番外編:アンブランと宝石の願い事2
薄らと水灰色の霧のかかる港の夜明けが一望出来る丘の上で、一人の男が小さく呻いた。
ふさふさとした見事な銀髪の髪を揺らし、擦れ違った者が高位の人外者だろうかと目を留める美貌を惜しげもなく歪めると、がくりと肩を落とす。
「しまった。……………これで手持ちの金は全部だったか。面倒だぞ、とうとう働かなければいけなくなった」
丘の下に広がるのは朝の早い港を有した都でもあるので、森を抜ける街道の出口であるその丘には、森を抜けたばかりの多くの旅人や商人達がいた。
皆に何者だろうと思われていた美麗な男性が急に声を上げたので、何だ何だとそちらを見た者達は、その言葉を聞いた瞬間にさっと視線を逸らす。
銀髪の男は簡素な旅支度だが人目を引く美貌であったので、お忍びの貴族か人間のふりをした高位の人外者だろうかと興味津々だったようだが、聞こえてきた独り言の内容から、あまり関わり合いにならない方がいい人物だと判断したようだ。
男は、あからさまに自分と距離を置き始めた周囲に気付き申し訳なさそうに眉を下げたものの、まぁどうにかなるだろうと呟き、ぐいんと伸びなどをしている。
この丘の上は、厳しい道のりも多い高低差のある森を抜けたばかりの者達の休憩所にもなっているのだが、そう言った男が笑顔で振り返ると、ろくでもない旅人の側にいて厄介ごとに巻き込まれては堪らないと思ったのか、近くに居た者達がそそくさと立ち去ってゆく。
けれども、当の男は、すっかり良い気分で美しい夜明けの街を眺めていた。
(………とまぁ、このくらいでいいだろう。これで、彼女と再会した後にどこに腰を据えるかを決めるまでは、土地の貴族なんぞから目を付けられる事はあるまい。必要であればそちらと共存するのもありなんだが、その前に足止めされるのはまずいからな)
目が合った商人が慌てて離れていくので、困ったように愛想笑いをしたアンは、その実、たいそうしたたかな性格であった。
(…………髪色や瞳の色を隠していない僕を見ても特に物珍しげにしないということは、この近隣の土地は魔術の備えが豊かなのだろう。それでも不用意に声をかけないのは、僕が人間かどうか分からないからだ。安易に声をかけずに観察だけはしていくあたり、この界隈の商人や旅人たちは充分な教育を受けていると見て間違いないな)
とは言え、残念ながら先程の呟きはほぼ真実である。
持ってきた資金の殆どは、アンが降り立った町で動けるようになるだけの菓子を食べる為に使われてしまった。
見ず知らずの土地で身元の保証も出来ないアンが、そんな風に体調を整える為には、思っていたよりも高くついたのである。
今後の暮らしの為に用意してあった資金をうっかり使い果たしてしまったので、本気で仕事は必要だ。
だが、ここが、ルスフェイトという魔術も資源も豊かな国の王都であることは既に調べてある。
他国との交易も行われているようで、港の辺りの賑やかさを眺め目を細めた。
(……………うん。いい国だ)
大抵は、商人や旅人達の会話を聞けば、そこがまともな国かどうかが分かるものだ。
アンがさも得体の知れない人外者のように振る舞っても嫌悪感を向けられることはなかったので、人外者との関係も比較的良好なのだろう。
この先、アンが共に暮らす予定である少女はたいへん稀有な魔術を有しているので、どちらかと言えば、移住者への対応よりも異端者への対応が柔軟な土地がいい。
(そして、リーフェットの能力を食い漁るような貧しい国も御免だ。人間は、どんなに善良でも自身の不幸の上に誰かの安全を置く事は出来ない。貧しい国や不幸を背負っている国は避けた方がいいだろう)
「おっと。…………こりゃまいったな」
ふいに、指先が崩れるような感触があり、アンは苦笑した。
薄い灰色の煙のようになりかけた指先を固定し、ふうっと息を吐く。
こればかりは誰にも見せる訳にはいかなかったが、幸い気付かれなかったようだ。
(あの国でリーフェットが最後に使った魔術は、さすがに凄まじいものだったな)
リーフェット。
それは、アンがかつてローベアの魔術学院で見付けた、夏至祭の子だ。
祝祭になる瞬間に生まれた子供はそう呼ばれ、本人に選択肢なくその祝祭に根差すことになる。
そのまま取り立てることも出来たのだが、ローベアには元々夏至の質を持つ子供が多かった。
