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喫茶店ブルーポット

喫茶店ブルーポット 1

作者: 赤月白羽

 9月も終わりに近づき、蒸し暑かった夏も一雨ごとに遠のきだんだん涼しくなっていく。陽の落ちる時間も早くなり、18時ともなれば辺りが暗くなって窓から見える景色も映り込む店内と自分達の姿でほとんど見えない。


「ミドリちゃん、お客さんももう来ないだろうし、店閉めちゃおっか」

 カウンターの中から、正面の窓に見える表通りの景色をぼんやりと眺めていた男が、ゆったりとした口調にどこかソワソワした気配を滲ませながら、ふんわりとした笑顔を浮かべて言った。


「ダメですよ店長、あと2時間じゃないですか。それくらい我慢してください」

 私はテーブルを磨く手を止めてたしなめた。32歳にもなる男が、ハタチそこそこの小娘にこんなことを言われるのはどうなんだろう。


 確かに、今日は昼に常連のおじさん、おばさんたちが来たきり夕方からお客の足が途絶えてはいるけど──。


 店長はアクセサリー──いや、ジュエリーか。そう言わないと、くどくどと蘊蓄を喋り出して止まらなくなる。そのジュエリーを作るのが趣味で、いつも店が終わるとジュエリー製作に勤しんでいるらしい。先ほども暇を持て余して、ジュエリー製作をしたくなったのだろう。


 ここは超有名な神社の近くに建つ、ブルーポットという名の喫茶店。角が白煉瓦のベージュの壁にコバルトブルーの切妻屋根な店構えがちょっと可愛い。


 南の大通りに面した壁に設けられた大きな窓で開放感がありながら、屋根と同じ色のオーニングと植木で巧みに影を作って昼の強い日差しを遮る工夫がされている。


 店内は基部が赤煉瓦で白い壁紙の内壁と黒いタイル張りの小さなホールに4人がけのマホガニーのテーブル4脚と椅子が並べられている。


 店内に入って最初に目につく妙に重厚感のあるマホガニー製のL字カウンターにはショーケースが設けられ、そこに店長が作ったジュエリー──これがよく出来ていて、悔しいことに結構可愛い──が飾られ、お客さんはそれを眺めながら美味しい珈琲を楽しめる。


 ──と、これだけ魅力的な要素があり、有名な神社のそばという立地に恵まれながら、あまり繁盛していない。


 それと言うのも、大通りではなく脇に伸びる支道に面して入口が造られ、店を示す看板も私の腰くらいの大きさの折りたたみ式の小さなものを、玄関の脇に置くというさりげなさのせいで、初めて来た客には「入り口がわからなかった」と言う人がちょくちょくいる。


 通りに面した大窓も、オーニングと植木で"巧みに"中が見えにくくなっているため、通りがかる人に何の建物かわからなくさせている。


 極め付けは店長の適当な経営で、私が働き始めるまでは一人で切り盛りしていたらしいが、常連さんたちの話では店を開けるのは"だいたい朝10時くらい"で、"夕方をすぎて客が来なくなったら"店を閉めていたらしい。


 よくもまぁ、こんな経営で3年も店が続いているのは、足繁く通ってくれる常連さんたちと、時々発生する「どこかで噂を聞きつけた客がひっきりなしにやって来る妙な日」のおかげでなのだろう。


 が、あまり考えたくないが店長の穏やかで人当たりの良い気質や、切長の目で整った顔立ちと引き締まった体つき目当ての客がいるのも関係しているのだろう。


 私としては、この店がなくなってほしくはないので、営業は9時から20時と決めさせ、そこそこ真面目に店に立つよう目を光らせ、私も接客では精いっぱい愛想良くしている。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 テーブルを全て磨き終え、何もせずぼんやりしている店長を横目にカウンターも磨き終り、いよいよやることも無くなって床掃除でもしようか悩み出した時、入口の格子戸に取り付けられたベルが軽やかな音を響かせて客の来訪を知らせる。


