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8: 魔術の勉強と嵐の予報




「魔術の勉強をしたいのです」


リーフェットがアンにそう申し出たのは、二人で出掛けた日から六日後の事だった。

あの翌日からアンは魔術省に初出勤となり、あっという間に忙しい日々が過ぎていった。

リーフェットは、アンが仕事をしている間は騎士棟で預かられており、そこでの過ごし方は以前とあまり変わらない。


ただし、リーフェットの認識が間違っていなければ、身の回りの警戒は少しだけ強められたようだ。

何度か誰かがリーフェットを訪ねてきており、レイヴィアやジリアムが追い返していたようなのでそのせいだろうか。



そして今日は、待ちに待ったアンのお休みの日であった。

魔術顧問と聞けば偉そうな肩書なのだが、つまりは、六日間もアンは忙しくしていたのだ。



だから、リーフェットはその間に沢山の事を考えた。




「……うん。それは構わないけれど、髪の毛はどうしたんだい?」

「……………むぐ。この腕が届かないのが悪いのですよ。お部屋のカーテンは、あまりブラシがけが得意ではありませんでした」

「リーフェット、カーテンに命を与えるのは、もうやめようか………。僕はこの前、とうとうカーテンの散歩をしたんだぞ……………」

「ですが、身支度くらいは自分で出来るようになりたいです」


きりりとした面持ちでアンの部屋を訪ねたリーフェットだったが、アンが必死に笑いを堪えている様子を見ると、髪型があまり上手くいっていないらしい。

むぐぐっと唇を引き結んで悲しみを堪えていると、微笑んだアンが手招きをする。



「おいで、髪の毛を梳かしてあげるよ」

「ぐぬぅ……………」

「髪の毛をやりながら、話を聞こうか」


確かにこのままにはしておけないので、リーフェットは恥ずかしさを堪えてアンの膝の上に乗せられると、髪の毛をブラシで梳かして貰う。


さりさりと髪を梳かすブラシの音に、頭皮に僅かに触れるブラシの毛先が心地よいのでいつも眠たくなってしまう。

アンが使っているこのブラシは、街にあった専門店でお子様用ブラシとして売られていたものだ。

あの日以降もずっと、アンは毎日疲れて帰って来てもリーフェットの世話をしてくれた。


アンもいずれは女性の使用人を雇う予定であるらしいが、諸々の事情などもあるので、一年くらいは二人暮らしでいいかなということらしい。



「お道具を今の私の手に合わせてくれたので、もう一度刺繍の魔術を勉強し直したいと思いました」

「師という立場を貰っている以上は君に魔術を教えるのは吝かではないけれど、何か目標のようなものが出来たのかい?」

「……………思っていたよりも、魔術の調整が荒いようなので、魔術階位を上げてみたいなと思ったのです」

「ふうん…………」



リーフェットは何でもない事のようにそう説明したが、ふっと瞳を細めて微笑みを酷薄にしたアンの表情が鏡越しに見えた時、僅かに膝の上に置いた手が震えるのはどうしようもなかった。


提案している相手は、刺繍魔術で戦乱を補助した針の魔女を死刑台に送った、ローベアの魔術王なのだ。

場合によっては、この場で殺されてもおかしくはない。


でも、アンは私の手に、刺繍道具を戻してくれたではないか。

何としても魔術階位を上げる必要があるので、そこに賭けるしか、今のリーフェットには選択肢がなかった。



(あの日から、二回、……………アンは体調を崩している)



とは言えそれは初回よりは随分と軽い症状で、眩暈を堪えて暫くじっとしていたり、頭痛を堪えるように額に片手を当てていた夜があったくらい。

でも、その度に何か大事なものがアンの体からこぼれ落ちてゆくような気がして、リーフェットは怖くて堪らなかった。



(多分、アンの体には何かの異変が起こっているのだと思う)



そしてそれは、都度復調しているように見えても、何かが積算されつつある。

それがいっぱいに積み重なった時にどうなるのかは、怖くて考えたくもなかった。


この状況をどうにかしなければと沢山考えて、リーフェットが導き出した解決策は、刺繍魔術でこの土地の魔術をアンの体質に見合った状態に循環してゆく手法だ。


勿論、全部をそうするのではなく、アンが土地の魔術を糧として取り込み易くするだけでいい。


(アンが祝祭の系譜の人外者なら、魔術対価となるような症状を抑える為には、魔術を消費しきらないようにするしかないのではないかしら…………)


