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7: アンの秘密とお菓子の理由



真夜中に目が覚めてしまい、リーフェットは寝台の中でごろごろした。

あれこれ姿勢を変えても少しも眠気が戻らないので、小さく溜め息を吐く。



(今日は楽しかったな………)



雨降り鯨亭で美味しい昼食をいただいたリーフェットは、生まれて初めて誰かと料理を半分こした。

一口のやり取りはレイヴィアが初めてだったが、今度の初めてはアンである。

なお、それをアンに伝えたところ、レイヴィアは少し貪欲過ぎるので気を付けるようにと真顔で言われてしまい、さすがに赤ん坊を婚約者に出来ると聞いて少々の驚愕もあったリーフェットはこくりと頷いておく。



海沿いの瀟洒な街並みに、壮麗な文書館。

鮮やかな海の色や穏やかな波音などが、目を閉じるとすぐに思い出された。


(海沿いの街並みがとても素敵で、家令さんが教えてくれた建物は真っ白な神殿のような造りで素敵だったな)


純白の石造りの壮麗な建物に、ルスフェイトではよく見かける赤紫色の蔓薔薇の花が咲き誇る光景は、リーフェットのような世間知らずではなくとも、見惚れてしまう美しさだろう。


ここは海沿いに設けられた王都だが、交易と文化の拠点となる大国らしく、豊かな商人と聡明な学者達の街、というのがリーフェットのルスフェイト王都の第一印象だ。


粗野な振る舞いをする者達はあまり見かけず、街の騎士団や港の専用倉庫街なども含め、国の管理がきっちりと行き届いている。

魔術省と騎士団に次いで、外交と商業を取り仕切る公爵家が名を連ねるのは、それがこの国の糧だからなのだろう。


アンが屋敷に商人を呼ぶよりもずっといいと言っていただけあって、王都には目がちかちかしそうな程に、様々な店があった。

閉鎖的な祖国や、大陸中央に座していたローベアとはだいぶ雰囲気が違い、そこかしこに異国風の品々や佇まいを感じられるのが、ルスフェイト国の風景である。


タオルや織物の専門店に、陶磁器の専門店、紙道具の専門店に、見たこともない使い魔達や魔術の薬など。

リーフェットの部屋に必要な物を買いながらではあるが、アンは様々な店に立ち寄ってくれた。



(……………すごく、すごく、楽しかった!)


寝入り端は疲れていたのかこてんと眠ってしまったが、こんな風に夜中に目を覚ましてしまうと、今日の出来事が次々と思い出される。

思い出せば思い出す程、すっかり興奮してしまい眠れなくなったリーフェットは、アンに買ってもらったばかりの美しい織物を、もう一度見てみようと寝台から下りることにした。



がたんと音がしたのは、その時のことだ。

はっと息を呑み防壁魔術を立ち上げようとして、誰かがこの部屋に押し入ろうとしている音ではなく、屋敷のどこかで重たいものが倒れた音だと気付く。



(…………アン?)




ふと、昼間に街中で出会った補佐官の姿が思い出され、急に不安になる。

なぜだかその時、リーフェットは不審な物音を自分ごととして考えなかった。


ここはアンの魔術の中に設けられた屋敷だが、第一王女は祝祭の主人の庇護を得ていると言うではないか。

その力を借りれば、夏至から離れ始めた季節のせいで力を欠いているアンの魔術を破れるかもしれない。


アンがどれだけの力を持っていても、祝祭の系譜の人外者が臣下なら、それを司る主人は王のようなものなので、自身の祝祭で力を得た祝祭の主人には及ばないのだ。



(でも、アンは、仮にも魔術を司る国の王様だった人だもの。………侵入者がいても、そのくらいは自分でどうにか出来るのではないかしら)


不安はあったが、そう思い直してふるふると首を横に振ったリーフェットはしかし、もう一つ嫌な可能性に思い当ってしまった。


(でも、…………アンが、気付いていなかったらどうしよう………)



彼は人外者である。


リーフェットはよく知らないが、そんな者達は何だか得体の知れないものに勝手に守られていて、アンには何も出来なかった侵入者がこちらに標的を変えるかもしれない。

そう考えて漸く、不審な物音を自分と結び付けて考えたのだ。



(………昼間に出会った補佐官のような顔をした人には、見覚えがある。誰かを思い通りにする事に慣れていて、自分の利益の為に他人を傷付けても何とも思わない人の顔だわ)


