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第64話 オンザエッジ

「こんなところで奇遇ですね、吉永購買部長」


 男は、岩田電産常務取締役、都賀康介である。


 都賀は外資系の投資銀行出身で、岩田電産社長の潮見が自ら引き抜いた財務のプロだ。


 潮見は都賀を後々は自分の後継者に、という思惑もあるが、台湾や韓国にすっかり押されてしまった半導体のビジネスの反撃に出るには、まずしっかりした社の財政基盤を築くために無駄を排除し、収益性を高めるためのすべての手段を講じるよう命じていた。


 それがサプライヤー納入金額一律15%引き下げ要求につながっている。


「常務が埜上(ここ)にいらっしゃるなんて、少しびっくりしています」


「それはこちらも同じだよ。女将とはもう長い付き合いでね。ところでお連れの方はどなたかな?」

 吉永 衛は都賀の冷酷で尊大な人間性を考えてどう答えるべきか一瞬逡巡したが事実を答えた。


「私の兄なんです。フランス文学の研究者をしていまして」


 水を向けられた吉永 宜史は、

「衛のご上司でらっしゃいますか。衛の兄の宜史と言います」

 と言葉を継いだ。


「フランス文学ですか」


「ええ。あまり実業には役に立たないとよく言われますがね」


「まあ立ち話もなんですから、お座りになられては。もちろん、お二人の邪魔だては致しませんよ」

 

「いえいえ、衛の上司の方にお会いできたのも何かの縁でしょう。差し支えなければご同席させていただいても?」

 宜史の答えは都賀にとっては想定外の反応だったようで、少し大きく目を見開いたが、落ち着き払って言った。


「そうですね、吉永部長のお兄様があの有名な吉永宜史教授とは。ご同席いただけるなんて私も光栄のみぎりですよ」

 衛には二人とも本意でそう言っているようには見えなかった。


 少なくとも都賀は間違いになく本意ではないだろう。

 

 兄はどうだろうか。

 都賀が自分の愚痴の対象であることは宜史にもわかっただろう。


 くせ者として名を馳せている宜史の事、何か狙いがあってのことだと思わざるを得なかった。


 カウンターに三人、都賀、なぜかその隣に宜史、衛の順で並んだ。


(兄さんが余計なことを言わなければいいが……)

 そう心配しているのをよそに、宜史と都賀は楽しそうに話し始めた。


「都賀常務は私のことをご存じのようですが、フランス文学を専攻されていたのでしょうか?」


「いえ、私は経営学科でね。投資ポートフォリオ分析なんてものをやっていましたからフランス文学は完全に趣味の世界です」


「ほほう、それではどんな作家の本をよく読まれるのでしょう?」


「私は遠藤周作のファンでしてね。遠藤がカトリック文学を極めるためにリヨンに留学していたという話からフランス文学には興味をもっていましてね」

 二人がそんな会話を繰り広げることなど想像だにしていなかったので面食らっていた。


 二人は20分も話しただろうか。


 仏文学には全く明るくない衛は二人の会話には相槌をうつくらいしか参加するすべがなかったのだが、すっかり打ち解けたように見えた宜史は都賀にいきなり切り出した。


「ところで常務。このところこの衛があまり顔色が優れんのですが、会社で何かあったのでしょうか」


「兄さん、そんな事なぜ常務に聞くんだ?」

 あまりに唐突で衛は慌てた。自分が苦境に立たされていることは衛にはこれから話そうと思っていたのだ。内容も知らない宜史がなぜそんなことを?


「まあまあ、吉永部長、大丈夫だよ。吉永部長のお兄さん、弊社は今大きな変革時期でしてね」


 宜史は難しそうな顔をしながら聞いている。


「全社で財務体質を次の5年間で世界と闘える体力にもっていかねばなりません。ですので吉永部長にはご自分の職責で貢献できる分野の改善をお願いしているわけです」


「そうですか。常務、こいつはこう見えて骨があるやつでしてね。ちょっとやそっとで弱音を吐くような男ではないんですよ。それが久しぶりに会ってみると、まるで生気もないしどうしたのかと」

 二人の危なっかしい会話を聞いて気が気でない衛であった。

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