魔術には様々な系譜や属性があるが、その中でも祝祭の領域は少し特殊なものだ。

祝祭というものの得る範囲、その祝祭が認識される土壌でしか生きられないという、強大な力を持つくせに繊細なものだと言ってもいい。


例えば、中堅どころの祝祭の主人でも、その祝祭自体の存在しない土地に移り住めば、消えてしまってもおかしくないと言えば、どれだけ繊細なのかが分かるだろうか。


幸いにもルスフェイト国には夏至祭があったし、夏至祭や夏祭りがない土地というのはあまりないだろう。

とは言え、ここだと何かが上手く循環していないからこその不調なのではと考えた。



(大陸に名高い魔術王の十三人の部下の全員が祭祀の役割を果たしていたのなら、今の私にその欠落を補う事は難しい。……………でも、刺繍魔術は願い事を叶える魔術だから、実は規則性や理に縛られる他の大きな魔術系譜よりも、遥かに柔軟な扱いが可能なのだわ)



リーフェットの魔術はこうだ。

目的を固定した上で図案を決め、それを刺繍として完成させる。

すると、出来上がった刺繍が思い描いたものを叶えるという仕組みだ。


処刑台から逃げ出すのに使おうとした図案のように、動作そのものを指定する場合もあるが、あの時は上手くいかなかったようなのでそちらはもう少し研鑽が必要なのだと思う。

そして、今回組み上げたい魔術こそ、その動作を指定する刺繍なのだった。



(理論的なものと、発想自体は間違っていないと思う。後は、前回の失敗を繰り返さない為に、その動力源を補えるだけの魔術の階位が必要なのではないかな………)



「リーフェットが作りたい刺繍は、どんなものを理想としているんだい?」

「……………幸せになれる刺繍です。朝に美味しいパンケーキを食べたり、お休みの日に買い物に行けるような幸せな毎日が、ずっと続くような刺繍を作りたいです」


リーフェットがそう言えば、鏡越しに見えるアンが、僅かに目を瞠ったような気がした。

針の魔女がそんなことを願うだなんて、思ってもいなかったのだろうか。

それとも、あまりに抽象的な主題で、呆れているのだろうか。


ただしリーフェットも、その刺繍がアンに恩を売る為のものであることは伝えていない。

王様を誑かし、リーフェットなしでは生きていけないようにしてしまおうという作戦でもあるのだが、現在のところやや不利である。

寧ろリーフェットの方が、アンのお世話なしでは髪の毛すら手入れ出来ていないではないか。



「………永続性を願う魔術は、扱いが難しい。祝福になるべきものが呪いになり得ることもあるだろう。……………でも、君が望むのはどれも当たり前の事で、君がずっと得られなかったようなものばかりなのだろう。……………いいよ。その図案を目指すのなら、君に魔術を教えてあげよう」

「……………念の為に聞きますが、アンは、私がどんな刺繍を作ろうとしていると思っていたのですか?」

「さて、……………呪いや災いの欠片かもしれないね。そのような魔術は、善悪の区分はどうであれ稼げるから。…………あれ?」


話をしながら、アンはリーフェットの顔がとんでもないことになっている事に気付いたのだろう。

なぜだかは分からないが、困惑したように首を傾げている。


「私は、大事な刺繍魔術でそんな事はしません!刺繍は、………綺麗で楽しいものです。勿論、自分を守る為や自分の利益の為にも刺繍をしますが、呪いや災いになるような刺繍だけは、絶対に刺さないと決めていますから」



それは、リーフェットの戒めであった。


生まれて初めて手にした美しいものが刺繍魔術だったから、その領域だけは絶対に汚さないと決めたのだ。

元婚約者の王子に渡していた刺繍だって、凱旋の絵柄や、王子が喜んでいるような絵柄しか作っていない。


とは言え、出来上がった刺繍に役割を与えるのはそれを使う者達なので、結果としてリーフェットの刺繍が呪いや災いになることもあるのだろう。

今回、アンの命を繋ぐ為に作ろうとしている刺繍も、見方によっては災いとして分類されかねないものだ。

成功すればまだしも、失敗すればリーフェットは災厄を齎した魔女になる。



一度は処刑台に登った身だからこそ、それも理解はしていた。



「……………リーフェット。念の為に聞くけれど、昨日作っていた刺繍は何の図案だったんだい?」

「にゃこすです!」

「……………にゃ、……………こす?」

「はい!この前、にゃこすがバケツの中で眠っていたのですよ!あまりの愛くるしさに、ハンカチに、あの時のにゃこすの刺繍を入れました!」

「……………呪いの渦巻きではなく?」

「……………なんですって?」



聞こえてきた言葉の意味が分からず、リーフェットは眉を寄せた。


振り返るとなぜかアンが呆然としているので、やはり針の魔女として疑われているのだなと小さな胸の痛みを押し隠し、アンが買ってくれた小さな魔術仕掛けのポシェットから道具箱を取り出した。