かつてリーフェットが暮らしていた王宮にはそのような者達が大勢いて、リーフェットは、自分を傷付けるかもしれない彼等を常に見分けられるようにしておかねばならなかった。

無関心な人達と区別が付けられなければ、思わぬところで意地悪をされる事があったからだ。


そんな人物の手配で誰かがこの屋敷に侵入しているのだとしたら、何の成果もなく帰れはしないだろう。

補佐官がリーフェットの処遇についても口を挟んでいたことを思い出し、小さく眉を寄せる。

まずまちがいなく、彼等にとってはリーフェットも旨味のある餌ではないか。



「………むぅ」


少し考えて扉を開けると、指先に灯火の魔術を置いて暗い廊下を覗き込む。

誰もいない廊下はしんと静まり返っていたが、人影などはないようだ。

庭に面した窓から青白い夜の光が落ちていて真っ暗ではなかったので、リーフェットは燈火の魔術を消した。


小さな体のお陰か、足音はない。



(多分、こちら側から聞こえてきた筈………)


リーフェットが不用心なのを承知の上で廊下に出たのは、さすがにあの補佐官自らが乗り込んでは来ないだろうと考えてだった。

祝祭の主人の庇護を得た者が仕掛けてきたらさすがに危険だが、逆に言えば、そこまでの者達が動きさえしなければこちらにも分がある。


それに、楽しいお出かけをして沢山の買い物をしてきたばかりの今夜、これから暮らしていくのかもしれない屋敷を誰かに踏み荒らされるのが、リーフェットは我慢ならなかった。



(………アンだって、嘘を吐いているかもしれないのに)


でも、アンにリーフェットを連れ帰るような思惑があるのなら、ここで穏やかに過ごせる日数は限られている。

その、貴重で穏やかな夜を邪魔されたのだとすれば、リーフェットはそんな不届き者を許さないぞと考え、ふすふすと息を吐く。



ごとん。



また同じような音がした。

びゃっと飛び上がって音がした方を見たリーフェットは、おやっと眉を持ち上げる。

リーフェットの部屋のある二階の右端には、アンの部屋がある筈だ。

今の物音は、どうもそんなアンの部屋から聞こえてきたような気がする。



(まだアンが起きているだけだったんだ……!)



やれやれと溜め息を吐き部屋に引き返そうとして、リーフェットは足を止めた。


とは言え、あのアンブラン王が、リーフェットの部屋まで聞こえてしまうような物音を、こんな深夜に立てるだろうか。

何となく、アンはそんな事をしないような気がしたリーフェットは、むちむちの腕を組む。




(…………もし、アンが襲われていたら、守ってあげた方が、………いいわよね)


廊下には窓からの夜明かりを受けて、小さな影が伸びている。

そんな自分の影を見下ろしながら、どうしたらいいのだろうと考えかけ、リーフェットは漸く、自分が始まったばかりのここでの暮らしに早くも執着していることに気付いた。


なぜだろうと考え、すぐに気付いた。

今日の出来事は、あの寒い塔の部屋でリーフェットが何回も思い描いてきた、憧れの物語にそっくりではないか。



(……………あ)



食堂での美味しい食事や、美しい異国の街並みを二人で歩いたこと。

あれこれと話しながら買い物をした時間は、リーフェットが初めて知るような心浮き立つ楽しさだった。

こんな生活がずっと続けばいいのにと何回も思う度に、とは言えアンは、やはり自分を殺すかもしれないのだと思い胸が痛んだが、リーフェットは、まだ一日目でしかないこの暮らしが偽物でもこれからも続いて欲しかった。


他に素敵なものを知らなかったからなのか、アンがやっぱり初恋の人なのが大きいのかは分からない。

でも、リーフェットの人生の中で安堵と喜びと楽しさが重なった日は初めてだった。

まるで、ずっと思い描いてきた物語のようだった。


(だから私は、真っ先にアンの心配をしてしまったのだわ。………はぁ)



相手は自分を殺すかも知れない人なのに、対人耐性がなさ過ぎるあまりに、まさかのたった一日でまたしてもこのざまとは。

なんて単純なのだリーフェットよとがくりと肩を落としかけ、ぴたりと動きを止めた。



「………は!」



そしてここで、リーフェットは素晴らしい天啓を得た。



(……………もしかして、危険な目に遭っているアンを助けてあげたら、私に恩義を感じてくれるのではないかしら?!)