「えっと──いえ、まだやっているかしら?」

 20代後半だろうか、入店したスーツ姿の女性は客のいない店内を見回して、戸惑いながら聞いてきた。


「いらっしゃいませ。ええ、大丈夫ですよ。よろしければカウンター席にどうぞ」

 私は安心させる意味合いも込めて愛想よく答えてカウンターを示し、女性も愛想笑いを浮かべてL字になったカウンターの角の席に座った。


 私は水とおしぼりを出し、メニューを女性の前に置くと、彼女はメニューを手にとって開く。

「そうね──ホットコーヒーと…この特製プリンを頂こうかしら」


「承知しました──ブレンドと特製プリンお願いします」

 私は伝票に注文内容を記入し、メニューを受け取ると店長に注文を伝えるが、同じくカウンターから注文を聞いていた店長は、私が告げるよりも早くすでに作業にかかっていた。


 電動ミルで豆を挽き、店内に挽きたての豆の芳香が広がる。サイフォンのフラスコにお湯を注ぎ入れて火にかけ、挽いたばかりの粉を入れたロートをセットする。


 私は頃合いを見てカウンターの入り口側にある跳ね上げ戸を開けてカウンターに入り、カウンターの背後にある戸口からバックヤードに移動すると、そこに置かれた冷蔵庫からプリンの容器を取り出してトレイにのせ、テーブル用の小型のミルクピッチャーにミルクを注いでそれもトレイにのせて店内に戻った。


 抽出されフラスコに落ちた珈琲を注ぎ入れたカップを店長から受け取ってトレイに載せると、ホールに戻ってトレイの品を女性の前に置いた。


「お待たせしました。どうぞ、ごゆっくり」

 私の声に女性は「ありがとう」と答えて、スマホの画面から視線を外すことなくカップに手を伸ばす。

 一口飲んで女性はスマホの画面から視線を上げ、カップの中に視線を落とした。もう一口飲むとスマホを置いてプリンに手を伸ばし、スプーンで掬って口に運ぶと途端に顔を綻ばせ、口内に広がる風味をゆっくりと味わった。


 飲み込んだ後もしばし余韻に浸り、再びプリンの甘味を味わうため、またひと掬い。プリンの容器を置いてカップに手を伸ばし、珈琲を口に含んで感嘆の吐息を漏らした。そしてプリンを食べきり、残った珈琲を味わいながらゆったりとくつろいだ。


「美味しかったぁ──気が滅入ることがあったけど、なんだか溶けて消えてしまったみたいに、ちょっと心が軽くなった気分」


「あー、わかります。美味しいスウィーツ食べると幸せな気分になりますよねぇ」

 私が笑顔で返すと女性も笑みを返す。そして「あら」と、ショーケースに並んだジュエリーの一つに目をとめた。


 ちょうど女性の正面に飾られていたもので、2センチ弱の銀七宝で出来た黒猫のストラップだった。猫の顔をかたどっていて、鏡面仕上げの銀に縁取られた半透明の黒いエナメルは、目を凝らすと下の地金に毛並みのような溝が彫られていて、目の部分に留められた青い石に店の照明が当たってキラキラと輝いている。


 そして猫の頭の下には銀の鈴がつけられており、まるで猫が鈴付きの首輪をつけているようだった。


 女性は少し驚いた顔でストラップを見ていたが、すぐに何かを思い出して可笑しそうにに吹き出した。私が問いかけの視線を向けると、笑みを浮かべたまま訳を話す。


「ごめんなさい、さっき見かけた猫にすごく似ていたものだから。──実はね、この店に入ったのはその猫のせいなの」


 ますます訳が分からなくなった私の気持ちが顔に出ていたのか、女性は苦笑して話を続けた。

「今日は訪ねようとした相手が急に会えなくなって、仕方なく帰ろうとしてたの。で、そこの通りを歩いていたらお店の前で黒い猫が私を見ていたの。あんまり可愛いからもっと近くで見ようと近寄ったら角を曲がっていなくなってしまったのよ。すぐに追いかけて角を覗いたらもういなくなっていたし、てっきりこのお店で飼っていて中に入っちゃったんだと思ったの。でも中に入ってみたら猫の姿はどこにもなくって──」


 困惑まじりの照れ笑いを浮かべて女性は話を終えた。私は愛想笑いを浮かべて「その猫に感謝しないと」などと返しながら店長を見た。


 私たちの会話を聞いていただろうに、ほんわりとした笑顔を浮かべたまま「どうしたの?」という視線を返してくる。私が軽く睨みつけても問いかけの笑みを向けるだけだった。この笑みに、なんだか狐に化かされている気分になるのは私だけなんだろうか。


