6: 新しい家と海の見える食堂
レイヴィアの心に過大な負荷をかけつつ、リーフェットとアンの引っ越しは早々に完了した。
引っ越しとは言え魔術の中に持ってる屋敷の入り口を、クレア公爵家の庭に作り付けるだけなので、術式陣を描けばほら終わりだよと言うのはアンの言い分である。
リーフェットは、それが数日がかりで行う魔術だと知っていたのでとても遠い目になったが、アンが人間ではないというのであれば、それも不思議な事ではないのだろう。
困惑していたのは、リーフェットばかりではない。
クレア公爵家の王都の屋敷で働く者達もまた、突然見ず知らずの二人組を屋敷の敷地内に受け入れるようになって、たいそう困惑していた。
ただでさえ社交下手なリーフェットが、初めまして突然今日からここで暮らしますというあんまりな挨拶をしなければならずにもぞもぞしていると、アンが朗らかに挨拶を済ませてくれたのでほっとした。
(それに、思っていたよりも好意的だった………!)
幸いにも、レイヴィアが既にリーフェットの話はしていたらしく、家令や使用人達は、リーフェットを歓迎してくれた。
坊ちゃんが引き取る筈だったお嬢さんなのでと、アンに虐められたら公爵家に駆けこめばいいと言ってくれたどころか、食事やおやつに困ってもお邪魔していいらしい。
寧ろ食事はこちらですればいいとレイヴィアは言ってくれたが、アンとの話し合いで必要であればという事になっている。
「そこはまぁ、彼もすぐに引き下がったね。本人が、食事は殆ど騎士棟で摂っているからでもあるのだろう」
「むぐぅ。朝食のパンケーキが、食べられなくなりました…………」
「騎士棟の食堂が良ければ、僕が仕事に出かける時間を早めてそちらで食べるかい?でも、パンケーキくらいなら焼いてあげるよ」
「…………アン………は、パンケーキが焼けるのですか?」
「料理全般は割と得意な方かな。ただ、甘い物は誰かが作ったものしか食べないんだ。普段は買って来ることが多いから、リーフェット用のシロップとクリームを用意しておかないとだね」
「甘い物がお好きなのですか?」
そう言えば、昨日も騎士棟の食堂で生クリームたっぷりのパンケーキをぺろりと食べていた。
あれだけ甘くして食べる男性は珍しいので、少し意外に思っていたのだ。
「そうだな、一日に五回くらいは菓子を食べるかな」
「……………ご、ごかい?!」
「男が仕事の後に嗜むものは色々あるだろうけれど、僕の場合は、仕事をすると甘い物が食べたくなるみたいなんだ。この王都でもいい菓子店を七軒くらい見付けてあるから、一緒にあれこれ巡ってみようか」
「は、はい!」
目をきらきらさせて頷いてしまってから、リーフェットはおやっと首を傾げた。
こちらに来てすぐにリーフェットを探し出したのかと思ったが、どうやらこの様子だと、あちこちに寄り道をしていたようである。
探索に時間をかけていたというよりは、観光でもしていたかのようではないか。
「物凄く冷たい目で僕を見るのは、どうしてだろう?」
「いえ、本当に休暇だったのだなと思っていただけです」
「慣れない土地だったからか、君を探すのに少しだけ手間取ってね。探しながら、街の人達に美味しい菓子店を教えて貰っていたんだ。正確には九軒あったのだけれど、内二件は基準に達しなかったので次の利用はない」
そんなことを少し酷薄な微笑みなどを添えて言うものだから、リーフェットは、おもむろに自分がこちらに来てからの日数を数え始める。
いつの出立だったのかは謎だが、アンと再会したのは五日目のことだ。
それに対して九軒でも、さすがに多過ぎやしないだろうか。
「……………まさかとは思いますが、お金を使い果たしたのは、お菓子屋さん巡りのせいではありませんよね?」
「……………さ、さて、そろそろ出かけようか。海沿いの食堂は人気店が多いから、早く並ばないと混むんだ」
「食堂巡りのせいでもありませんよね!?」
そう言えばこちらの元王様は、仕事をしないとお菓子も食べられないと言っていなかっただろうか。
すっかり疑いを強めたリーフェットは、生計を一緒にするのであればお金の管理について話し合っておかなければならないと震え上がる。