ぱかりと開いて見せれば、アンもその中を覗き込んでくれる。


そしてその中から、刺繍途中のハンカチを取り出した。


「ほら、菫色にセージ色、霧雨の色に夜の入りの色。とても綺麗だと思いませんか?私は、色とりどりの刺繍糸を使って描き上げる、この魔術が大好きなんです」


リーフェットが取り出したのは、制作途中にある子猫がバケツの中で眠っている図案の刺繍である。

こうして見てもとても可愛くて、口元がふにゃりとしてしまう。

バケツの色に拘り何色もの刺繍糸を使ったので、これはきっと自慢のハンカチになるだろう。



「うん。僕も、刺繍糸はとても美しいと思うよ。けれど、その刺繍は取り敢えず燃やそうか」

「どうして?!」


またしても意味の分からないことを言われ、リーフェットはぎょっとした。

自分用にハンカチに刺繍しただけなのに、いくら何でも横暴過ぎるではないか。


「今は意志の力でどうにか耐えているけれど、そのような備えなく見てしまったら、うっかり死にかねないだろう。危ないから燃やしておくぞ」

「その、………王様はご存知ないのかもしれませんが、魔術を込めた刺繍だとしても、こんなに愛くるしいにゃこすを見ただけで人は死にませんよ?」

「いいかい?君はもの凄く常識人のふりをしてそんな事を言うけれど、その刺繍は、町一つを容易く滅ぼしかねないくらいの呪わしい仕上がりだぞ?」

「ちょっと、言われている事がよくわかりません………」


(も、もしかすると、子猫の図案に何か意味を隠していると思われているとか、実際に何かの暗喩になっていたりするのかしら…………?!)



だとすれば、何かとんでもない誤解を受けているのかもしれない。

そんな事を思いもせずにハンカチを広げてしまったリーフェットは、嫌な汗が背中に伝うのが分かった。


じわっと涙が滲んでしまったリーフェットに、今度はアンがぎょっとしたような顔になる。

慌てて体を持ち上げられ、向かい合うように膝に座らせられたリーフェットは、手にハンカチを持ったままぶるぶると震えるしかない。



「ごめん。言い方がまずかったね。魔術を教えるのは構わないし、僕も刺繍魔術は好きだよ。君にとってそれがどんなに大切なものなのかも理解しているつもりだ。だから、刺繍魔術を続けることに異論はない。……………ただ、この図案はいけないよ」

「ふぇ。……………にゃこすの刺繍には、どんな意味が隠れているのですか?」

「ん?………災厄の渦か何かではなく?」

「さ、さっきも言いましたが、にゃこすです!!この優雅な輪郭と、ふさふさ尻尾を見て下さい!!バケツの中に入って丸まっていますが、にゃこすなのですよ!!」

「尻尾…………?」

「尻尾!」



ぽかんと口を開けてこちらを見たアンに、リーフェットは漸く理解した。


図案の中に、何か隠された意味があると思われた訳ではない。

アンは、リーフェットの刺繍を上手に読み解けないのだ。



「………これでも僕は、君をとても大事に思っているつもりなのだけどなぁ。……それでも多分、これは尻尾じゃないと断言する」

「変ですね。なぜ、製作者の意見が否定されるのでしょう………」

「では、絵を描いてみてくれるかな」

「……………絵?」

「ああ。表現力というのはね、言うまでもなく君の魔術にはとても必要なものだ。そして、その表現力を安定させないと、魔術的な制御は難しくなる。……………もしかすると、表現力に問題があるのかもしれないから」

「がるるる!!」

「ほ、ほら、まずは互いの認識の齟齬を一致させよう。絵を描いてくれるかい?」

「……………分かりました。では、風景でも描きますか?」



あんまりな言いがかりにつんつんしてしまい、リーフェットがそう提案すると、なぜかアンは酷く優し気な微笑みを浮かべた。



「林檎を一つ」

「……………さ、さては私を馬鹿にしていますね?!」

「ん?難しいかい?………他に、もっと少ない手数で描けるものがあるかな………」

「林檎くらい描けますからね?!」

「……………よし、描いてみてくれ」



かくしてリーフェットは、アンが用意してくれた画用紙に渾身の林檎の絵を描いた。


なぜか、描き進めるとアンの表情がどんどん曇ってゆくが、用意された色鉛筆を使って立体的に仕上げてみせるので、もう少し待たれるがいいだろう。



(最高の林檎を描いて、アンを唸らせてみせる!!)