「面白い話ですね。うちでは猫は飼ってないし、隣でも飼ってるって話を聞きませんから、その猫はきっとうちと隣の建物の隙間を通っていったのかもしれませんね。この辺りは猫はよく見かけるし、僕もどこかで見かけたその猫を無意識にモデルにしていたのかもしれませんね」


 店長の説明に女性は「なるほど」と相槌を打ちながら、うっとりと黒猫のストラップを眺めていた。店長はショーケースを開け、ストラップを取り出すと女性に差し出した。


「どうぞ、手にとってご覧ください」

 店長からストラップを受け取ると、猫の頭につけられたボールチェーンを右手で摘み上げ、目の前まで持ってきて嬉しそうに眺めた。

 ストラップを持ち上げたことで眼の後ろの穴を塞ぐものがなくなり、透過した光で猫の目が青く輝き、鈴が揺れてチリチリと澄んだ音を鳴らした。愛おしそうに眺める女性に店長がそっと声をかける。


「よろしければ、お譲りしますよ」


 女性はふっと顔をあげて店長を見た。

「いいんですか?」


「ここにあるものは販売もしています。価格はこちらに」

 そう言って店長はショーケースの猫のストラップが飾られていた台座を示した。そこに表示された値段を見て、女性は一瞬ためらったものの購入を決め、私が代金を受け取っている間に店長はストラップを磨き上げ、化粧箱に収めると小さな手提げ袋に入れて女性に手渡した。


 手提げ袋を受け取ると、女性はしばらく幸せそうに袋を見つめたあと、大事そうにバッグに仕舞った。


 その後、女性は名残惜しそうに珈琲を飲み干すと、「ご馳走様」と言って席を立ち、レジで支払いを済ませると、去り際にお辞儀をして店を出た。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 喫茶店を出てからの帰り道。ストラップの入った手提げ袋を抱きしめ路面電車に揺られながら、喫茶店での出来事を反芻して胸の辺りがふわふわするような心地よさに浸っていた。


 あの店のアクセサリーは全て店長の手作りとのことだった。ストラップを購入した後、改めて色々見せてもらった。ストラプを含め、身につけるものに限らず手のひらに乗るような小さなオーナメントなど、店長の気の向くまま様々なものが作られていた。

 

 可笑しかったのは、物凄く精巧で手の込んだものもあれば、すごくシンプルで簡略化されたものがあって、本当にその時の気分で作っているのだと感じられたことだ。


 ホールの女の子──名前は翠といったかな──あの子も店長の作ったネックレスを持っていて、それが欲しかったがお金のなかった彼女は、交換条件であの店で働くことになったらしい。


 大学の勉強もあるのに、店長と店の面倒を見なければならないと不満そうに話していたが、とても伸び伸びと働けているのが手に取るようにわかった。


──それに比べて私は……。


 ふと、夕方の彼からのSNSのことが頭をよぎって、暗い気持ちがお腹の辺りからじわじわと這い上がってきたのを無理やり抑え込む。


 今日は、今日くらいは幸せな気分に浸っていたい。手提げ袋を軽く振ってみる。中からかすかに鈴の音が聞こえ、再び暖かな気持ちに包まれた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 ゆっくり座りたかったので温雑するバスはやめて、少し回り道にはなるけど始発駅から路面電車に乗った。


 途中で私電に乗り換え、終着駅手前のターミナル駅で降りる。少々疲れたが、マンションに帰って化粧箱を開ける楽しみを思うと心が弾み、自然、歩くペースが早くなる。


 住んでいるマンションに着き、ポストを確認してエレベーターに乗った。自分の部屋のフロアで降りて、自室の玄関の前に着いた時には気持ちが急いて鍵を開けるのももどかしくなっているのを自覚し、なんだか可笑しくなって吹き出した。


 鍵を開け、中に入って靴を脱ぎ、一気にリビングに向かって灯りをつけると、着替えるのもそっちのけで座り込むなり、テーブルに置いた手提げ袋から化粧箱を取り出した。


 丁寧に結ばれたリボンを解いて蓋を開けると、緩衝材のベッドに寝そべった黒猫がこちらを見ている。そっと取り出し、ボールチェーンを指に絡めて目の前にぶら下げて覗き込むと思わず顔が綻んだ。