祭祀の数は多過ぎても少な過ぎてもいけないのでと、新しく探す必要もない。
そうして見過ごして、この手のひらからこぼれた子供であった。
そんなリーフェットが、祖国で磨耗されていたのは、裁判の場に現れた彼女を見た時に一目で分かった。
その国が最後に手をかけようとした国の王の要請で介入を図ったローベアだったが、三日で終わらせる筈の作戦で思わぬ苦戦を強いられたのは、針の魔女と呼ばれる一人の魔術師のせいだった。
そんな針の魔女が、裁判の場に引き摺り出されたのは、満月の三日前のこと。
リーフェットが入廷した途端に静まり返った会場で、裁判の傍聴の為に集まった人々の目には隠しようのない恐怖が見えた。
(あの瞬間のことを、………僕は決して忘れないだろう)
両手を拘束され、騎士達に連れられてきたリーフェットは、ひやりとするような美しい少女だった。
冬の祝祭の色を帯び、けれども夏至祭の魔術を宿す不思議な混ざりものの子。
彼女が一歩歩く度に、錬成と術式を重ねて焼き上げた床石にぴしりとひびが入り、大きな広間に灯された魔術の火が激しく揺れる。
望めばローベアさえも滅ぼせたに違いない魔女が、確かにそこにはいた。
けれども同時に、きっと誰もが気付いてもいた。
誰一人として口に出しはしなかったが、傷だらけで酷く痩せているリーフェットが、処刑されたあの国の王妃の言うように戦乱の全てを画策した災いの魔女である筈がない。
それが本当だというのなら、健康そうで艶やかな肌をした王妃やあの国の王族達に比べ、なぜ、この針の魔女はこんなにも痩せて、怯えて疲れ果てているのだろう。
空っぽの瞳はまるで廃墟のような寒々しさで、その心はとうに壊れてしまっているように見えた。
だから、集まった人々は何よりもその異質さを恐れたのだ。
ローベアがあれだけ苦戦した程に、最後の戦いは苛烈であった。
その戦いに利用されたのが目の前の針の魔女であるのなら、静謐な程に個を見せない彼女が心を揺らし、もし、この国や誰かを憎んだ時には、どれだけ恐ろしいことが起こるのか。
ローベアは魔術大国である。
だからこそ、集まった民衆の殆どが、その危うさに気付いていた。
そして、心のどこかで彼女もまた被害者であると気付きながらも、彼女が黙って小さく震えている内に、この世界から追い出してしまおうとしたのだ。
(…………自分達とは、違うものだから)
人々が己の恐怖を正当化する為に吐いた怨嗟の声を聞き、ただ静かに俯いているリーフェットを見ていた。
かつて、刺繍魔術に出会い目を輝かせていた彼女は、どんな経緯でそこに身を落としたのか。
王子の婚約者であったと聞いたが、あの王子には既に妻子があった。
であれば、婚姻に近い魔術で彼女の魔術の成果を隷属させたのだろう。
異端であるからと誰も手を差し伸べず、あの子はここで死刑を言い渡されるに違いない。
そうして皆から追い立てられてゆく様子は、祝祭の王と呼ばれるひと柱でありながらも、救いを求めてきた人間達の手を取ったことで、あの庭から追い出されたアン自身にも似ていた。
リーフェットは、アンが初めて見た、自分と同じ理由で殺される者だった。
(そうか。………ここは、君には優しくないか)
そう思うとなぜか、胸が痛んだ。
アンにとっては、祝祭の庭や自らの眷属達からすら異端だと追われたアンを受け入れ、敬愛してくれる素晴らしい仲間たちのいる国だ。
人々は穏やかで勤勉で、街に出れば誰とだって楽しく魔術談義が出来る。
でも、ここでリーフェットを生かすのは無理だろう。
人々が本能的に彼女を恐れ、嫌悪してしまったその後では、そのような思いを払拭することはアンにだって難しい。
何よりも実際、アン自身がそうして追われた者である。
(ではどうする。あの子を救おうとすれば、…………僕は消えるだろう。所詮、祝祭である僕を生かすのは、祭祀たちの献身と人々の信仰なのだ。大陸を脅かした針の魔女を救い、皆の願いを叶えずに首を横に振れば、たったそれだけの不信感が、僕を殺しにかかるだろう)
それが、大衆というものなのだ。
決して悪意ではなくとも、この身にはいささか重い。
(ふむ。どのみちそうなるのなら、………いっそ、この枝を下りて、どこかこの世界層に属さない、あわいや隔離地に向かうのはどうだろう。世界の表層に残らなかった分岐のどこかなら、あの子が生き延びられるような場所もあるかもしれない)
