戦士”なの。だから、その“悪魔”を懲らしめてくるわ」
体に似合わない大きな荷物を背負い、丘へと向かう少女を、村人は止めることができなかった。
小高い丘には小さな家がポツンと建てられていた。音色は家の裏から聞こえてくる。
揺らめく炎を前に、彼はピアノを弾き続けていた。四方八方に体を揺れ動かし、捻じれ伸びきった髪の毛が後を追うように乱れ続けている。ちらりと見える頬は痩せこけていた。
ネリーが口を塞ぐと、美しくも猟奇的な音色がピタリと止んだ。
「誰だい、君は?」
窪んだ目がこちらを向き、ネリーは思わず後ずさりした。
「わ、私は、ネリー。ネリー・アベルよ」
「そうか。僕は、ヴィート・サンジュリアーノ。アベルさん、僕は訪問者を歓迎しない主義なんだ。悪いが、帰ってもらえないかな?」
立ち上がったヴィートは、彼女を気にせずピアノに立てかけておいた棒を手に取った。まるで近づくな、とでも言っているかのように激しく燃え滾る炎に近づき、その中を棒でまさぐってみる。すると、二つ三つと小さな塊が出てきた。
半ば残念そうな表情に見える彼を前に、ネリーはその場で立ち尽くしていた。
焦げ付いた塊を持ったヴィートは彼女の横を通り過ぎるなり、再び口を開いた。
「僕は、どうやら“悪魔”らしいからね、関わらない方がいい」
表側へと回る彼が作った灰色の空間を、ネリーはしばらく見つめていた。
戦士である自分は、悪魔である彼を懲らしめなければいけない。村人たちを脅かす悪魔を、懲らしめなければいけない。それだというのに、なんで――
小さな塊を見つめる彼の瞳が脳裏に焼き付かれたまま、ネリーは急いで彼の後を追った。
「ねえ、お話しよう」
すでに閉ざされてしまったドアをノックし、声を張ってみた。
しかし、中から返事はない。
「私、世界を旅して回ってるんだけれど、今日は泊まるところがないの」
「人の話を聞こうよ。僕は訪問者を歓迎しない。宿屋はなくとも親切な人は沢山いる。迷惑だから他をあたってくれよ」
彼の返事に、ネリーはかざした拳を下ろした。
ついに何も言葉を発しなくなった少女に、ヴィートは窓の外を覗き見た。体に似合わない大きな荷物が、村の方へと戻っていく。その寂しそうな後姿に、彼は笑みを零すことができなかった。
演奏を終えると歓喜の声と盛大な拍手が送られてきた。すごく、心地がいい。彼は深々と頭を下げ、鑑賞客の讃称を精一杯受け止める。“奇跡の音色”と謳われる彼のコンサートは毎度のことながら満席で、演奏を終えると共に拍手が喝采する。顔を上げた彼は、とても満足そうで、とても幸せそうだった。ふとこちらを向いたかと思うと、次第に遠ざかっていく。彼の手を振る姿が、次第に小さくなっていく。
なんで――
目を覚ましたヴィートは、天井に向けて手を伸ばしていた。
なんて細く、弱々しい手なんだろう。改めてそう思う指先を折りたたみ、ヴィートはその手に引かれるようにして上体を起こした。しばらく、頭をかきながらどこというわけでもなく、壁のしみを眺めていた。
昨日は演奏を途中で止めてしまったが、今日はピアノを弾こうとは思えなかった。
村へと帰って行く彼女の後姿が脳裏を過ぎった。かと思うと、突然ドアが叩かれる。
「ねえ、お話しよう」
半ば呆れ気味にドアを開けていくと、ヴィートの目に笑みを浮かべるネリーの姿が映った。どうやら、無事宿泊させてもらったらしく、今日はあの荷物を背負ってはいなかった。
「何度も言うようだけど、僕は君を歓迎するつもりはないよ」
「ここって、意外にも電気が通ってるんだね。洗濯機も使わせてもらっちゃった」
