:Ⅳ
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「……巽、にしよう。我が本庄家の立派な跡取りになってくれ」
待望の初孫は、皆が願ってやまなかった男児。名付けるのは家長である自分の役目だった。
「いい名だろう、巽。お前の名だ」
腕の中の嬰児は、はしゃぎ疲れたのか夢の中だ。すやすやと眠る赤子が大切な宝に見える。わたしは目を細め、赤子を抱き直した。
頼むからお前は、お前だけは、じじ様に似ないでくれよ? お前のじじ様は、人殺しだから。
桜の花びらとともに降り注ぐのは、やはり兄の声だった。
『充は本当に頭がいいんだな』
『僕も充みたいに、一緒に外で遊べたらいいんだけどなぁ』
『ごめんな、充……』
謝らないでくれ、兄さん。謝らなきゃいけないのは、本当はわたしの方なんだから。
今更どんなに悔やんでも仕方ない。すべてはわたしの意思だったのだ。
兄はやさしい人だった。間違いを犯したのはどう考えても兄ではない。自分の方だ。
「智兄さん……」
ぽつりと漏らしたそれは、二つ上の兄の名。桜の時期になるといつも思い出す。兄はいつも、こうして縁側から桜を眺めていた。
身体が弱い兄は、いつも屋敷で本を読んでいた。遊びに来たわたしを笑顔で迎えては、自分のおやつを分けてくれた。たまに外へ出たかと思えば発熱し、何度も生死の境をさ迷った兄。終に両親は諦め、医者も匙を投げた。
二十歳まで生きれればいいほうだと盗み聞きしたときは、本当に顔を合わせるのがつらかった。どんな奴にしろ自分と血を分けた、たった一人の兄に変わりはない。ただ寿命が残り僅かだということを除いては。
例えるなら、兄は月のような人だった。控え目でおとなしく、物静かで。勢い任せのわたしとはまるで正反対だった。
外に行けない兄は、自然と読書にのめり込むようになった。兄贔屓の母は兄によく本を買い与えていた。それしか兄に親らしいことができなかったのだろう。もちろん父は、そんなことはしなかった。もはや兄を後継者としてみていなかったのだ。兄もそれを肌で感じ取っていたのだろう。が、不平を漏らすようなことはけしてしなかった。
成長するに従いそれはひどくなった。父の関心は健康な自分に、母の心配は病弱な兄に向いた。あの時代、それは当然のことだった。本庄という家は潰してはならない。たとえどんな理由があっても、だ。しかしどんなに健康でも、頭の回転は兄の方が上だった。わたしは父の期待を裏切らないために必死に嫌いな勉強をし、誰にも負けないようにと武術を学んだ。いつか兄を救うための手立てが見つかるかもしれない。そんなかすかな希望を胸に抱きながら。
しかし兄は独りで耐え抜き、そして孤独に死んだ。
「……なぁ、充。僕はそろそろ死ぬと思うんだ」
「兄さん!?」
動揺を隠せなかったわたしを見、兄はわずかに笑った。青白い兄の顔から強ばりがなくなるのは、わたしと一緒の時だけだった。
「だから、さ。……どうせ死ぬんだ。最後にひとつ、僕の願い聞いてくれるかい?」
もちろんだと、わたしは大げさに頷いた。兄のために出来ることなら何でもしてやりたかった。兄はゆっくりと顔を綻ばせる。そして紡がれた言葉は、わたしの予測をはるかに越えていた。
「僕を、殺してくれ。お前の手で」
わたしは、愕然とした。
次いで兄の眼を見て、その言葉に嘘偽りがないことを悟った。兄は本気だった。兄弟とはいえ年上には敬意を持って接し、命令には従わなくてはならない。それが本庄家の家訓なのだ。
兄はどこからか毒を手に入れていたのだという。人間一人が楽に死ねる程度の毒。痛みも苦しみもなく、眠るように死ねるという安楽剤。医学には多少の心得があった。だからそれが何かなんてことは一瞬でわかり、兄の意思も理解してしまった。
「僕はお前の邪魔になる。お前が当主になれば、きっと父様は僕を消そうとする。だから、その前に」
わたしにはそれが否定できなかった。父といえど、やはり本庄家の人間なのだ。邪魔とみなせば排除される。兄はそれを不服としたのだ。どうせ死ぬなら、この家で一番愛した弟の手で。そう思ったのだろう。
わたしは兄の言葉に従い、それを水に溶かした。黙って差し出すと、兄は静かに笑っていた。
自分が今どんな表情をしているかなんてわからなかった。悲しいのか悔しいのかさえ。
「ありがとう、充」
お前は賢い子だよ。
それが、兄の最期の言葉だった。