 しばらく眺めて気がすむと、辺りを見回し、一瞬ためらったがバッグの持ち手にストラップをつけた。それを眺めて再び頬が緩む。


 その時スマホが鳴ってSNSの着信を告げた。いつもの習慣でスマホのホーム画面を開き、SNSをチェックすると彼からの着信だった。嬉しさと不安が入り混じった複雑な気持ちでメッセージを読む


《今日は本当にごめん。今度埋め合わせする》


 そっけない。私が家の近くまで行っていただろうことは察しているだろうに。急な仕事で帰れなくなったという、直前の過去メッセージが目に入って余計に暗い気分になった。


《本当に仕事だったの?》


《私のことどう思ってるの?》


 メッセージを打っていると次々と言いたいこと、聞きたいことが湧き上がってきたけどグッと堪えた。


 スマホを閉じてクレードルに置く。なんだか体が重い。ぐったりした体をのそりと動かしてバッグに手を伸ばし、ストラップを揺らして鈴を鳴らしたが気持ちは晴れなかった。いつもの通り、すぐに返事はこなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌日、重くだるい体を鞭打って会社に向かい、沈んだ気持ちを押し隠して仕事をこなすが、いつもほど仕事が捗ることもなく、19時を回った時点でとりあえず今日中にやっておかなければならないことを優先し、後は翌日に回して退社した。


 家に帰る電車の中、何度もスマホのSNSを開いては返事がないかを確認する。通知もないのに来ている訳がない。


 何度目かの確認の後、諦めてスマホをバッグに仕舞った。持っていると確認したくなり、そして落胆するだけだ。


 もやもやした気分のまま電車に揺られ、いつもの駅に降りる。暗い気分で歩き慣れた道を歩き、マンションの前まで帰ってきた時、マンションの塀の上の小さな影に気がついた。


 なんだろうと確認する前に影は塀を飛び降り、真っ直ぐこちらにやってくる。一瞬、恐怖に似た不安がよぎったが、鈴の音にすぐにそれは吹き飛んだ。


 足元までやってきたそれは、きのう喫茶店の前で見かけた黒猫──いや、お店の場所からここまですごく距離があるから、歩いてここまで来れるとはとても思えないし首輪もついている。


 そうだ、首輪がついているということは飼い主がいるのではないだろうか?飼い主らしき人物がいないか、私は辺りを見回し探したがそれらしい人はいない。


「キミ、こんなところでどうしたの?」

 呼びかけながらしゃがむと、猫は私の膝に飛び乗り、しがみついてきたので思わず抱き抱えた。毛並みはブラシをかけたかのように艶やかで撫でると気持ちよく、背中を撫でてやるとゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らした。


 しばらくそうしていると私もなんだか温かい気持ちになり、自分でも顔が綻んでいるのがわかった。


 私は猫を抱きかかえたまま立ち上がり、もう一度あたりを見回したが、やはり誰もいないし、猫を呼ぶような声も聞こえてこない。


 私は少し考えた後、部屋に連れて行くことにした。確かうちのマンションはペット禁止ではなかったはず。飼い主がいるなら、何かしらアクションをしてくるだろうし、それまではうちで預かっておこう。もしそのまま飼い主が現れないなら…うちで飼うのもいいかな。


 猫を抱いたままエレベーターに乗って部屋に向かう。玄関の鍵を開け、中に入るまで人に会わないだろうかと変な心配をし、玄関の扉を閉めると妙な安心感に大きく息を吐いた。


 猫を床に下ろすと、聞こえるか聞こえないかの軽やかな足音を立てて、ダイニングを通り過ぎてリビングに歩いて行った。


 靴を脱いで、猫に遅れてリビングに入って灯りをつけると、猫は床に落ちているものをじっと見ていたが、私を見上げて呼びかけるように一声鳴く。


 なんだろうと見てみれば、それは昨日バッグの持ち手につけたはずのストラップだった。驚いて拾い上げてよく見てみると、ボールチェーンが綺麗に外れている。


 千切れているのではなく接続部から外れているということは、昨日しっかり接続できていなかったらしい。


──もし部屋の床ではなく、外で落としていたとしたら……。


 考えただけでゾッとした。アクセサリーに詳しい友人が思いつかなかったので、今度の休みにブルーポットだったか、あの喫茶店に持って行ってしっかり繋いでもらおう。


 猫の鳴き声に意識を引き戻され、ダイニングに行って猫が食べられそうなものを物色すると、ノンオイルのツナ缶があったので、適当な容器に中身を開けた。


 冷蔵庫に牛乳もあったのでミルクパンに入れて軽く温め、気に入っていたので少しためらったが、口の広いスープカップに温めたミルクを移し、それらを持ってリビングに戻ろうとすると、リビングの戸口で猫が待っていた。


