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   :Ⅳ



 *



「……巽、にしよう。我が本庄家の立派な跡取りになってくれ」


待望の初孫は、皆が願ってやまなかった男児。名付けるのは家長である自分の役目だった。


「いい名だろう、巽。お前の名だ」


腕の中の嬰児は、はしゃぎ疲れたのか夢の中だ。すやすやと眠る赤子が大切な宝に見える。わたしは目を細め、赤子を抱き直した。

頼むからお前は、お前だけは、じじ様に似ないでくれよ? お前のじじ様は、人殺しだから。

桜の花びらとともに降り注ぐのは、やはり兄の声だった。


『充は本当に頭がいいんだな』

『僕も充みたいに、一緒に外で遊べたらいいんだけどなぁ』

『ごめんな、充……』


謝らないでくれ、兄さん。謝らなきゃいけないのは、本当はわたしの方なんだから。

今更どんなに悔やんでも仕方ない。すべてはわたしの意思だったのだ。

兄はやさしい人だった。間違いを犯したのはどう考えても兄ではない。自分の方だ。


さとる兄さん……」


ぽつりと漏らしたそれは、二つ上の兄の名。桜の時期になるといつも思い出す。兄はいつも、こうして縁側から桜を眺めていた。

身体が弱い兄は、いつも屋敷で本を読んでいた。遊びに来たわたしを笑顔で迎えては、自分のおやつを分けてくれた。たまに外へ出たかと思えば発熱し、何度も生死の境をさ迷った兄。終に両親は諦め、医者も匙を投げた。

二十歳まで生きれればいいほうだと盗み聞きしたときは、本当に顔を合わせるのがつらかった。どんな奴にしろ自分と血を分けた、たった一人の兄に変わりはない。ただ寿命が残り僅かだということを除いては。

例えるなら、兄は月のような人だった。控え目でおとなしく、物静かで。勢い任せのわたしとはまるで正反対だった。

外に行けない兄は、自然と読書にのめり込むようになった。兄贔屓の母は兄によく本を買い与えていた。それしか兄に親らしいことができなかったのだろう。もちろん父は、そんなことはしなかった。もはや兄を後継者としてみていなかったのだ。兄もそれを肌で感じ取っていたのだろう。が、不平を漏らすようなことはけしてしなかった。

成長するに従いそれはひどくなった。父の関心は健康な自分に、母の心配は病弱な兄に向いた。あの時代、それは当然のことだった。本庄という家は潰してはならない。たとえどんな理由があっても、だ。しかしどんなに健康でも、頭の回転は兄の方が上だった。わたしは父の期待を裏切らないために必死に嫌いな勉強をし、誰にも負けないようにと武術を学んだ。いつか兄を救うための手立てが見つかるかもしれない。そんなかすかな希望を胸に抱きながら。

しかし兄は独りで耐え抜き、そして孤独に死んだ。


「……なぁ、充。僕はそろそろ死ぬと思うんだ」

「兄さん!?」


動揺を隠せなかったわたしを見、兄はわずかに笑った。青白い兄の顔から強ばりがなくなるのは、わたしと一緒の時だけだった。


「だから、さ。……どうせ死ぬんだ。最後にひとつ、僕の願い聞いてくれるかい?」


もちろんだと、わたしは大げさに頷いた。兄のために出来ることなら何でもしてやりたかった。兄はゆっくりと顔を綻ばせる。そして紡がれた言葉は、わたしの予測をはるかに越えていた。


「僕を、殺してくれ。お前の手で」


わたしは、愕然とした。

次いで兄の眼を見て、その言葉に嘘偽りがないことを悟った。兄は本気だった。兄弟とはいえ年上には敬意を持って接し、命令には従わなくてはならない。それが本庄家の家訓なのだ。

兄はどこからか毒を手に入れていたのだという。人間一人が楽に死ねる程度の毒。痛みも苦しみもなく、眠るように死ねるという安楽剤。医学には多少の心得があった。だからそれが何かなんてことは一瞬でわかり、兄の意思も理解してしまった。


「僕はお前の邪魔になる。お前が当主になれば、きっと父様は僕を消そうとする。だから、その前に」


わたしにはそれが否定できなかった。父といえど、やはり本庄家の人間なのだ。邪魔とみなせば排除される。兄はそれを不服としたのだ。どうせ死ぬなら、この家で一番愛した弟の手で。そう思ったのだろう。

わたしは兄の言葉に従い、それを水に溶かした。黙って差し出すと、兄は静かに笑っていた。

自分が今どんな表情をしているかなんてわからなかった。悲しいのか悔しいのかさえ。


「ありがとう、充」


お前は賢い子だよ。

それが、兄の最期の言葉だった。


もう兄の身体に手が付けられないと知ったのは、兄が死ぬ二週間ほど前だった。それを知ってからは、痩せ細っていく兄を見るのが耐え難かった。兄は日に日に食欲が無くなり、ついには床から起き上がるのさえ億劫になった。ただそんな状態になりながらもその眼だけは、血に飢えた野性の獣のように輝いていた。煌々と闇夜に輝き、今にも獲物を捕らえようと牙を向くその眼。病弱でいつも臥せている兄だったが、その眼だけが恐ろしかった。いつか喰ってやる、お前なんか見返してやる、そんな気がした。