どちらにせよ、結果は決まっている。
あの戦いを鎮めるために大きな痛手を被ったアンには、実は、もうあまり力が残っていなかった。
この国でゆっくり静養していればいずれ回復するが、それではリーフェットは救えない。
どれだけ穏便に説得という形で彼女を救い上げても、それが不審を呼び損なわれたものが回復に回されずにいればアンは消えるだろうし、とは言え、力を回復するまで待てばその間に彼女は殺されてしまう。
そして、助けるだけ助けて置いていけば、この場所でアンという後ろ盾を失った後のリーフェットがどうなるのかは言うまでもない。
なのでアンは、腹を決めた。
(よし。……………であれば、違う層に逃げよう。………どちらにせよ、僕がどれだけ弱っているかに気付いている者達もいるから、彼女の処刑にかけた力で反動があったと言えば納得もするだろう)
と言うか、実際にそれでも寝込みそうなぐらいに弱ってはいるので、あながち嘘でもない。
祝祭の系譜の魔術は、贄や供物を得て階位を上げるものだ。
大陸の戦乱に利用されその魔術を酷使され続けたリーフェットは、今や、アンでもなければ処刑すら叶わないくらいに魔術師としての階位を上げていた。
そしてアンの方は、そんな彼女を利用した戦乱で、当分、王としての役割を果たせなくなりそうなくらいに弱っていた。
(……………でも)
ふと、考える。
でも、彼女は生きたいだろうか。
まだ何かを望み、幸福になりたいと考えてくれるだろうか。
リーフェットを救いたいというのがアンの独りよがりなら、ここで彼女を殺してやった方がいいのかもしれない。
そう考えてリーフェットを見た時、彼女が真っ直にこちらを見上げた。
その途端、紫銀の髪に淡い水色の瞳の美しい少女の願い事が、小さな慟哭のようにこぼれ落ちる。
“誰も、私を愛してくれなかった”
「……………っ」
その願いに触れた途端、アンは堪らない気持ちになった。
ここで死を命じられるものが、かつて、自分が違う選択さえしていれば、隣で健やかに笑っていたのかもしれないと考えた、その喪失が堪らなかった。
未来があったかもしれないのに。
喜びや、愛があったかもしれないのに。
これから。
これからが。
そんな希望が潰えたことの無残さと絶望を知るのは、アンが、失われた祝祭の王だからだろうか。
心を寄せるという言葉は、きっと人間とは違うだろう。
だが、目の前の少女が望むのが愛だと知った時に、アンはリーフェットに恋をしたのだ。
彼女の欠落を埋める為に差し出せると思ったのが恐らく愛で、アン自身であった。
人間とは違う物差しであっても、これが、祝祭というものの愛し方なのだ。
海風に、髪が揺れる。
あの日、リーフェットを一足先にこの土地に逃がし、アンは、とは言え長らく治めてきた国の人々に別れの挨拶をして、執務もきちんと終えてからローベアを旅立った。
リーフェットがこちらに落ちる前の日あたりに移動する予定だったのだが、思ったよりも弱っていたせいで、時間も場所も離れて到着した有り様だが、慎重に噂を辿ったところ、どうやら彼女は無事らしい。
同じ系譜の魔術を持っていてくれたお陰で、その居場所を探すのは簡単だった。
(リーフェットを保護したのは王都の騎士団で、彼女は騎士団長を後見人に得たらしい。……となると、まずは有能そうな騎士をどこかに誘い出して、その隙にリーフェットに会いに行かないとな。…………何しろ僕は、彼女には酷く嫌われている筈だ)
自分を処刑する筈だった男なのだから、憎んでいて当然だろう。
とは言え、安全な場所で保護されたのであればと背を向ける訳にはいかない。
この少ない残り時間の中で、何とか彼女を引き取り、あの異端とも言える程の魔術を使って道を踏み外さないように導いてやらなくては。
アンにはもう、時間がない。
今度こそ手を離さずに、彼女の為に出来る限りのことをしよう。
(騎士団長がリーフェットを庇護したのは、………やっぱり、綺麗な子だからだろうか。裁判での様子を見ていると、社交は苦手そうだしな。………魔術の証跡を感じないから、こちらに来てまだ魔術は殆ど使っていないようだ。力に目を付けられていないのは幸いだが、……………もしあの子が自分を助けてくれた騎士団長に恋でもしていたら、…………僕が会いに行っても嫌がられるだけなのでは………?)