 行儀よく座り、尻尾をゆらゆら揺らしながらじっとこちらを見ている姿を見て思わず頬が緩み、幼児をあやすような言葉が口から出そうな衝動に駆られながら、何と戦っているのか「言ったら負け」と繰り返しながら、妙な負けん気で衝動を抑えて猫の前にツナとミルクを置いてやる。


 すると猫はフンフンと匂いを嗅ぎ、おいしそうに食べ始め、それを眺めているとこの上ない幸福感に満たされ、着替えるのも忘れて、猫が食べ終わるまで「この子も青い目をしているんだな」などとぼんやり考えながら、じっと食べている姿を眺めていた。


──そういえば、何か忘れているような気がする。何っだっけ……?


◇◇◇◇◇◇◇◇


 猫をマンションに連れてきた翌日に、マンション近くのあちこちの電柱に、猫を預かっている旨と連絡先を書いて猫の画像をつけた張り紙を貼ってから2日経ち、3日経ち、1週間が過ぎても飼い主と思しき人物は現れず、未だに猫は私の部屋にいる。


 そして、リビングにはいつの間にか猫のドライフード──カリカリだけでなく、トイレ、数種の玩具、キャリーケースやキャットタワーが生えていた──いや、認める。衝動に駆られて次々と購入してしまった。


 今ではこのクロ──すぐに飼い主の元に返すかもしれないだろうからと、そっけない名前をつけたのを今では後悔している──に夢中で、仕事が大変でも、家に帰るとクロに癒され疲れが吹き飛んだ。


 そして今日はお休み。今まで猫の飼い方を調べたり、仕事に追われたりで後回しにしていた飼い猫の手続きを済ませに行くか、ブルーポットにストラップの相談とクロの話をしに行くかをぼんやり考えながら昼寝をするクロを眺めていると、唐突にクロが起き上がって玄関を注視した。


 なんだろうと思った刹那、インターホンのチャイムが鳴ってカメラに彼──貴志が映っていた。


 どうしたんだろうと訝しみながらオートロックを開ける。しばらくして玄関のチャイムがなり、鍵を開けてバツが悪そうに苦笑する貴志を招き入れた。


「突然くるなんて珍しいわね」


 そういえば、埋め合わせをするとSNSで言ってたな。と思い出しながら飲み物を用意してリビングに持っていく。


 久しぶりに会うせいか、緊張感を漂わせた貴志は正座してテーブルについていて、離れたところからじっと貴志を見ているクロを眺めていた。


「──猫、飼い始めたんだな」


「成り行きでね。今ではすっかり馴染んじゃって、この子がいない生活は考えられないかも」


「そっか」

 いつもの神経質そうな顔で微笑む貴志に安心感を覚える。やっぱり忙しくてなかなか会えなかったんだな。それなのに愚痴みたいなメッセージを送ってしまって、なんだか申し訳ないなぁ。


「今日はゆっくりして行くんでしょう?」


「いや……お前も色々あるだろうし、早々にお暇するよ」


「そう……」

 なんだろう──?いつの間にか忘れていた不安が湧き上がり、暗い思考が頭の中をどんどん侵食していく。


「……今日はどうしたの?」


 不安を抑えながら、勇気を振り絞って聞いた。貴志の顔が強張る。話そうとして何度も逡巡し、テーブルのお茶を一気に飲み干すと覚悟を決めたように私の方を真っ直ぐ見据えながら言った。


「……終わりにしよう」


「……何を?」


「俺たちの関係を。今日はその話をしにきた」


 私の中で不安が一気に広がり、爆発した。頭がクラクラして、眩暈がするのを堪えながら、声を振り絞った


「そんな、いきなり……意味わかんない」


「なかなか言い出せなくって……ごめん」


 怒ってるんだか悲しいんだかよく分からない。考えたくないのに、聞かなきゃ気が済まない


「…理由を言ってよ」


「会社の上司、の娘さん。と、結婚を前提にお付き合いすることにした。前に会社の新年会でお会いして、話して気が合って、向こうも気に入ってくれて、お付き合いしようということになって」


「──は?」


一気に頭が冷えた。


「…ナニ、それ」


「……俺にだってそれなりに野心はある」


一瞬、何を言っているのかわからなかったが、理解した途端、呆れてしまった。


「そんなつまんない理由で私を振るんだ……?」


 貴志がギロリと睨んでくる。私より年下で、ちょっと考えに甘いところがあったけど、ここまでだっただろうか?


