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第78話 アトムまんじゅう

 早稲田にある瀟洒なマンションの入り口の呼び鈴を押すと、スピーカーから、

Entrez(お入りなさい)

 と声がして、自動ドアは解錠されて開いた。

 僕が少し躊躇った表情をしていたからか、曉子さんは微笑みながら、


「悟さんと一緒に行くと言ったら、父は喜んでいましたよ」

 と言って、緊張をほぐしてくれた。


 曉子さんのお父さんの引っ越しを手伝う。

 僕がそう促したので、本来はもっとしっかりとしなければならないのに、どうも弱気が出てしまってダメだな。


「悟さん、どうしたのですか? 父に会うのは怖いですか?」


「いや、怖いわけじゃないけど、その」


「その……なんです? 拒絶されるとでも思ったのですか?」


「そうだね、自分の娘と付き合っている奴がどんな奴か気にならない父親は居ないと思うよ」


「父は母と私よりも自分の研究を取った人です。そんなに私の事を大切に思っているなんて……」


「そんなことないさ。お父さんもきっとどうして良いか分からなかっただけなんだと思う」

 僕がそう言うと曉子さんはちょっと伏し目がちに頷いた。


エレベーターに乗って三階で降り、外廊下を少し歩いた「306号室」が曉子さんのお父さんの居室だ。


 曉子さんがインターフォンを押すと、間もなくドアが開いて痩身で白髪の知性に満ちた感じの曉子さんのお父さんが現れた。


「尾上君だね。曉子の父、宜史のりふみだ。さあ、入り給え」


「尾上悟です。今日は急にお邪魔することになって申し訳ありません」


「何を言っているんだ。今日は君と曉子で私の引っ越しの手伝いをしてくれるんだろう? こちらとしては渡りに船さ」


「お父さん、これ」

 曉子さんは高田馬場にある菓子司「青柳」で求めたアトムまんじゅうをお父さんに手渡した。


「おお、これが食べたかったんだ」


「わざわざ寄り道して買ってきたんですからね」

 曉子さんがそう言っているように、ちょっと寄り道して買ったアトムまんじゅうを受け取ると、相好を崩したお父さんは僕らを手招きして部屋の奥へ歩いて行った。


「お父さん、甘党でね。笑っちゃうでしょう?」


「いや、そんな事は」

 お父さんとは今日初めて会ったから先入観はなかったけれど、甘党のお父さん、という実態とフランス文学の権威というステータスには何となく関連性があるような気もしないでもない。


 尤も、洋菓子ではなくて和菓子、しかも名物とは言えアトムまんじゅうだ。


 既にリビングは大量の段ボール箱が山積みになっていて、箱の横には「フランス文学史①」とか、「エッセイ②」というような図書のカテゴリー名が書かれていた。


 流石というか、荷物の大半は本のようだ。


「今日は何でも言いつけてください。指示通りに箱詰めや、掃除をしますので」

 僕がそう言うと、


「まあ一服しよう。丁度キリがいい所だったんだ。そうだ、コーヒーを淹れよう。まだそれは仕舞っていなかったからな」

 

「お父さん、アトムまんじゅうには緑茶の方が」


「急須とかはもう仕舞ってしまったよ。それに、アトムまんじゅうはコーヒーにも合うんだぞ?」


「えー、本当?」


「先入観だけでものを言ってはいけないよ、曉子」

 僕がその会話に入ることは憚られたが、なんとも微笑ましい親子の会話に見えた。


 それでもついこの間まで、この二人や曉子さんのお母さんとの間には僕が想像ができないほどの大きな溝があったという事実は消えない。


「尾上君、君はここに座り給え。曉子はその横でいいかな?」


「あ、はい。それでは失礼させていただきます」


 僕がソファに腰を下ろすと、お父さんは反対に立ち上がってキッチンに向かった。


 間もなくコーヒーミルでコーヒー豆を挽く音と、微かながらコーヒーの香ばしい香りがキッチンから漂い始めた。

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