家から追い出されて仕事を探した事のあるリーフェットは、多少なりとも、世の中のお金の価値についての理解があるつもりだ。
また、学院に通っていた頃は、刺繍糸欲しさに学院から紹介された店で手伝いをしたこともある。
辺境都市までを有する国の王都ともなれば、それなりに物価も高いだろう。
果たしてこの元王様は、お金の使い方をきちんと理解しているのだろうか。
(私の知っている事だけで足りるかどうかも不安なのに、その上アンが世間知らずで、散財する人だったらどうしよう…………)
可能であればリーフェットも働きたいが、果たしてこの年齢で仕事を得られるだろうか。
きりりとした顔になったリーフェットが、いつかこっそりレイヴィアに相談してみようと考えていると、手を伸ばしたアンにひょいと抱き上げられる。
「がるる!」
「今朝も、屋敷の二階を探索していて転んだだろう?」
「あ、あれは、絨毯の端っこに躓いただけです。…………足は足りていますよ?」
「うん。だとしても、以前よりはだいぶ短くなってしまったから、ここは僕を存分に使うといい。折角こんな美しい街に来たのに、まだどこも見ていないんだって?」
微笑んだアンにそう言われ、リーフェットはこくりと頷いた。
騎士達は皆優しかったが、そもそもが仕事をするべき場所でリーフェットを預かっているので、観光の為に外に連れ出そうという発想自体がなかったのだろう。
女性商人に保護された場所から見えた海がもう一度見たくて、実はずっとそわそわしていたのだ。
「では、出掛けようか」
そして、子供抱っこなのがたいへんに解せないが、リーフェットはアンに抱き上げられたまま出かけることになった。
(………ここが、私の新しい家)
扉を閉める前に振り返ると、リーフェットがずっと夢見てきたような柔らかな白とセージグリーンで調えた室内が見えた。
室内の調度品は上質な物が多いが、決して華美なばかりではない落ち着いたものばかりだ。
屋敷そのものは手狭だとアンは言うが、部屋が七個に工房が一つ、更には浴室は二つあり、充分に広いお屋敷ではないか。
横置きの長方形型の白い建物は、屋根は青みがかった灰色で、庭園の中に庭園というのも不思議な話だが、美しい花々が咲き乱れる庭園は美しさよりも安らぎを感じるような造りになっていた。
(………あれ?)
ちかりと、何かが揺れたような気配がある。
ふと、自分を持ち上げているアンの横顔に、何かを感じたが、リーフェットが顔を上げたことに気付いてこちらを見たアンには、先程感じたような違和感はもうどこにもなかった。
「おでかけでございますか」
「うん。リーフェットを連れて、雨降り鯨の店に行こうと思っている。ああ、護衛などは必要ないよ。僕はこれでも有能な魔術師だし、ジスファー公爵から身分を示す書類も貰ったからね」
リーフェット達が門に向かうと、息を切らせて駆け寄ってきたのはクレア公爵邸の家令だった。
本来であればこんなところに走ってくる人ではないので、リーフェットはすっかり恐縮してしまう。
(でも、アンがこの国で得た役職なども踏まえて、家令が来るしかなかったのではないかしら………)
そう思えば、申し訳ない限りではないか。
リーフェットは慌ててぺこりと頭を下げ、気付いた家令がにっこりと微笑んでくれた。
「ですが、リーフェット様はまだお子様でございます。馬車などの手配をいたしましょうか?」
「いや、今日の目的地は市井の食堂だから僕が抱いて行くよ。なに、魔術の道を使えばすぐだ。それに、この子に王都を見せてあげようと思っているんだ。まだ、海辺の景色も知らないそうだから」
アンがそう言うと、穏やかな微笑みを浮かべていた家令がなぜか、かっと目を見開く。
「それはいけませんね。秋の入りのこの季節は、ルスフェイトの王都が最も美しい時期の一つになります。雨降り鯨亭の窓からも海辺の景色はよく見えますが、是非に、すぐ近くにあります文書館の方にも足を運ばれると宜しいかと」
「ではそうしよう。今度、王都で見ておくべき場所などを教えて貰ってもいいかい?今日は買い物も予定しているので、君が教えてくれた文書館の辺りを経由してから、せいぜい記念公園に寄れる程度だろう。なので、良い場所があれば、次の休み出掛けたい」