「今どきそんなんで出世なんかできるわけないじゃない。それに相手の人がどんな人かは知らないけど、続きっこないって。もっと冷静に──」


私が言い終わらないうちに貴志がテーブルに拳を叩きつけて、驚いた私は口を図ぐむ。グラスが跳ねてテーブルを転がり落ち、クロは驚いてタワーの上に逃げていった。


「何にも知らないのに決めつけんなよ! なんでもかんでも知ったように年上ぶってさ、迷惑なんだよ!」


貴志は叫ぶと怒りもあらわにして私を睨みつけてくる。


「俺のやることにやたら口出してくるし、それが嫌で黙ってたらしつこいくらいに詮索したり勘ぐったり……もううんざりなんだよ」


──だって心配で……。いえ、確かに最初はそうだった、はず……本当に?


 色んなことが頭の中を駆け巡って呆然とする私に、貴志は一瞬申し訳なさそうな視線を向ける。だがすぐに立ち上がり、「じゃあ」と短く言い残すと足早に部屋を出ていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 いつの間に横になったのだろう?ベッドに力なく横たわって、夕日で赤く染まる部屋を見つめながらぼんやりと考える。


 クロが顔を覗き込み、気遣うように一声鳴いた。疲れて何にも考えられない。起き上がるのも億劫で、横になったまま暗くなっていく部屋をぼんやりと眺めていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 ふと気がつくと辺りは真っ暗になっていた。いつの間にか眠っていたらしい。なんだか体に力が入らないがクロのご飯を用意しないとと思い、頑張って体を起こす。


「クロ、すぐにご飯用意するからちょっと待ってね」


言いながらゆっくりと立ち上がり、クロの声がないのに気がつく。


「クロ……?」


 ベッドサイドに置いてある照明のリモコンを手探りで掴んでスイッチを入れた。眩しさに目が眩み、何度か瞬きして目が慣れるとあたりを見回した。


 キャリ=ケースのそばに置いてあるクッションの上で眠るクロを見つけて安堵したが、すぐに様子がおかしいのに気づき、もつれる脚で倒れ込むように駆け寄った。息はあるが弱々しく、呼びかけても返事をしない。


 動転する頭で必死に考え、まずは獣医に診てもらうことが頭に浮かび、記憶を辿って予防接種を受けさせるために調べた近所の診療所の名前をなんとか思い出した。


 クロをそっとキャリーケースに入れると、なるべく揺らさないように持ちながら部屋を出て、スマホでタクシーを呼びながらマンションを出た。


 私鉄のターミナル駅からさほど離れていないのが幸いしてか、大通りに行くまでもなくすぐにタクシーがつかまり、さほど待たずにタクシーが到着した。私は乗り込むなり運転手に行き先に診療所の名前を告げると、初老の運転手は少し首を捻って考えたがすぐに頷き、タクシーを発進させる。


 運よく道が空いていて、あまり信号にもつかまらずに診療所に着いた。カードで支払いを済ませると、早口で感謝を述べてタクシーを急ぎ降りた。


 キャリーケースを抱えて診療所に駆け寄り、扉を開けて中に入ろうとして危うくそこに立つ人影にぶつかりそうになった。

 咄嗟に謝ってその人物を見やると、30代前後の物腰の柔らかそうな男性が、手を引っ込めた姿勢のまま目を丸くして突っ立っていたがすぐに気を取り直し、落ち着いた口調で「どうしました?」と聞いてきた。


「ねこ!クロが様子が変で!診てください!」


 必死に説明しようとしたがうまく考えがまとまらず、もどかしい思いでどう説明したものか考えていると、男性は真剣な顔でキャリーケースを覗き込み、ついで受付窓口から紙が挟まれたクリップボードとペンと差し出してきた。


