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第66話 平行線

 曉子の父、宜史は重い足取りでかつては自分の自宅であった一軒家に向かって歩いている。

 曉子をどうやって解放してやるか。元妻だった佐知をどう説得するか。


 自信など微塵もなかったが、それでも鎖を引きずっているかのように重く感じられる足を一歩一歩進めていたのは後悔と、曉子に対する責任からであった。


 離婚してからこの家に来るのは自分の荷物を運び出した時以来だ。


 仕方のないこととは言え、宜史が吟味して植えた庭木は手入れされておらず、隣家へ枝が一部侵入していた。


「アメリカだったらすぐに訴訟起こされるぞ……まったく」

 などと独り言ちてみたがすぐにそれは呼び鈴を押すことに躊躇していることを自覚した。


  インターフォンの呼び鈴を鳴らす。


「はい」

 と短く佐知が出た。


「ああ、俺だが」


「少し待ってくださる?」

 そう言った佐知は間もなく玄関のドアのカギを解錠して少し開けた。


 チェーンロックはしたままだ。


「何を警戒しているんだい?」



「あなただけでしょうね?」


「他に誰がいるっていうんだ」


「あの子に付きまとっている男が居たら大変でしょ?」

 宜史はまだ佐知の心の闇は深いことを再認識した。

 

(今日の話し合いは、話し合いになるんだろうか。刑事告訴をチラつかせてでも無理やり曉子を開放してやりたいと今の今まで思っていたが、佐知から曉子を奪った後に何が起こるのか正直わからん)


「尾上君ならいないよ。そもそも俺はその尾上君と会った事はない」


「分かったわ」

 そう言って佐知は一旦ドアを閉め、チェーンロックを解除してまたドアを開けた。


「じゃあ上がって」


「曉子はどうなんだ?」


「どうって、一日中ベッドにいるか、外を眺めてぼーっとしていることが多いわ」


「君はそんな無駄な時間を23歳の大切な時期に押し付けるのかい?」


「可哀そうだけど、それがあの子のためなのよ。知らない間にろくでもない虫がついていたなんて」

 話が絶望的に噛み合わない。


 宜史は、玄関で履いていた黒い革靴を脱ぎ、整えて置いた。


「お邪魔、するよ」

 離婚して財産分与として佐知に譲渡したこの家だが、不覚にも懐かしさが込み上げてきた。

 

(少し来なかった間に、ずいぶんと懐かしくなったものだ)


 宜史が34歳のころ、一般企業での収入に加え、ようやく大学でのレギュラー講師の枠をもらったことでマイホームを構える決心ができた。


 佐知のありとあらゆるわがままが間取りに詰め込まれたこの家には、宜史もそれなりの思い入れがある。


 やはり、一番は一粒種の愛娘、曉子が生まれて育ったこの家での思い出だ。


「曉子は、上に居るのかい?」


「ええ。あなたが来ることは伝えていないわ」


「曉子とは話せるだろうか?」


「やめて。今日はそういう約束じゃなかったでしょう?」


「ああ。そうだが。いまだに俺は納得していないのだが、社会人になった娘をなぜこんな形で軟禁しているんだ」

 玄関のドアには、内側から出られない様に施錠ができるようになっていた。

 

 一階の窓という窓は電子ロックされているらしかった。


「曉子には、幸せになってほしいのよ」


「君が考える曉子の幸せっていったい何なんだ? これは明らかに人権侵害だ」


「人権侵害ですって? 冗談じゃないわ! あなたが、私にしてきたことはどうなのよ!」


 一般の会社員だった宜史が、アカデミアの世界に身を投じた時には佐知のお腹の中には曉子がいた。


 とにかく大学に認められようとして、家庭を顧みずに一心不乱に研究に没頭した毎日だった。


「それについて俺は言い訳はしない。すべての財産は君に譲ったし、曉子の親権だって」

 離婚した、あの頃の苦い思い出が一挙に蘇った佐知は声を上げて泣き出した。


(これは話にならないな……出直すか。作戦を変えないとダメだ)

 そう宜史が思っていると、後ろから声がした。


「お父さん、どうしたの?」


 見るからにやつれた曉子が、そこに立っていた。

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