ややあって、怒れる乙女ことちびころは、一枚の絵を仕上げた。

厳かな気持ちでアンに差し出すと、なぜか元魔術王は震えているではないか。



「さては、私の画才に恐れをなしましたね!」

「贔屓目に見てこれは、……………混沌だ」

「林檎です!!」

「いいかい、リーフェット。贔屓目で見ても、混沌だからな」

「林檎ですから!!」

「……………はぁ。どうすればいいんだ、…………ここまで無残だとは………。林檎だぞ」

「む、無残なんかではありません!これは、立派な林檎です!それも、かなり上手な絵ですよ!」

「……………そうか。僕は君を誤解していたようだ。ずっとね、君は言われるがままとはいえ、あの国で災いの刺繍を刺していたのだと思ってきた。……………でもこうなると、……そもそもの画力の問題で誤解を受けていただけなのかもしれない」

「がるるる!!」



こちらに好意的な解釈も含まれていたようだが、リーフェットは怒り狂った。


アンは人外者のようなので正確な判断が出来ていないようだが、これはどこからどう見ても林檎の絵であるし、たかが林檎ごときを混沌に描ける人間などそうそういるまい。


つまりは、アンの目がおかしいのだ。



「……………よし。それなら、僕が一つ課題を出そう。僕からの最初の授業だと思っておくれ。………この絵を騎士団の連中に見せて、何が描いてあるのかを当てて貰うといい。因みに、君は全ての者達の回答を得るまで答えを口にしてはいけないよ」

「…………アン、私は魔術の扱い方を教えて欲しいのです。もしかすると、魔術的な描写という意味では何かが間違っているのかもしれません。でも、その場合は、理由を教えて下さった方がいいのでは?………このような課題を出される意味が分かりません」

「大丈夫だ。すぐに分かる。…………それと、二日目でいきなりの休講なんだが、明日の授業は休みにして街に何が美味しいものでも食べに行こうか。………そうだね、……君が元気になるように」

「もしかして、連日の魔術省の仕事のせいで、疲れて様子がおかしくなっているのでは………。ご高齢みたいだし、そろそろ休ませた方がいいのかしら…………」

「リーフェット、………独り言のつもりかもしれないけれど、全部僕に聞こえているからね?」

「っ?!」




朝食を食べた後、あまりにもアンが頑ななので、リーフェットは渋々騎士棟に出掛けることになった。

とは言え、リーフェットの足では時間がかかるので、アンが抱っこして連れていってくれる。

リーフェットを見かけると笑顔になった公爵邸の護衛騎士が、今日のにゃこすはカモミールの茂みの近くで日向ぼっこをしていたと教えてくれた。


その姿を想像してリーフェットが目をきらきらせると、なぜだか騎士は両手で顔を覆ってしまう。

最近、公爵邸の人達がみんなこんな感じなのはどうしてだろうと首を傾げていると、小さく苦笑する気配があった。



「……最近、皆さんは具合が悪いのでしょうか?或いは何か、こちらで悲しい事でもあったのかもしれません」

「僕のリーフェットが可愛いからだろうなぁ。以前から綺麗な子だとは思っていたけれど、子供姿になるとここまでだとは………」

「ちょっと、何を言っているのか分かりません。…………念の為にお伝えしておきますと、私は、子供の頃から皆に耐え難い程に醜いと言われてきましたし、鏡を見てもその頃と何ら変わりありませんよ?」



リーフェットがそう言うと、アンがふっと瞳を揺らした。


(……………あ)


ひやりとするような酷薄さは、まるで野生のけだもののよう。

こんな時に見せる凍えるような冷酷さは、アンが優しいばかりの生き物ではないことを教えてくれた。



「……………そうか。それはとても残念だ」

「残念……………?」

「僕が枝から下りる前に聞いていたら、僕の愛し子にそんな呪いの言葉を注ぎ続けた連中は、ばらばらにしてどこかにやってしまったのに」


さすがのリーフェットも、学院に入った後の周囲の様子を見て、自分が耐え難い程には醜くないということは知っていた。

とは言え友達は出来なかったし、誰も話しかけてくれなかったので普通より醜いくらいなのだろう。

だから、アンがこうして怒ってくれている理由も、何となくは分かるのだ。


(でも、アンが言う程に……………その、……………可愛いという事はないと思う。………だから、もしかすると、子供はみんな可愛いというような意味なのかもしれない?)