「だから、人の話を聞こうよ。どう足掻いても、家に入れるつもりはないよ」
「じゃあ、外でお話しよう」
そのつもりもない、とヴィートがドアノブに手をかけようとするが、ネリーはその手を引いた。彼の手はひどく細くて、ひどく冷たかったが、そんなことは気にならなかった。
家の前の腐った切り株に彼を座らせ、ネリーは雑草の生えた地べたで足を伸ばす。
「話って、何するんだよ」
口を尖らせ、唐突にそう言うヴィートに、ネリーは顎に指を当てた。
「悪魔のことや私のこと、かな?」
「悪魔?」
ヴィートが薄い片眉を吊り上げて見せると、頷いたネリーは彼を指差した。
「あなたのことよ。村の人たちはみんなそう呼んでるよ。知らないの?」
「知ってるけど、アベルさんまでそう呼ばないでくれよ。ちゃんと、僕の名前を教えただろ?」
「そうだっけ? 忘れちゃった」
全く持って困った顔をしていない。それどころか嬉しそうだ。ネリーの表情に、ヴィートは溜息を吐くことさえもやめた。
「僕の名前は、ヴィート・サンジュリアーノ。悪魔だなんて呼ばないでよね、アベルさん」
「私のことは、ネリー、でいいよ。だから私も、ヴィート、て呼ぶね」
遠慮という言葉を知らないのだろうか。呆れ混じりにヴィートは頷いて見せた。
すると、スッと白く小さな手が彼の視界に入り込んでくる。
「私たち、もう友達だよね、ヴィート」
頷くでもなく、ただ、なんとなく差し出された手に自分の手を重ねてみた。小さな手は包み込んであげると、ほんのりと暖かく柔らかかった。
それから、ネリーは毎日ヴィートの家を訪問した。そのおかげなのか、ここ数日間、あの音色は村に響き渡らなかった。
村人が少しの喜びを見せる反面、ネリーもヴィートと話をすることが楽しみで仕方がなかった。それは、今となってはヴィートも同じ気持ちだった。あれほど嫌っていた自分はなんだったのかわからなくなるほど、ネリーと過ごす時間が快楽に感じられる。
「ねえ、お話しよう」
いつもならば点けない灯りを点け、ヴィートは声のするドアの方へと駆け寄った。彼女と仲良くなって、しばらく考えていたが、もう決心はついた。
「やあ、ネリー」
「おはよっ、ヴィート」
いつものように、笑みを浮かべる彼女は彼の手を引き切り株の方へと連れて行くのだが、今日は、ヴィートの方が手を引いた。
「今日は曇り空だし、中でお話しようか」
目を見開いたネリーは、次第に表情をほころばせ、目一杯頷いた。
灯りで照らされた狭い家内を、ネリーは入るや否や見渡した。散らかりようのない質素な感じが彼に良く似合う。
生ぬるい紅茶をテーブルに置き、ヴィートは椅子を引いてあげた。
微笑んだネリーは礼を言いながら、ゆっくりと腰をかけ紅茶をすする。
そして、いつものように談笑した。なんでもない下らない話から、ネリーが見てきた世界の話、部屋に飾られたヴィートのトロフィーの話まで。部屋の中ということを除けば、何も変わらない二人の時間がゆっくりと流れていった。
「ねえ、少し、聞いて欲しいことがあるんだ」
少しの沈黙が訪れた後、不意にネリーは立ち上がった。部屋の中をさまようでもなく、足音も鳴らさずにヴィートのトロフィーが飾られてある棚へと近づく。
「私が、今、こうして旅をしている理由はね、“世界”を一緒に旅した仲間と再会するためなの。その仲間たちとは、ずいぶん長く旅をしたんだよ。独りの私と、仲良くしてくれた、大切な仲間なの。ねえ、知ってる? 生きとし生けるもの全てが平等に与えられるべき言葉があるの。それが何か、ヴィートは知ってる?」
彼女の後姿にヴィートが首を振って見せるが、ネリーはそれを見ずに続けた。