その前にはまず、アンが襲われているという緊急事態が必然であるのだが、その時は気付かなかった。

ただ、アンに何某かの利益を齎せば、現状を維持する必要性を感じて貰えるのではないかと考えたのだ。

即ち、リーフェットがこんな簡単に籠絡されかけたのなら、それを仕返す作戦である。



(そして、不本意でもそこから逃れられなくなる方法を、…………私はよく知っている)


かつてのリーフェットは、衣食住がある程度完備されているというだけの理由で、王子の婚約者という立場から逃れられずにいたではないか。

つまり、こればかりはという理由を作ってしまえば、不本意や予定外でも現状を維持するということがあるのだ。



(…………よし!アンは私が守ってあげよう!)



かくしてリーフェットは、そもそもの前提が整っているかどうかも分からないのにアンを守ってあげようと考え、それがどれだけ稚拙な作戦なのかに気付かないまま、猛然とアンの部屋に突入した。

扉には施錠などなかったがちびころにはいささか重いので、魔術を使って押し開ける。


そして、敵がいれば即座に粉々にしてみせるという思いで突進してから、おやっと目を瞠った。



(……………あれ)



部屋は静かであった。

とてもではないが、侵入者がいるような雰囲気ではない。

本当に誰かがいるのであれば、これだけ物音を立てて部屋に入ってきたリーフェットを見逃しはしないだろう。


おかしいぞこれではあの素晴らしい計画が成立しないではないかと首を傾げながら進むと、リーフェットの部屋に対して思っていた以上に簡素なアンの部屋の中を捜索する。


部屋にはまだ明かりが灯っていたが、アンの姿はないようだ。


しかし、廊下の端まで歩いてきたせいで少しばかりぜいぜいしていたリーフェットは、それでも、寝室に繋がる扉が開いているのを見逃さなかった。

どこかで目的と手段の順番が入れ替わってしまい、何としてでもアンに恩を売ってみせるという意気込みだったのだ。



「……………アン?………入りますね」



ぎいっと音を立てて、少しだけ開いていた寝室の扉を開いた。


さすがに寝室なので、一言断りを入れてから中に入ると、寝台の上にはアンの姿はないようだ。

けれどもその代わりに、毛布が反対側にずり落ちていて、まるで寝台の上の何かがそのまま向こう側に落ちたような有り様だった。



「アン?!」


ぎょっとしたリーフェットが慌ててそちら側に回り込むと、案の定、アンが床に倒れているではないか。

まさか、寝台から転げ落ちた音だったのではと息を呑み、床の上に投げ出された手を慌てて持ち上げる。


(…………お、重い!!)


倒れているアンを助け起こそうとして、リーフェットは呆然とした。

アンは背の高い男性だが、その手を持ち上げるだけのことさえ、今のリーフェットには出来ないのだ。

ぞっとしてアンの顔を覗き込んだが、残念ながら意識がないようだ。



(そう言えばアンは、…………祭祀だった人達が、命を繋いでくれたようなことを話していなかっただろうか……)


それはまさか、継続的に必要な措置だったのではないかと思うと血の気が引きそうになる。

触れた指先は氷のように冷たくて、とてもではないが寝惚けて寝台から落ちただけには思えない。

明らかに異常だった。



(……………つ、使える魔術)


素早く幾つかの魔術を計算して、リーフェットはアンの体を起こす事を優先させた。

意識のない人をむやみに動かしたくはないが、この体勢では、怪我を負っていても分からない。

寝台の天蓋にかかっていたカーテンに使役魔術をかけて仮初の命を与えると、アンを引っ張り上げるように命じておく。


「カーテンなら、柔らかいから大丈夫だと思うけれど………」


体を起こさせて寝台に寄りかかるように座らせれば、ここでやっとアンの表情が見えた。

きつく眉を寄せた表情は苦しげで、額には僅かだが汗が浮かんでいる。

幸いにも外傷はなさそうだが、となると理由を突き止めるのは至難の技だ。


座らせた体勢でもまだ少し高い位置にあるアンのおでこに触れると、汗をかいているくせに怖いくらいに冷たかった。


「アン!」


名前を呼んでも、覚醒の兆候はない。

魔術を添わせて体調を調べようとしても、体が冷たいことと呼吸が浅い事くらいしか分からなかった。

こうなってしまうと、出来るのは強制治癒ぐらいしかない。


(でも私には、…………治癒魔術が使えないのだわ)