「……………有難うございます」

「うーん、多分だが、君は少しも分かっていないんだろうなぁ」

「ちびころの恩恵というところでしょうか。この姿はたいへん不本意ですが、みんなが優しくしてくれるのは確かなので、そのような意味ではちょっぴり嬉しかったりします」

「……………ふむ。まぁ、今後に向けて、自覚がない方が安全な部分もあるだろう。自分の首を絞めないようにする為にも、今はここで満足しておこうかな」

「アン…………?」



何だかよく分からないことをぶつぶつと呟いているアンに抱えられ、リーフェットは休日の騎士棟にやって来た。


公爵家からはそれなりに距離があるのでまたしても負担をかけていないか心配になったが、騎士棟に入ると、待っていたようにレイヴィアが何か書類を渡していたので、元々用事もあったようだ。


何だろうとリーフェットが覗き込もうとすると、くすりと笑ったアンが、気象観測を行う魔術師達のここ数日の報告書だよと教えてくれる。



「ほら、ここをご覧。……………この報告だと、二月後にも、大きな嵐がこの国に来るかもしれない」

「まぁ。…………魔術性の災いに近い規模なのです?」

「うん。この手の嵐は世界の果てにぶつかるまで勢力は落ちないから、軌道が逸れずに直撃となると、被害規模はそれなりになるだろうね」

「……………アンブラン。リーフェットを下ろしたらどうだ」

「ん?僕の弟子で花嫁候補なんだ。このままでいいだろう」


不意に、レイヴィアがそんな事を言うではないか。

確かにこれでは小さな子供のようだと気付き、リーフェットも慌ててじたばたする。


「アン、下ろして下さい!私は立派な淑女なので、一人で立つ事ぐらい出来るのですよ?」

「お、ちびじゃないか!!安息日なのにこっちに来たのか?はは、むちむちだなぁ」

「がるるる!」

「……………ジリアム。後見人の俺の前で、威嚇されるような言葉を控えるように。リーフェットはただ、幼いだけだ」

「がるる…………」

「団長も、そこそこ威嚇されていますけれどね……………」

「リーフェット、パンケーキでも食べていくか?アンブランの仕事に付き合わされて、困っただろう」

「パンケーキとなれば、吝かではありません……」

「そうだな。僕もいただこう」

「……………君にまで勧めたつもりはないんだが?」

「リーフェット、君の後見人が、大事な先生を虐めているぞ?」

「……………むぐぐ。……………パンケーキは皆の財産なので、みんなで美味しく食べられるといいと思います」



魔術対価の事があるので、そこではアンを擁護せざるを得ず、リーフェットは遠い目になった。

レイヴィアが寂しそうにこちらを見ているので、どこかでこちらの妖精の機嫌も取っておかなければならない。


後見人には違いないレイヴィアを蔑ろにすると、騎士棟に預けられている間中抱っこされている羽目になるのだ。



「そうそう。リーフェットにも、用事があったよね」

「は!そ、そうです。……………レイヴィア様、この絵を見て欲しいのですが」


アンに助け舟を出され、うっかり思考の半分以上が臨時パンケーキになってしまっていたリーフェットは、慌てて魔術ポシェットの中から林檎の絵を取り出した。


折り畳んだ画用紙を広げながら、魔術の授業の一環で絵を描いたのだと説明する。



「そうか。リーフェットの描いた絵なら……………ん?」

「ちびが絵を描くのを見るのは初めてだな。…………何だこれ、竜巻か?」

「がるる!!」

「どれどれ、私にも見せて下さい」

「ドーレン、何が描いてあるか分かるか?俺はどうも子供の絵には疎いみたいだ…………」

「がるる!」

「うわぁ。団長って、時々大雑把な感じに他人の心を抉りますよね」

「そうか?」

「……………ええと、……………これは、沼?」

「いや、さすがに沼じゃないだろう。赤色だぞ?」

「……………そうなりますと、血溜まりでしょうか」

「いやー、さすがにこんなちびに、そのお題はないんじゃないですか?……………爆発したトマトソースとか。あ、トマトスープだ!」

「林檎です!!!」



ここでリーフェットは、あんまりな騎士達の鈍感さに我慢出来なくなり答えを言ってしまった。


しかし、涙目で林檎の絵を両手で掲げたリーフェットに、なぜか三人は顔を見合わせるではないか。