「………ふむ。街中に偏っておられるのはそういう事でしたか。では、今夜までに幾つかリストにしておきましょう」
「それは助かる。魔術省の誰かに聞くより、君のような人間に教えて貰った方がいいと考えて大正解だった」
最後の一言で実に巧みに家令からの評価も上げてしまい、アンは、公爵邸の門の外に出ると、その場で意気揚々と魔術の道を開いた。
なお、この魔術の道は高位の魔術師だけが使える、それ以外の者達が使えない特別な道で、外部から見えないだけの透明通路と、世界の表層に見えていないあわいの道を使う時短路がある。
時短路については、そのまま妖精の国や精霊の帝国に繋がっていることもあるので、迷い込まないように注意しなければいけないし、うっかり高位の人外者に出会った場合の備えも必要なのだとか。
「は!にゃこす!!」
「にゃ、……………こす?」
「あの子です!!灰色は見ましたが、茶色い子もいるのですね」
公爵邸の入り口のところで、リーフェットには嬉しい出来事があった。
クレア公爵家の屋敷前には、馬車用に整備された半円の広場があるのだが、そこに面した私有地内の歩道に、茶色い子猫がいたのだ。
アンの腕の中で飛び跳ねるようにして笑顔になったリーフェットに、なぜか、門を守っていた騎士達や、門のところまで同行してくれた家令が片手で顔を覆ってしまう。
アンもなぜか震えているので、リーフェットはおやっと首を傾げた。
「もしかして、弾んでしまうと腕が折れそうに……」
「ならないから、好きなだけ暴れてもいいよ。…………いや、リーフェットが可愛過ぎて……」
「可愛いのは、にゃこすなのですよ………?」
「……………その呼び方は、誰に教わったんだい?」
「以前に、………街で小さな子供がそう呼んでいました。ふぁ!!にゃこすが、ぐいんとしました!!」
「うん。ああやって、伸びをしているんだね。………そうか、君の育った国は寒い土地だったから、子猫などはあまり見かけなかったのだろう。ローベアにもあまりいなかったしね」
「愛くるしいです…………。にゃこすは、完璧な生き物ですね………」
あまりの可愛さにリーフェットが万感の思いでそう呟くと、アンが小さく笑う。
君にその呼び方を教えた子供も、きっと舌が回っていなかったのだろうねと言われたが、意味が分からずに首を傾げた。
「もう少し見ていくかい?」
「お昼の食堂は、混むのですよね?であれば、昼食を優先します」
「了解した」
(わ………!!)
ふわりと立ち昇る魔術の風に、どこか郷愁を掻き立てる草原の香りがした。
アンは躊躇いもなく薄闇に足を踏み入れ、気付くとそこはもう王都の街中ではないか。
目を瞬き、小さな手でごしごし擦ってから、リーフェットは無言でアンを見上げる。
「……………まじゅつのみちは、あるかないのですか?………一瞬で、街に来ています」
「言っただろう。僕は人間ではないって。このくらいであればいくらでも」
「でも、ここは見知らぬ土地だったのでしょう?」
「把握するまでに半日かかった。国内という意味では、もう少しかかるかな」
「ほぇ…………」
(………あ、………まただ)
魔術師としては規格外などころか、ある程度の階位の人外者でもそうそう出来ないようなことを言ってのけたアンが、僅かに瞳を細めた。
その仕草にまた、違和感が残る。
一瞬、やはりリーフェットの事を殺そうとしているのだろうかと考えてひやりとしたが、その意図はないとは言えないものの、今回は違う理由のようだ。
「………もしかしてアンは、困っていますか?」
リーフェットがそう問いかけると、アンは小さく息を呑んだ。
鮮やかな青緑色の瞳がこちらを見ると、その美貌には、どきりとするような人ならざる者の気配がある。
それは、最近のアンが見せる柔らかさではなく、どこか途方に暮れた人ならざるものの眼差しだった。
「…………そう見えるかい?」
「私とこうして過ごすのが、苦手なのではありませんか?」
「いや、………そういう訳ではないんだが、………僕は、こうして誰かと距離を詰めるのは初めてでね」
(………むむ?!)