それが生まれ持った欠落だと知ったときはあんなにほっとしたのに、今は、悲しくて胸が潰れそうだ。

もし、家族や妹のように治癒魔術が使えたなら、すぐにだってアンを助けられたかもしれないのに。



(ど、……………どうしよう)


確かにリーフェットは器用だけれど、これ以上どうしたらいいのか分からなくて指先が震えてしまう。

血の気が引いて怖さのあまりに気分が悪くなりかけ、そんな場合ではないのだと自分を叱咤した。


おろおろしてアンの周囲を歩きまわってから、リーフェットが近くにある公爵邸の事を思い出すまでには少し時間がかかってしまったように思う。

だが、助けを求めていいと言ってくれたことを思い出して、びゃんと飛び上がった。



「そ、そうだわ。レイヴィア様に………!!」

「……………彼等に借りを作るのは、やめておいた方がいいだろうね」

「アン?!」


弱々しかったけれど聞こえたアンの声に、リーフェットはもう一度飛び上がった。

振り返ると、薄っすらとではあるが目が開いているではないか。


リーフェットは、安堵のあまりにその場に座り込んでしまった。


「何があったのですか?………して欲しい事はあります?持病ならお薬の場所を教えて下さい!!もし突発的なことなら、やはり公爵邸に行ってお医者さんを呼んで貰いますから」

「……………心配をかけたね。ああ、泣かないで」

「にゃぐ、にゃ、泣いていません!そして、私のことなどはどうでもいいので、何があったのかを教えて下さい!!」


リーフェットはこんなにもどうにかしなければと大慌てなのに、アンはなぜか、淡く微笑んでこちらを気遣わしげに見ている。

変なところで余裕を見せる王様に、リーフェットは怒り狂った。


「……………ごめん。そうだね、寝台の横の机の上に置いてある、箱を取ってくれるかな。油断をしていてすぐに眠ってしまったせいで、自分の手入れを忘れてしまってね」

「………はこ」

「うん。………いや、君には重いか」

「いえ、これですね。カーテン、その箱を大事にアンに寄越すのですよ」

「…………え?」


ここで初めて、アンはカーテンがいつの間にか生きている事に気付いたようだ。

しゅばっと敬礼をして、寝台横の箱を渡してくれたカーテンをまじまじと見つめている。


「……………気のせいだろうか。僕の部屋の寝台のカーテンに、何かをしたのかい?」

「……………気のせいでしょうか。その箱は、今日買ったお菓子屋さんの焼き菓子でしかないと思うのです」

「ああ、これでいいんだ。僕はほら、甘いものを食べないと弱る体質でね。………え、このカーテン何だろう……」

「なぬ…………」



アンは、驚愕の眼差しで見つめるリーフェットの前で、おぼつかない手つきで箱を開けて個包装の焼き菓子を取り出すと、丁寧に包み紙を開いてぱくりと食べた。


だが、指先は震えていたし、どこか苦し気に咀嚼する様子は少しも美味しそうではない。

それだけでもう、この行為には糖分摂取以外の理由があるのだと知らせるには充分ではないか。


そして、焼き菓子の一つを食べ終えると、アンの青ざめていた頬に血の気が戻ったような気がした。

まだ顔色は良くないが、呼吸も少し落ち着いたようだし、指ももう震えていない。



「……………魔術対価なのですか?」

「いやまさか。僕はただのお菓子好きだよ。ただ、重度の中毒症状があって、時々こんな風に倒れてしまうんだ」

「……………嘘つきです」



リーフェットがすぐさまそう言えば、アンは淡く微笑んだ。


魔術対価以外にどんな理由があるというのだろう。

リーフェットは家族の固有魔術を受け継がなかったが、似たような症状で一族に助けを求めてきた者達を何人も見てきた。


(…………あの体の冷たさに弱り方、特定のものを取り込んだ途端に血色が戻ったのも、まさしくその症状通りだわ)