「私は、その言葉をまだ誰からも与えられていないの。仲間たちに、与えてもらえると思っていたんだけどね――お別れしちゃった」
振り返ったその表情は悲しみを表しているのだと思っていたが、ヴィートの瞳に映る彼女は笑みを浮かべていた。しかし、それがただの笑みであるはずなのに、どこか笑みではなかった。
「迷惑だよね。我侭だよね。そんなことくらい、わかってるもん」
再びテーブルへと戻ってくる彼女の表情が崩れていくのに、ヴィートは次第に気づいていった。
「一緒に旅しよう、ヴィート。それくらいしか、“悪魔”を退治する方法が思い浮かばないの。もう、お別れなんて嫌だよ」
ネリーの言葉がヴィートの脳内を駆け巡る。しかし、ヴィートはその重い腰を上げようとはしなかった。
手を差し出すこともできず、膝を落とす彼女とあの時の自分を重ねる。
ネリーが荷物を取りに戻っていくのを確認し、ヴィートは部屋の明かりを消した。
薄暗い部屋を見渡す。ふと聞こえてくる、湧き上がる歓声。スタンディングオべレーションの鳴り止まない会場。その中に一人、だんまりと座り込み、こちらを睨んでくる彼を見つけた。
――この村に何の未練があるというのだ。
そう思う度に、彼の影が濃くなっていく。窪んだその目は漆黒に満ち満ちていて、孤独に執着していた。
ネリーと出会い、そして、ネリーと話した。
それだけで、ヴィートは喜べた。嬉しく思えた。
だから、座り込んだ彼にお別れを告げよう。もう、孤独ではない。孤独は懲り懲りだ。たとえ、この村でやらなければいけないことがあったとしても、ネリーと一緒に旅に出る。
決して揺るがない決心を胸に、ヴィートは身支度を始めた。
何のためにかわからない放浪はもう終わりだ。一人の少女のために。彼女の傍を離れないために。ネリーとずっと一緒にいるために。この村を出よう。
手荷物は少ないが、時間は費やした。出発する準備は万全だ。
それだというのに、ネリーはまだ帰ってこなかった。きっと、村の人たちにお別れの挨拶に回っているのだろう。
そんなネリーの優しさを確かめようと、ふと窓から村をのぞき見る。
一つの塊。
村人たちが群がり、お別れを告げているのだろうか。
微笑ましく見ていたヴィートは、眉根をひそめた。
村に入るのは何年ぶりだろうか、なんて考える余裕もなかった。ただ、その細長い足を群集へと進める。
蘇ってくる記憶は“奇跡の音色”が絶え、“悪魔の音色”が現れたあの日。しかし、今はあの時以上に果てしない嘆きがヴィートを襲っていた。
彼に気づき道を開ける群衆の目は、怯えへと変わっていった。
しかし、ヴィートの目に彼らは映り込みもしない。ただ、ぐったりと横たわる、ネリーだけしか見れなかった。ヴィートに気づき、微笑を見せる彼女しか見れなかった。
この群集がどう思うかなんて関係ない。全てのものから守るように、ヴィートはネリーを抱きしめた。
「なんで、かな――」
小さく唇を震わせるが、その先の言葉はなかった。
静かに目を閉じ、笑みを崩しながらも見せなかった、あの時の涙を今流している。
仄かに暖かい体温を感じつつ、彼は叫びだした。その嘆きの行き所がわからず、ただ叫んだ。彼を囲む群衆に向かって。血糊のついた農具に向かって。彼女の涙に向かって。
最後の一音を弾き終えた。しかし、観衆の拍手はない。その代わりに、炎のはじく音が彼の耳をかすめる。
燃え滾る炎に温度は感じられない。何もかもが儚くて、何もかもが憎たらしくて。
彼女の名前を呟いて見せるが、返事はない。
微笑を見せる彼は、炎の中へと身を投じた。
【完】