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第61話 紅羽書店にて

 翌日、外回りの営業へ結衣香と一緒に市ヶ谷へ出掛けたぼくは、帰社する前に飯田橋まで歩いて「紅羽書店」へ向かった。


「ここら辺にはフランス人学校があって、それだからかフレンチのビストロとかが結構あるんですよ」


 飯田橋にフランス人学校があるなんて知らなかった。


「今日は直帰で美味しいものでも食べていくか?」


「いいですねー、とか言いたいところなんですけど、ボク、明日の朝までに田淵部長に出す稟議書まとめないといけないんですよ」


「そっか、それは残念だな」


「まあ昨日も焼き鳥ごちそうしてもらっちゃったし。そんなにボクに親切にしなくてもいいんですよ」


「いやいや、ぼくが食べたいだけだから」


「先輩も結構グルメですよね}


「どうなのかな? 単に真島課長に連れられていろんなところで食べたせいか、舌は肥えたかもしれない」


「そうですって。あ、それで最近岩田電産はどうなっているんですか?」


「一律15%コストダウンの件か? それなら田淵部長との会議を吉永部長に設定してもらったところだ」


「やっぱり『下請法』の線であちらにくぎを刺すんですか?」


「それはあくまでも最終手段だよ。切り札を使えば僕らが勝てるというほど甘くはない。吉永部長が言うには、そのぼくらの提示価格から15%を削った金額を提示してきている企業もいるって話だ」


「じゃあ、ウチは勝ち目がないってこと?」


「そんなことはないよ。ウチがボロ儲けさせてもらっているなら仕方ないが、ウチのウエハーの品質でウチより15%低い見積もりなんて出せるはずがないんだ。考えられるとしたら品質が低い、歩留まりの低いものを提供するか、ウチから注文を奪うだけに出した継続性のない価格かどちらかだと思う」


「中に入り込んでしまえば、こっちのもん、みたいな考え方ですかね?」


「そう考えているとしたら、その会社はまた閉め出されるだけの話だ。だからウチの価格がいかに正当で継続性のある価格なのか理解してもらうのが主旨だ」


「なるほど、先輩勉強になります!」


 結衣香は頭がいい。


 こういった会話の中から知識をきちんと選んで自分の仕事に反映させているから若手にもかかわらずお客さんからの人望も厚いのだろう。


 ひょっとしたらそのうち僕の営業成績なんて軽く超えてしまうかもな。


 市ヶ谷から飯田橋へは、外堀通り沿いを使うのがアップダウンが少なくてよい。


 曇り空でお濠はあまり景色は美しくないが、この通りは桜の時期は確かとても綺麗だったはずだ。


 神楽坂下の交差点を右に折れ、上り坂を上がっていくと飯田橋駅の西口があり、そこを過ぎて一つ目の十字路を左に曲がると紅羽書店は現れた。


「わー、懐かしいな。ボク、ここには結構通っていたんですよ。フランス語の古書ならここを置いてほかにないくらい揃っているから」


「フラ語専攻で何でウチの営業なんてやってるんだ?」


「それって、5年前にも聞かれた気がします。忘れっぽいな、先輩は」


「ごめん、そんなこと聞いたかな」


「言いましたよ。私が関東テクノスで働いている理由はなぜだか支店がパリにあるからです」


 パリ支店―― そうだった。中堅ウエハー製造会社にして意外と積極的な海外展開をしているのが当社だった。


 欧州における半導体生産シェアはアジア勢に押され、2010年以降は10%以下に没落しているが、それでも絶対数はやはり大きくパリに支店を置いて細いながらも販路を開拓している。ビジネスとしてはやってもやらなくても同じというような決算ではあるが、当社ながらの深慮遠謀もある。

 

 欧州では欧州半導体法を成立させてアジア製品に対する規制を強化したい狙いあると分かっているからだ。

 そして現時点で半導体はとにかく供給が足りない。欧州での生産がそのうち活発になるだろうという当社CEOの雨宮紳一郎社長の分析通りになりつつある。


「おまえパリで働きたいんだったな」


「そうですよ。ま、そんなチャンス、今の仕事でしっかりと結果を残さなきゃ掴めませんからね」


 お前ならきっと、という言葉をぼくは飲み込んだ。


 結衣香に限ってそんなことはないだろうけど、自惚れて努力をしなくなったら、と思ったからだ。


「紅羽書店」は間口は決して広くない店だが、意外と奥行きはあるようだ。

 

 奥へ進み、会計をしている店の人に東堂さんのお父さんについて聞いてみることにした。

 

そしてそれは、思いもよらない結果になった。

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