魔術師は、何某かの障りや呪いを緩和する為に対価を背負う事がある。


大きなものでは心や命を失うが、特定の食品や飲料、煙草や行為などでも緩和出来ることも少なくない。

リーフェットの一族は、それらの対価を薬や治療に置き換えることも出来たので、魔術師達にも信奉されていた一族だった。



(でも、……………私にはそれが出来ない)



使えないのではなく、持っていない。

それは、リーフェットが今のアンにしてあげられることは何もないという事だ。



「リーフェット、大人の男には秘密があるものだよ」


呆然と立ち尽くしているリーフェットの表情に何を見たのか、こちらを見たアンが穏やかな声でそんな事を言う。


小さな子供を宥めるような優しい声に、ああこの人は本当のことを言う気はないのだなと感じ、リーフェットはなぜだか泣きたくなった。


友達でもないし、本物の師弟でもなかった。

それどころか、彼は一度でもリーフェットを処刑するという判決に同意し、今だってその取り決めを実行しようとしているかもしれない。

それなのに、本当のことを言ってくれなかったのが、なぜだか堪らなく悲しかった。



「……………私には、治癒魔術は使えません」


囁く程の声でそう言えば、こちらを見ていたアンが瞳を揺らす。

大人だった筈のリーフェットはこんなことでは泣かない筈なのに、どうして涙が込み上げてきてしまうのだろう。


(それは、今の生活が気に入ってしまって、これを失わない為に、アンに恩を売らなければいけないのにそう出来なかったから)


いいや違う。


本当はただ、アンの部屋の方で物音が聞こえて、アンに何かあったらと思うと怖くて堪らなくて、アンが倒れているのを見て息が止まりそうになっただけなのだ。


手のひらの中にあったきらきらと光る素敵なものが、またなくなってしまいそうで怖くて堪らなかった。


(アンは、あの刺繍道具の箱とは違う)


そんなことは分かっているけれど、本当はリーフェットを殺すかもしれないけれど、でも、少なくとも今はリーフェットの手の中に留まっていてくれる素敵なもの。



それにきっと、アンがいつも優しくしてくれるのがいけない。

いつだって彼は、リーフェットの手のひらに新しい宝物を載せてくれるから。



「……………リーフェット、おいで」

「えぐ……………。私を宥めるよりも、自分の体調を気遣って下さい。どうせ魔術対価なのですから、もっと焼き菓子を食べるべきでふ…………えぐ」

「甘いお菓子も勿論必要だけれどね。……代わりに、君を抱き締めてもいいかい?」

「…………ふぇ」


思いがけない問いかけに、リーフェットは目を瞬いた。

込み上げてきていた涙が、睫毛に弾かれてぽろりと落ちる。


「君は僕と同じ夏至生まれの子供だから、君を抱き締めているとかなり楽になると思うんだ」

「……………そんな事はない筈です」

「僕が言うんだから、間違いない。………この通り、確かにあまり体調が良くないんだ。手を貸してくれるかい?」

「………むぐぅ」


にっこり微笑んで手を差し出したアンは、はっとする程に美しかった。

けれども、僅かに残った苦痛の影に色香にも似た危うさがあり、リーフェットはじわじわと頬が熱くなる。



(でも、…………)



伸ばした手と、呼びかける声音には、不思議な切実さがあった。

それは、ルスフェイトの街で見た寄る辺ない眼差しと同じ、どこにも行けないもどかしさのようなもの。


あのお城の塔の部屋に閉じ込められたリーフェットが、窓硝子にいつも映していた自分の眼差しとよく似ていたから。



「……………仕方がありません。アンは、私が一目惚れした綺麗な布を買ってくれましたから」

「それなら、あの布を君に買ってあげた少し前の僕に感謝しなきゃだね。……………ああ、いい香りだ」

「ぎゃ?!に、匂いを嗅ぐのはやめて下さい!!変態の所業ですよ?!」


ぽてぽてと歩いてゆき、伸ばされたアンの腕の中に渋々収まったリーフェットは、自分を抱き締めたアンが、いきなり顔を埋めるようにして匂いを嗅いできたことに驚愕した。


慌てて暴れたが、先程まで意識なく倒れていたくせに、腕の力が存外に強い。



「こらこら、暴れてはいけないよ」

「むぎゃわ!!変態め!!」

「ん?僕が話しているのは魔術の香りのことだよ。ほら、この土地には僕達の良く知る夏至祭はないだろう?同じ系譜の魔術の香りを嗅ぐとほっとするんだ」

「ぐぅ。………理由が成り立つくせに、思っていた以上に嫌なものが求められていまふ…………」



リーフェットを抱き上げ、アンが立ち上がる。

一瞬、こんなにすぐに立ち上がってしまって大丈夫だろうかと心配になったが、思っていたよりも動作はしっかりとしているようだ。



(…………それはつまり、こんな風に倒れるのが初めてではないということだわ)