そう考えると頭が痛くなりそうなくらいに前途多難だが、後戻りは出来ないのだ。
彼女を引き受け、あの場所から救い上げてみせると決めた以上、その願いを叶えるのが祝祭である。
いざとなったら、憎まれ役を買ってでも、必要なだけの知識を授け、リーフェットが今後一人でも生きていけるような地盤を整えてやらねばならない。
誰も、彼女を殺さないように。
愛する者や、家族を得られるように。
そして、彼女が大好きになれる誰かに会えるように。
それが、あの子の願いだったから。
(でも、リーフェット。僕は、君と仲良くしてみたいな。…………君が誰かとそう過ごせたらと思い描いたように、色々な話をして、当たり前のような毎日を一緒に過ごせたら、きっと素敵だろう。…………かつての僕によく似た願い事を持つ君となら、新しいこの場所で、共に楽しく暮らせると思うんだ)
そんな事を考えてしまってから、アンは小さく苦笑した。
どうやら、すっかりリーフェットの宝石のような願い事に、こちらも魅せられてしまったらしい。
自分の欲を前に出しては駄目だなと首を振り、今後の予定をおさらいする。
騎士達をおびき出すには、魔獣でも現れればいいだろう。
周辺の人々を襲わない程度に大暴れするような仕掛けを森に落とし、ルスフェイトの王都を眺める。
どこからともなくいい匂いがするのは、朝食など売っている店が多いからだろう。
そう考えると、途端にお腹が空いてきた。
(……ふむ。港の朝食か。この土地の菓子を食べるのは絶対条件としても、菓子代の他に、朝食を食べるくらいの資金はこちらのポケットに残っているな。となればやはり、この土地の最高の朝食が食べられるような、最高の食堂を探さねばなるまい。仕掛けを動かして騎士達をおびき出すのは、主だった騎士達が全員揃う時間、昼前くらいの時間がいいだろうしな)
「うん。美しい、いい国だ」
先程まで周囲にいた者達が丘を下りてゆけば、後からやって来た旅人がまたこの森を抜けたところにある休憩場にやって来る。
こちらの旅人が本日の宿代も持っていないと知らない者達は、その横顔をちらりと見ては、何者だろうかという眼差しをしていた。
そんな人々の思惑や感想を表情から読み解き、アンは、くすりと微笑んだ。
もし、リーフェットとの再会が散々なものになり、アンの身元が問われた時に、特に問題を起こすでもなくこの地に現れたのだと、先程までここにいた誰かが証言してくれれば幸いなのだが。
本当はやっと見付けたリーフェットをすぐにでも迎えに行きたかったが、今のアンには騎士と交戦するような体力は残っていない。
安全に、そして確実にリーフェットと会える機会を作るまでは、今暫くの我慢だ。
(その前に、供物になる菓子を作っている店も探しておこう。ここで、少しでも長く、彼女を見守れるように…………)
そう考えてルスフェイトの王都に入ったアンは、自分の最期など、とうに受け入れていた筈だった。
姿を失い、何の祝福も届かない影の中でその身を崩して滅び落ちる前の焼け爛れるような痛みで身を焼きながら、けれども、形もないような災いや怪物達を喰らってでも生き延びて、絶対にリーフェットに元に帰るのだと誓うのは、ほんの数か月先のことなのだ。
そんなにも、彼女と共に生きる未来が欲しくなるとは、思いもしなかった。
恋というのは、思っていた以上に容赦なく逃れようのないものであるらしい。
であればいつか、またあの美しい少女に育ったリーフェットが自分を見捨てないよう、どうにかしてアンに恋をして貰うより他にない。
生き直し、新しいものを幾つも得ていくであろう彼女の願い事の先にいるのがこの先も自分でありますようにと、祈るばかりだ。