「猫ちゃん、ちょっと診させてもらいますね。その間、こちらの書類に必要事項を記入しておいてください」


 穏やかな声でそう告げ、私がボードを受け取るとそっとキャリーケースを掴みながら「お任せください」と穏やかな笑みを浮かべ、受付脇の引き戸を開けて奥の部屋に入っていった。


 書類を見るとそれは初診の問診票で、私は待合室の椅子に座って各項目に記入していった。記入内容をを見直し、待っているあいだ何気なくスマホを覗いて、表示された日付を見て青くなった。


 眠ったその日の夜に目覚めたと思っていたが2日経っていて、会社からしきりと電話がかかっていた。


 それよりもっと焦ったのは、この間クロは何も食べていないということだった。途端に最悪なイメージが頭をよぎり、不安で待合室を落ち着かなく歩き回った。


 私にとって非常に長く感じる時間がすぎ、先ほどの男性が奥の部屋からキャリーケースを抱えて現れた。


 クロの容体を知りたくて話しかけようとした私を片手で制して問診票を確認する。読み終えひとつ頷くと私を見て静かに微笑んだ。


「クロくん、診させていただきました。体に深刻な症状はありませんでしたが、衰弱していたので栄養剤を打っておきましたよ。このまましばらく休んで、目を覚ましてご飯を食べれるようになれば大丈夫です。ただし、元気になるまではドライフードなどは柔らかく、消化しやすくしてからあげてください」


 大丈夫と聞いて安心した私は、急に体の力が抜けて椅子に座り込む。


 男性はキャリーケースをそっと私の隣に置くと奥に消え、少しして両手に珈琲の香りが漂うカップを持って戻ってきた。


「ミルクと珈琲は大丈夫ですか?」


 なんのことだろうと首を傾げ、アレルギーのことだと思い至る。首肯すると彼は片方のカップを私に差し出した。


 見るとカフェ・オ・レのようで、私はカップを受け取り両手で持って一口啜る。甘く、まろやかな風味が優しく体に染み込むようだった。


 男性も待合室の椅子に座り、同じようにカップを傾ける。こちらはブラックコーヒーのようだ。私は一口ごとに気持ちが落ち着くにまかせ、黙ったままカフェオ・レを飲み続ける。男性も何も話しかけてこず、黙って珈琲を飲んでいた。


 静かな時間が過ぎ、私がカフェオ・レを飲み干すと男性はカップを受け取りながら微笑んだ。


「落ち着きましたか?」


 ずいぶん取り乱していたことを思い出し、私は顔が火照るようで頬を両手で隠した。頬が熱い。


 彼は穏やかな笑みを私に向けて言った。


「犬も猫も…いや、大抵の動物がそうかな。一緒にいる人の気持ちを敏感に察するですよ。そして優しい子ほど、気を遣いすぎて体調を崩してしまうことがあるんです。クロくんはすごく優しい子なんだと思います……だから、押田さんも元気にならないと」


 名前を呼ばれて一瞬ハッとしたが、問診票に名前を書いたのを思い出した。そして彼の言ったことを考えた。そういえば、寝ている私に呼び掛けるように猫の声が聞こえていたような……。


「私は……この子に気を遣わせてしまってたんですね」


言いながら私は俯き、彼は腰をかがめて私を見上げながら穏やかに話しかける。


「あなたもずいぶん憔悴していたにもかかわらず、この子のために必死に手を尽くそうとなさったじゃないですか。お互いに相手を気遣い支え合えばいいんですよ」


私はハッとして彼の顔を見つめると、彼は悪戯っぽくはにかんで言った。


「でも、猫にできることは心の支えになることくらいでしょうから、あなたがしっかり養ってあげてくださいね」


そう言って優しげな微笑を浮かべたが、何かを思い出したように言った。


「そうだ、このまま連れて帰っていただいても大丈夫でしょうが、念のためうちに入院させますか?」


 私は少し考え、入院費用のことが頭をよぎって打算的な考えに少し気持ちが落ち込みそうになった。費用のこともあるが、離れたくない気持ちはある。しかし、何かあった時のことを思うと入院させたほうがいいのではないか。