なんだなんだと集まってきていた他の騎士達にもリーフェットは画用紙を掲げてみせたが、なぜか皆、そそくさと離れていってしまう。



「……………リーフェット、パンケーキの他にも美味しいクッキーがあるぞ」

「……………なぜ、レイヴィア様はそんな目で私を見るのですか?」

「ほら、世の中には、……………ままならないこともあるだろう。お菓子でも食べような」

「……………このちびの絵、ずっと見てると何とも言えない不安定な気持ちになってきますね………。呪符か何かに使えるんじゃないですか?」

「がるるる!!」

「……………なぜ、これを俺達に?」



レイヴィアに怪訝そうに訊かれ、ゆったりとした微笑みを浮かべて様子を見守っていたアンが肩を竦めてみせる。



「この通り、リーフェットの絵はこんな具合いだから、悪用されると困ると思ってね」

「……………成る程。ジリアムの感想も、あながち間違いじゃないのか」

「うん。画力が独特で、災いや呪いとして転用されかねない特殊さがある。予め、こういうもので悪意はないのだと伝えておいた方がいいと思ってね」

「そうだな。……………何も知らずに見たら、呪いだと思う者もいるだろう」

「ぐぎぎぎ…………」

「団長、このままいくと、ちびに嫌われますよ……………」

「ん?何か変な事でも言ったか?」



怒りのあまりわなわなしているリーフェットに気付き、ジリアムが間に入ってくれたが、レイヴィアはどうやら自分の発言の何が問題なのかさえ、分かっていないようだ。


自信作を散々こき下ろされたリーフェットが、それなら林檎を描いてみるがよいと言おうとしたその時、レイヴィアがはっとしたように胸のポケットから薄い手帳を取り出した。



「おや、魔術通達だね。何だろう」

「外務院からの連絡だな。……………第一王女殿下の代理か。……………これは……………」

「……………へぇ。……………こうきたか」


アンも同じ手帳を開いて、何かを読んでいるようだ。

この国の王宮勤めの者達が皆持っている小さな黒い革の手帳は、王宮内での公式な通達や連絡網が魔術仕掛けで配信される特別な魔術道具なのだ。


どんなお知らせがあったのだろうとリーフェットが必死に覗き込もうとしていると、アンが、ページを広げて問題の一文を読ませてくれる。



「……………次の災いの嵐の対策と対処を、……………ギャレリーアン魔術顧問に一任する。……………対策と王都での対処を……………?」

「なかなか大胆な命令だね。対策案を上げろというのであればそうするが、…………対処そのものも僕に丸投げしてきたようだ。となると、命じられたことを遂行出来ないようであれば、王女殿下に頭を下げるしかない」


アンの声はとても静かで、リーフェットは思わずそんな彼をじっと見上げてしまった。

奥では、表情を厳しくしたレイヴィアが、すぐさま法務院に確認に行くと、まだケープを羽織っていなかったジリアムに支度を命じている。



「アン…………」

「僕も、ジスファー公爵と話をした方が良さそうだ。内容を知らせずにいた可能性が高いが、嵐の対策に関わる任命権などは陛下の承認を得てはいるのだろうから、今からこの命令を撤回させるとなると少々手強いかもしれないな」

「この件は、騎士団からも抗議する。…………国民の命を何だと思っているんだ」

「団長、支度が出来ました!」

「行くぞ、ジリアム。……………アンブラン、交渉の手札ならあるだろう。どうにでもして、この命令を破棄させろ」

「また難しい事を…………。僕はこの国に来たばかりだし、それで顧問になった僕をよく思わない者達も多いだろう」



(……………そんな。だってアンは、体調が………)



今の仕事量だけでも、既に負担がかかっているのだ。

その上で、先程の報告書にあった規模の嵐の対策など自殺行為に等しい。

だがそれは、この国で祝祭の主人の庇護を受けるとされ、大きな権力を持つとされる第一王女からの命令なのだ。



リーフェットは、感情を窺わせない酷薄な微笑みを浮かべたアンを見ながら、ぎゅっと指先を握り込む。

テーブルの上には美味しそうなパンケーキが届けられていたが、いつものように食べられる自信はなかった。





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