初めて発作などで倒れる患者は、その直後は慎重になるものだ。

今のアンのようにすぐに動けるとなると、何度も同じような事があり、自分の体の反応や限界を良く知っているのは間違いない。



「……………そんな不安そうな顔をしないで、リーフェット。今夜は、もう一つ焼き菓子を食べて大人しく寝ているよ。思っていたよりも君との買い物が楽しくて、ついつい焼き菓子を食べ忘れたまま寝てしまったんだ」

「…………体に不調があるのに、魔術顧問などしていていいのですか?魔術を消耗する事でも、同じような不調が出る筈です。…………今日だって、朝食で買い置きのあった林檎のパイを食べていましたよね?」



朝食で補給をしておいたのなら、それ以降が足りていなかったのだろう。


アンが他にいつお菓子を食べていたのかを思い出そうとして、街歩きの際には、持っていた焼き菓子をリーフェットの口に入れてしまったのだと気付いた。

おまけに、買い物の合間に入った店は、アンがすっかり食べるお口になってしまっていたせいで、菓子の食べられるようなカフェ類ではなく、美味しい茹で蟹を食べる店だったではないか。


(夜も市場にある屋台で食べたから、………この屋敷に戻ってくるまでに、一度もお菓子を食べられなかったんだわ)




全部全部、リーフェットがずっと大はしゃぎだったせいだ。



アンからは、一日に五回はお菓子を食べると聞いていたのに、リーフェットは少しもその理由を考えはしなかった。


屋敷に戻ってからも、アンはずっとリーフェットの世話をしていたではないか。

一緒に荷解きをし、入浴の間に浴槽内で転ばないようにと浴室の前で待っていてくれ、小さな手で髪の毛が上手く乾かせないリーフェットの髪を拭いてくれた。

それなのにリーフェットは、アンが浴室の前に立っていたことなんかで腹を立てていたのだ。



「ご、……………ごめんなさい」


また涙が込み上げてきてしまい、リーフェットは震える声で何とか謝った。



以前はこんな風にすぐに泣いていなかったので、やっぱり、幼児化が何かの影響を与えているのだろう。

以前のリーフェットの思考は維持出来ているが、ふとした折りに心が大きく揺れてしまう。



そんなリーフェットを見て、アンはにこりと笑った。



「沢山お菓子を食べて、君にこうして触れておけば問題ない。それに今日は、少し多めに魔術を使ったのを僕自身があまり深刻に捉えていなかったんだ。………街で出会った男をちょっと調べてみたりもしていたから、思っていたより消耗していたんだろう」

「……………沢山お菓子を食べたら、治りますか?」

「さすがに、食べ過ぎると年齢のせいもあって胸やけがね…………。その点、君を抱いて眠れば充分に補えるのだから、こんなに有難い事はない」

「…………ちょっと、話の方向がおかしくなってきました」

「うん?リーフェットは、僕を心配してくれるのだろう?今夜は、一緒にいてくれると嬉しいな」

「……………私は、見た目通りのちびころではないのですよ?」

「うん。とは言え、僕とはどちらにせよあんまりな歳の差だから、そこは気にしないよ」

「そちらの問題だけみたいになった!!」



そのまま、さて眠ろうかというアンにいそいそと寝台の中に運ばれ、リーフェットは抵抗した。


だが、また目を離した隙にアンが倒れたらどうしようと思うと全力では抵抗出来ず、そのままリーフェットを抱き締めてすやすやと眠ってしまったアンを、暗い目で見つめる羽目になる。



「……………なぜ、こうなったのだ」



なお、リーフェットはカーテンの魔術を解くのをすっかり忘れていたので、夜明けとともに遊んで欲しくてじゃれついて来たカーテンに、アン共々叩き起こされる羽目になったのだった。





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