もう兄の身体に手が付けられないと知ったのは、兄が死ぬ二週間ほど前だった。それを知ってからは、痩せ細っていく兄を見るのが耐え難かった。兄は日に日に食欲が無くなり、ついには床から起き上がるのさえ億劫になった。ただそんな状態になりながらもその眼だけは、血に飢えた野性の獣のように輝いていた。煌々と闇夜に輝き、今にも獲物を捕らえようと牙を向くその眼。病弱でいつも臥せている兄だったが、その眼だけが恐ろしかった。いつか喰ってやる、お前なんか見返してやる、そんな気がした。
だが、そんな兄もいなくなってしまった。
兄の葬式はかなり質素なもので、弔問客も身内の限られた者だけだった。涙を流す者さえいなかった。皆それが当たり前のことかのように、黙って手を合わせていた。
俺は気分が悪いと嘘をつき、早々に自室に下がった。父も母も俺には甘い。騙すのは簡単だった。
長い廊下には誰もいなかった。庭の虫の音も聞こえず、静寂な廊下は焼香の匂いでかるく包まれていた。兄の大好きな桜も葉を落とし、どこかしんみりとしているようだった。
襖を開け、敷かれていた布団に倒れこむ。もう何もしたくなかった。何も見たくなかった。
どのくらいそうしていただろうか。疲れていたのか、わたしはいつの間にか眠りの世界に足を踏み入れていた。
そこは、ただ真っ白な世界だった。ものどころか音もない、言うなれば無の世界。
『どうしたの? 充』
それは聞きなれた兄の声だった。思わず視線をめぐらせると、兄は少しだけ寂しそうな声で言った。
『ダメだよ充。お前までいなくなったら、父様や母様が悲しむだろう?』
「でも、兄さん……」
『充は僕の代わりに本庄家を継がないといけないんだからな』
「当主になるなら兄さんの方がふさわしいよ。父様も本当は、そう思ってるはずだ」
すると兄は、なにやら後ろめたそうに言った。
『……僕は、すぐに戻るよ。多分、そう遠くない未来に』
「だったら──!」
『ただ僕が戻った時は、本庄家は滅びる時だ』
兄の声は、嗤っていた。
あんなの兄ではない。わたしは自分自身にそう言い聞かせていた。物静かでやさしい兄はどこかに消えてしまった。話し掛けてくるのは兄の姿を装った、違うナニかだと。
しかし兄の皮をかぶったソレは、そんなわたしを見ながら愉しそうに口を開くのだった。
『お前がみんなに見守られながら死ぬなんて、許さない』
『お前は僕と血を分けた、たったひとりの弟。僕の最期のお願いを聞いてくれた、愚かでやさしい弟だ。だから猶予をあげるよ』
『幸せに生きてみなよ。あの本庄の家でできるのであれば、だけどね』
『僕が戻るまで本庄を預けておくよ、充』
待っていてよ、充。
今度は僕がキミを殺してあげる。
キミたちの大切な本庄家とともに、ね。
「──兄さんっ!!」
わたしは飛び起きた。目覚めたのはもちろん自室で、兄の声なんかしない。冷や汗が背をつたう感覚だけが妙に現実味を帯びていた。早すぎる胸の鼓動を抑えつけるように、ゆっくり深呼吸した。外からは風がうねる声しか聞こえず、いつもの虫の音はまったくといっていいほど無かった。
ひとしきり落ち着いてから再び目を閉じると、殺してくれと言ったあの兄の眼が脳裏をかすめた。悪夢にしても質が悪い。兄が本庄家を恨んでいるということについて、わたしは何ら疑問を抱かなかった。わたしでさえ、本庄という姓が邪魔でできなかったことはたくさんある。本庄家はそういう因縁から逃れられない宿命にいるらしい。
兄の悪夢は数日間続いた。兄は決まって、わたしに待っていろという。それが何のことかわからないまま、数十年の時が流れた。
孫が四つんばいに歩けるようになった頃だ。巽はよくわたしの所へやってきた。今日もまた、いつもと同じように。
「こっちへおいで、巽。じじ様のお膝の上に」
話すことはままならない。だが可愛い孫だ。それはそれは愛くるしい──、
「智、兄さん……」
こちらを見据える、生き生きとした漆黒の瞳。どこか物寂しさを残し、だが確かな芯を持った獣の瞳。それは、昔の自分が恐れていた兄のもの。あの日、自分が殺したあの兄のそれと酷似していた。
気付けばわたしはあんなに可愛がっていた孫を突き飛ばして、泣き喚くのも構わず手をあげていた。罵声を浴びせ、何度も何度も殴り付けた。
そして気付いた。孫は兄の生まれ変わりなのだ。あの血に飢えた獣のような眼がその証拠。
それ以来わたしは孫を「忌み子」と呼んだ。あのような忌まわしき過去を忘れ去り、本庄家を潰さないために。
いつしか孫は不幸を招くと陰口をたたかれ、皆からも忌み嫌われた。その原因をつくったのはわたし。過ちを犯したのは、今も過去もわたしなのだ。
この家を没落に導く本当の「忌み子」は、わたしだ。