それは、予想もしない返答だった。
だって、この王様の周囲には、いつもどれだけの人がいただろう。
人たらしの王とまで言われていたアンブラン王には、十三の祭祀と呼ばれる部下達がおり、友人のような関係でもあると言われていた。
「お友達は、沢山いらっしゃったでしょう?」
しかし、リーフェットがそう言えば、アンは少しだけ困ったような顔をする。
その顔はなぜか、少しだけ悲しげであった。
「………彼等は、僕の祭祀だからね」
「さいし………」
「僕が人間ではない事を知り、僕の守護や助けを求めて集まった仲間達だ。このような言い方をするのも傲慢かもしれないけれど、最初から平等ではない関わりがその後逆転する場合というのは、得てして低いものが高いものと肩を並べる場合が多い。………皆は僕の宝で欠け替えのない仲間だったけれど、かつて僕に仕えるといった役割を忘れることはなく、僕を彼等の側に引き下げてはくれなかった」
「……………余所余所しくされてしまいました?」
「いや、気安かったよ。それでも変わらないものはあった。………だが、それを忘れずにいてくれたのは、僕の為だろう。彼等がいなければ、僕はとっくに死んでいただろうし」
(え………)
それは、忠義が王を救うような場面があったということなのだろうか。
それとも、人ならざるものにありがちな曰くや作法で、何らかの役割を果たす者を得ないとこの人は消えてしまうのだろうか。
あんなに親しいと言われていた人達が、一線を引く程の理由が、どこかにあったのだろうか。
「…………でも、私も、友人ではないと思うのです」
「では、いつか友人にもなってくれると嬉しい。今回は、………初めての入り口だから僕も不慣れだが、だからこそ君を選んだのかもしれない」
「私を、……………選んだ」
その言葉で思い出した。
アンは、そうして自分の命を繋いだ親しい仲間達を、みんな置いて来てしまったのだ。
彼が話したことが全部嘘で、実際にはリーフェットを殺しに来ているだけだとしたら、そうではないだろう。
更には帰れる見込みがあれば話は別だが、そのどちらでもなければ、彼が失ったものはあまりにも多い。
へにゃりと眉を下げたリーフェットに気付き、アンがおやっという顔になる。
小さく微笑んだアンはもう、先程までの寄る辺ない目をした王様ではなかった。
「その言い方も押し付けがましいか。ふむ。お嫁さんにしようとして、追いかけて来てしまった?」
「その言い方は、もうしなくてもいいのですよ……?」
「言っただろう。君がこの姿でなければ、早速そうするつもりだったんだよ。頑張って求婚しようとあれこれ言葉を考えていたのだけれど……………まさか、未婚で保護者になるとは思っていなかった」
「………いいですか?この残酷な状況に落ち込んでいいのは、私だけなのですからね?」
ちょっぴり落胆の目を向けられ、リーフェットは冷ややかな目でアンを見返す。
ただでさえ受け入れ難い現実と向き合わされている乙女に対し、そんな事を言ってはならないのだ。
「子育て、出来るかなぁ………。育て方を間違えて、僕のリーフェットが捻くれたらどうすればいいのだろう……」
「がるるる!!」
ここにいるのは、いくらちびころでも中身は立派な淑女であったので、リーフェットは慌てて威嚇した。
その途端に、アンが何かをお口に押し込んでくる。
「むが?!」
「一口大の焼き菓子だよ。今日立ち寄る予定の菓子店で買えるものだが、オレンジの風味があって美味しいだろう?」
威嚇を忘れてむぎゅむぎゅ焼き菓子を食べてしまってから、リーフェットははっとしたがもう遅い。
淑女たる気高さはどこへ行ったのだと頬に血色を昇らせたリーフェットが、がくりと項垂れた時だった。
「失礼だが、…………ギャレリーアン魔術顧問とお見受けする」
不意に誰かが隣に立ち、そのように言うと胸に手を当てて深々と頭を下げる。
立っていたのは、淡い金髪に琥珀色の瞳の男性で、姿勢を戻してこちらを見た男の表情には、敬意の欠片もない不遜な嘲りも見えた。
(………騎士にしては、装いが華やかな気がするから、帯剣を許されるような立場の貴族だろうか)
ルスフェイト国の王都では、騎士達や貴族以外の者達が帯剣している姿はあまり見かけない。
リーフェットの祖国では騎士団などに属していない者達でも剣を持っていたが、ローベアでも武器の所持は許された者達だけの特権であったので、国内の治安による差なのだろう。
そして、リーフェットはこんな表情をした者達をよく知っていた。
「おや、その剣帯の織り柄は外務院の方かな」
「……………ああ。筆頭外務官補佐の、リヒャールと言う。公爵から、貴殿の話を聞いていて一度お会いしたいと思っていた。まさか、このようなところでお見かけするとは」
アンが所属を指摘した途端に、男の表情が変わった。
恐らく、そのような事を既に理解している相手だと判断し、対応を変えたのだろう。
「それは失礼した。着任時に魔術省から各所に挨拶に伺うつもりだったんだ。ギャレリーアンだ。基本的には接点はないと思うが、議会などで顔を合わせる事もあるだろう。その時は宜しく頼む」
「ギャレリーアン殿は、迷い人だとか。第一王女殿下がいたく興味を示しておいででな。宜しければ、私の方で席を設けるが、如何だろうか?この場で返事をいただければ、すぐにでも殿下にお願いしよう」
「すまないが、そのような招待はまだ、僕の立場で判断出来る事ではないんだ。ジスファー公爵からは、招待関連は全て自分を経由するようにとすら言われていてね。おまけに、クレア公爵邸で生活をしているという事情もある。各公爵家ごとに派閥があると聞いているので、良ければ公的なルートから声をかけてくれると嬉しい」
暗に、第一王女殿下に会わせてやるので、それを希望したという言質を寄越せという提案だったが、アンは飄々と躱してしまう。
リヒャールの表情が、僅かに強張った。
「…………では、そちらの娘だけでも殿下にお目通りさせておいてはどうだろう?この国で、女性としての立場や庇護を安定させる為には、王女殿下に気に入られるのが一番だろう。…………何しろ、王女殿下は祝祭の主人の庇護を得ておられる方だ。迷い人にとっては、良い助言を与えて下さるだろう」
(祝祭の主人…………!!)