だが、そんな兄もいなくなってしまった。

兄の葬式はかなり質素なもので、弔問客も身内の限られた者だけだった。涙を流す者さえいなかった。皆それが当たり前のことかのように、黙って手を合わせていた。

俺は気分が悪いと嘘をつき、早々に自室に下がった。父も母も俺には甘い。騙すのは簡単だった。

長い廊下には誰もいなかった。庭の虫の音も聞こえず、静寂な廊下は焼香の匂いでかるく包まれていた。兄の大好きな桜も葉を落とし、どこかしんみりとしているようだった。

襖を開け、敷かれていた布団に倒れこむ。もう何もしたくなかった。何も見たくなかった。

どのくらいそうしていただろうか。疲れていたのか、わたしはいつの間にか眠りの世界に足を踏み入れていた。






そこは、ただ真っ白な世界だった。ものどころか音もない、言うなれば無の世界。


『どうしたの? 充』


それは聞きなれた兄の声だった。思わず視線をめぐらせると、兄は少しだけ寂しそうな声で言った。


『ダメだよ充。お前までいなくなったら、父様や母様が悲しむだろう?』

「でも、兄さん……」

『充は僕の代わりに本庄家を継がないといけないんだからな』

「当主になるなら兄さんの方がふさわしいよ。父様も本当は、そう思ってるはずだ」


すると兄は、なにやら後ろめたそうに言った。


『……僕は、すぐに戻るよ。多分、そう遠くない未来に』

「だったら──!」

『ただ僕が戻った時は、本庄家は滅びる時だ』


兄の声は、嗤っていた。

あんなの兄ではない。わたしは自分自身にそう言い聞かせていた。物静かでやさしい兄はどこかに消えてしまった。話し掛けてくるのは兄の姿を装った、違うナニかだと。

しかし兄の皮をかぶったソレは、そんなわたしを見ながら愉しそうに口を開くのだった。


『お前がみんなに見守られながら死ぬなんて、許さない』

『お前は僕と血を分けた、たったひとりの弟。僕の最期のお願いを聞いてくれた、愚かでやさしい弟だ。だから猶予をあげるよ』

『幸せに生きてみなよ。あの本庄の家でできるのであれば、だけどね』

『僕が戻るまで本庄を預けておくよ、充』


待っていてよ、充。

今度は僕がキミを殺してあげる。

キミたちの大切な本庄家とともに、ね。







「──兄さんっ!!」


わたしは飛び起きた。目覚めたのはもちろん自室で、兄の声なんかしない。冷や汗が背をつたう感覚だけが妙に現実味を帯びていた。早すぎる胸の鼓動を抑えつけるように、ゆっくり深呼吸した。外からは風がうねる声しか聞こえず、いつもの虫の音はまったくといっていいほど無かった。

ひとしきり落ち着いてから再び目を閉じると、殺してくれと言ったあの兄の眼が脳裏をかすめた。悪夢にしても質が悪い。兄が本庄家を恨んでいるということについて、わたしは何ら疑問を抱かなかった。わたしでさえ、本庄という姓が邪魔でできなかったことはたくさんある。本庄家はそういう因縁から逃れられない宿命にいるらしい。

兄の悪夢は数日間続いた。兄は決まって、わたしに待っていろという。それが何のことかわからないまま、数十年の時が流れた。

孫が四つんばいに歩けるようになった頃だ。巽はよくわたしの所へやってきた。今日もまた、いつもと同じように。


「こっちへおいで、巽。じじ様のお膝の上に」


話すことはままならない。だが可愛い孫だ。それはそれは愛くるしい──、


「智、兄さん……」


こちらを見据える、生き生きとした漆黒の瞳。どこか物寂しさを残し、だが確かな芯を持った獣の瞳。それは、昔の自分が恐れていた兄のもの。あの日、自分が殺したあの兄のそれと酷似していた。

気付けばわたしはあんなに可愛がっていた孫を突き飛ばして、泣き喚くのも構わず手をあげていた。罵声を浴びせ、何度も何度も殴り付けた。

そして気付いた。孫は兄の生まれ変わりなのだ。あの血に飢えた獣のような眼がその証拠。

それ以来わたしは孫を「忌み子」と呼んだ。あのような忌まわしき過去を忘れ去り、本庄家を潰さないために。

いつしか孫は不幸を招くと陰口をたたかれ、皆からも忌み嫌われた。その原因をつくったのはわたし。過ちを犯したのは、今も過去もわたしなのだ。

この家を没落に導く本当の「忌み子」は、わたしだ。

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