 私が悩んでいると、彼が言った。

「僕の意見としては、入院させると費用がかかってしまいますし、お家に連れて帰ってあげることをお勧めします。身体に異常はありませんから、おそらく精神的なものが強いのでしょう。それなら、ご家族が一緒の方が元気になるのも早いと思いますよ」


 変わらず温かな笑顔の彼に、心のなかを読みすかされているような気分でなんだか恥ずかしいが、でもうちにいるのが1番なのならそうさせて頂こう。


「わかりました。今日は連れて帰ります」


「何かあればいつでも連絡してください。大抵この診療所にいますから、すぐに対応させていただきます」


「……こちらにお住まいなんですか?」


 私が聞くと、男性は困ったように笑った。


「診療所の近所に住まいがあるんですが、入院している子たちに何かあったら、と心配になって、ついここの上の仮眠室に泊まってしまうんです。体調崩してしまいかねないから、よくないとは思っているんですが……」


 彼は「まぁ大丈夫ですよ」と笑って話を終わらせるとタクシーを呼んでくれた。私はタクシーを待つあいだに診察費を精算し、そうしている間にクロも目を覚まして小さく鳴いたが、弱々しさはもうなかった。


 そしてマンションに向かうタクシーの中で、私は診療所に到着したときには診察時間がとうに過ぎていたことに気が付いたのだった。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「──そんなわけで、今はクロが恋人みたいなもんかな」


 ストラップが落ちないように工夫してほしいと再び来店した女性は、店長がストラップを加工するのを待つ間、珈琲とプリンに舌鼓を打ちながら黒猫との経緯を話してくれた。話している様子は晴れ晴れとしてすごく幸せそうに見える。


「クロちゃん、会いたかったなぁ〜。今日はお留守番ですか?」


「ううん。今日は診察も兼ねて新田さんのところに預けているの。お店に連れてきても大丈夫なのなら、今度連れてくるわね」


笑顔で話す彼女。私はちょっと驚き、そしてワルい心が呼び起こされた。


「ほほぅ……新田さん、ですか……なるほど」


「あ……」


「いつからですか?」


 しまったという顔をする彼女には構わず、私は好奇心丸出しで聞いた。彼女は困った顔をしたが、結局はずかしそうにしながらも話してくれた。


「まだお付き合いまでは……時々診療所を手伝ってるだけ」


「ほぅ、まだ……なるほど、なるほど」


私は顎に拳を押し当てながら芝居がかった調子で相槌を打った。


「もう……」


「それで──」


「出来ましたよ」


 耳を赤くしながらムクれる彼女にさらに追求しようとした時、まるで機を見計らったかのように店長が割って入ってきたので私は不満のこもった視線をぶつけたが、いつものほんわりとした笑顔を向けてくるだけだった。


 女性は預けたバッグを受け取り、取り付けられている新しくなったストラップを見た。エナメルの猫は綺麗に磨かれ、ボールチェーンは細い組紐に変わっており、組紐は黒にさりげなく藍色を散らせたもので、先端がフックになっていてバッグから外せるようになっている。


「組紐なので簡単には切れないと思いますが、また何かあったら気軽に持ってきてください」


「ありがとう、クロの毛並みと目の色に合わせてくれたのね……すごく素敵」


 女性はストラップをうっとりと眺めて店長に感謝を述べた。その後もしばらくおしゃべりしていくと、「そろそろクロを迎えに行かないと」と、会計を済ませて帰っていった。


 彼女は今の会社での仕事の引き継ぎが終わると、会社を辞めて新田さんの診療所を本格的に手伝うらしい。


 手を振って店を出る彼女に、私たちはお辞儀をして見送った。


「彼女は、もう大丈夫だね」


「え?」


 店長の呟きに思わず振り返ると、いつもの気の抜けた笑顔はなく、優しく見守るような微笑みがあったように見えたが、よく見ればいつものほんわりとした笑顔がそこにあり、それがこちらに視線を向けてくる。


「ミドリちゃん、お客さんももうこなさそうだし、今日はもう店閉めちゃおっか」


──こいつは……


「ダメですよ、店長。夜までしっかり頑張りましょう」


─────────────────────────────────────────


今回登場したジュエリー、アクセサリー

黒猫のストラップ

地金:925スターリングシルバー

石:アイオライト(オーバルカット、ベゼルセッティング)


またの来店、お待ちしております

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