リーフェットは、その言葉にひゅっと息を呑んでしまわないよう、掴まっていたアンの肩をぎゅっと掴んだ。
祝祭の主人とは、有り体に言えば、祝祭の代行者、祝祭を司る人外者を示す言葉である。
大きな祝祭であればある程力を持ち、高位の妖精や精霊、竜達などを容易く退ける者も少なくはない。
「………ふうん。祝祭の主人か、それは凄いことだね。祝祭の庇護を受けるからには、祝祭の系譜の魔術を扱う方なのだろう」
「いや、愛し子としての庇護だ。………どうだ?こうして出会えたのも何かの縁だろう。君が希望するのであれば、殿下にお伝えしておくが」
「…………いや、やめておこう。この子は僕の弟子だからね。人外者というものは、他の誰かが愛し子に手を出すのを嫌うものなんだ。それは覚えておかれた方がいいかな」
「………それはどういう……」
怪訝そうに眉を寄せたリヒャールをその場に残し、にっこり微笑み、ではまたと言い残したアンが素早く歩き去る。
魔術の道には入らないのだなと思っていると、くすりと笑ったアンが、一応、あのような相手には手札を隠しておかないとねと言うではないか。
「アンを取り込みに来たのでしょうか………」
「まぁ、そんなところだろう。それにしても、祝祭の主人とはね………。すぐに表立って何かを仕掛けてはこないだろうが、くれぐれも用心するように。もし離れている時に何かがあれば、僕の名前を呼ぶんだよ」
「………本当の愛し子や系譜の繋がりがあるか、互いを結ぶ程の契約を交わさない限りは、名前を呼んでも届かないと思うのですが」
「ん?僕とリーフェットは同じ系譜だよ?」
不思議そうな顔をしたアンに、リーフェットはぱちりと瞬きをした。
「………私と、アンが、………ですか?」
「おや、気付いていなかったのか。僕と君の誕生日は同じだろう」
「………アンは、夏至の日生まれなのですか?」
「うん。僕は夏至祭の系譜だからね」
「まぁ………」
アンの持つ色彩には夏至祭らしさは少しもないような気がしたが、言われてから見てみると、まだ森に霧の残る夏至の日の夜明けを思わせる色なのかもしれない。
だがなぜか、リーフェットはずっと、この王様の魔術の系譜は冬のものだと思っていたのだ。
「なのでこれからの季節は、僕はまぁ、やや不利な属性だね」
「ふむ。私は、秋も冬もある程度使えるので問題ありません」
「………ん?」
「夏至祭の生まれですが、秋の魔術も冬の魔術も得意ですよ?」
「んん?」
なぜか呆然としているアンに、リーフェットもこてんと首を傾げる。
リーフェットの選考の再選定に関わっていたくらいなので、試験結果などを共有しているのかと思ったが、そのようなものから分かるということでもないのだろうか。
そう考えかけたところで、ぱっと視界が開けた。
「…………わ!う、海が見えて来ました!!アン、海です!!」
ルスフェイトの王都は美しく、大通りには背の高い石造りの建物が建ち並んでいる。
道幅は広く石畳で整備されており、荷馬車なども頻繁に行き交っていた。
リーフェット達が歩く歩道は賑やかで、ローベア国の街並みと似ているが、建物に淡い薔薇色の色が付いているのがこの国の特徴だろうか。
そして、この大通りは突き当たりで海辺の海岸線沿いの道にぶつかっており、その向こうには白い砂浜と青い海が見えた。
(………綺麗。初めて見るような色だわ)
女商人に保護された場所から見えた海はもっと深い青色だったが、ここから見える海は水色とミントグリーンが混ざったような美しい色だった。
アンの瞳の色を薄めたような色だと思い、大興奮のリーフェットは、まだ難しい顔をしているアンの肩をぱすぱす叩く。
「リーフェット?」
「海です!アンの瞳の色に似ていますね!!」
「失礼な。海の系譜の連中とは一緒にしないでくれ」
「謎の派閥が出てきました………」
「夏至祭の系譜は、湖や泉を有するものだよ。君も魔術を借りる際には覚えておくといいだろう」
「海からも借りられそうですよ。……………えいっ!」
リーフェットが試しにと魔術を動かしてみると、遠くの海でざばんと水飛沫が上がるではないか。
街行く人々が何だ何だとそちらを見る中、呆然と目を瞠ったアンに、リーフェットは首を傾げた。
「詠唱なしなのはともかく、………ここから、海をあれだけ動かせるのか。………選択したのは、刺繍魔術なのに?」
「昔から、器用ではあるんです。選択魔術以外も殆どのものは多少なりと動かせますから。………ただ、治癒魔術や薬草魔術はあまり得意ではありません………」
「…………うーん、これは器用で済む領域かな。因みに、君がご生家の固有魔術を不得手としているのは、祝祭の子だからだ。祝祭の日に生まれた子供は、生まれた家や土地の固有魔術を持たずにあわいの子となるのは、割と一般的な知識なのだけれどね……」
「……………初めて知りました」
「祝祭の系譜で召し上げやすくする為に、血筋から剥離されるんだよ。才能は関係ない」
「…………そんな」
ばしんと、どこかであの鞭の音が聞こえて来るような気がした。
幼い頃のリーフェットはいつも手のひらを怪我していて、けれども治癒魔術が苦手なので自分では治せなかった。
落ちこぼれめと罵る家族の声に、こんなに簡単に言い返せる理由があったなんて。
(それでも、私の家族は許してはくれなかっただろうけれど…………)
でも、季節や信仰を治める祝祭の系譜に取り上げられることは、リーフェットの祖国でも栄誉あることだった。
あんな風に肩を落とし、生きているだけで恥ずかしくてならないような日々を送らずに済んだかもしれない。
そう思うだけで胸が苦しくなり、じわりと滲む涙がそのまま溢れないように堪えていると、アンの手がそっと背中を撫でてくれる。
「リーフェット。………これから、僕と沢山勉強しよう。君の手の中にある選択肢を増やせば、君の世界はこれからどんどん広がるよ」
「…………きっと、私は知らないことが沢山あるのでしょうね」
「うん。せっかく子供からやり直せるのなら、それでもいいさ。幸い、僕は物知りだからね。………とは言えまずは、雨降り鯨亭で最高の海のご馳走料理を食べるぞ!」
「は、はい!!」
にやりと笑ったアンが視線で示した先に、傘をさした鯨の看板の店があった。
海沿いに面した一等地で、漆喰のような壁は可愛らしい薔薇色である。
ぷわんといい匂いがしてきて、お腹がぐーっと鳴ってしまったリーフェットは、真っ赤になると慌ててお腹を両手で押さえる。
それを見たアンが、肩を震わせて笑い始めたので、リーフェットは慌てて弁明した。
「じ、事故です!!」
「はは、僕もすっかりお腹が減ってしまったので、急ぐとしよう。ほら、あの看板に今日の料理が書いてあるぞ」
「ふぁ!」
「揚げ鯨の辛味酢がけに、蛸と烏賊のトマト煮込み、香草と白葡萄酒蒸しの本日の魚に、揚げ蛸とタルタルソース、鯖のスープもあるみたいだ」
「………無理です。どれも美味しそうなのに、その中から一つを選べだなんて……」
リーフェットは、再びの世界の残酷さに悲しい溜め息を吐いた。
ちびころの体では、食べられる量に限界がある。
それなのに、アンが読み上げてくれたメニューから一つを選べというのは、あまりにも惨い仕打ちであった。