13: 収穫祭の嵐と刺繍の魔女
ばらばらと降っていた雨が、ざあっと音を立てる。
時折強い風が吹き抜け、木々が怖くなるくらいに大きく揺れた。
ルスフェイトには今、王都を飲み込むほどの規模の嵐が近付いている。
(………嵐の日になるのが早過ぎない?!)
今朝起きたらもうこんな有様だったので、あんまりないきなり感にリーフェットはとても慄いていた。
だが、そもそもが嵐の到達が近くなってからの突然の交代劇であったので、担当者がリーフェットになってからあまりにも日がなかったという背景がある。
しかし、一世一代の勝負というのは突然訪れるものではなく、綿密な準備を重ねて紆余曲折あってからやって来るべきではないだろうか。
とは言え、そう考えてからはっとした。
(………処刑されかけてからちびころになって、私を殺すかもしれなかった初恋の人と暮らしていて、攫われて殺されかけてからだった!!)
物語の筋書きとしては、なかなかに立派なものである。
いきなりこれではあんまりだと心の中で自分を慰めていたリーフェットは、自分がそれなりに展開を踏んでいた事に気付いてしまい、わなわなと震えるしかない。
となると寧ろ、これだけの事が重なっても少しの準備も出来ていないリーフェットが悪いみたいになった。
「ぐぎぎ………」
「リーフェット?」
後ろに立っているレイヴィアに心配そうに顔を覗き込まれ、リーフェットは小さく足踏みする。
(…………あ!)
しかしその直後、ざざんと、大波が埠頭に打ちつけられ白波が弾けた。
リーフェットは慌てて海の方に視線を戻し、先程よりも強くなってきた風の影響を見定める。
港に停泊している船はしっかり係留されているが、それでもこれ以上に波が高くなると、風雨に晒される部分なども含めて被害が出始めるだろう。
海岸近くの商店は店を閉じ、窓や扉をしっかりとした木の板で塞いである。
雨に触れてぼうっと青白く輝くのは、かけられた市販の防壁魔術だろうか。
(この国は、貴族ではない人達でも、防壁魔術を買える国なのだわ………)
「レイヴィア様、海沿いのお店のあたりが光っているのは、防壁魔術ですか?」
「ああ。この規模の嵐となると完全に被害を防げはしないだろうが、ないよりいいからな」
祖国との違いにまた驚いてしまったが、ルスフェイトでは、嵐の被害を少しでも軽減する為に使う程度の防壁魔術であれば、貴族ではない者達が少し高価な食事に出るくらいの金額でも購入出来るのだそうだ。
様々な災害手当などもあるのだと知れば、リーフェットのような新参者に嵐の対策と王都の命運を預けてしまう一方で、国としての機能はかなり高いのだろう。
ばたばたと風に煽られる海辺近くの偵察台に立ち、リーフェットは、風で吹き飛ばされないように後ろからレイヴィアに支えて貰いながら、海の方を睨んでいた。
一人でどうにかせよと言われた手前、本来ならここにも一人で来るべきなのだが、リーフェットの軽さだと風だけで吹き飛んでしまうので、今はレイヴィアが固定係として付き添ってくれている。
今回は、海沿いの被害状況を確認に来た騎士団長が、一緒に監視台に登る事になったという建前だ。
なので、リーフェットに許された時間はあまり長くない。
(アンは、一緒にはいられないから)
アンが不在にしているのは、今日が収穫祭だからだ。
祝祭の系譜の生き物にとって、別の祝祭の日程に力を落とす日はない。
それが、自分と連なる祝祭であれば、家族から力を分けて貰うようにして普通に暮らせるくらいの力を借りる事も出来るそうだが、そもそもがこの土地の祝祭ではないアンには、そのような救済措置もないらしい。
寝込んでしまったアンには屋敷で安静を言いつけ、リーフェットは後見人のレイヴィアと共に嵐の調伏にやって来た。
(収穫祭の日に嵐が来たのは、本当に偶然なのかしら)
そんな事も考えてしまうが、本来なら晴天が好まれる祝祭だ。
アンの力を削ぐ為だけに、この日に嵐をぶつけてきたと思うのは考え過ぎだろうか。
「風が強くなってきました………」
「………嵐本体の位置としては、まだ随分と離れているんだが、王都に被害が出るかどうかについては、ぎりぎりのところだろう。大丈夫そうか?」
「…………はい。これ以上近付くと、高波の被害が出そうです。それに、風の影響も強いので、防壁魔術の弱いところから崩れていきかねません。商業ギルドの統括などを任されているビアド公爵が、私が対策にあたるからと備えをいい加減にせず、長期的な目線でご自身やこの国の損失を測れる方だといいのですが」
「……………時々君は、その小さな体に見合わないような、老獪な視点を見せるな」
「……むぐ」
レイヴィアにそんな事を言われ、リーフェットはぎくりとした。
だが、必要な事は言葉にしておかなければいけないので、子供のふりに徹する事も難しい。
だが、振り返って首を傾げてみせると、レイヴィアは怪訝そうな顔ではなく、気遣わしげな表情をしている。
「………もし、出来なくても俺達がどうにかする。無理だけはしないでくれ」
「……………どうにかします。私がここで安心して生きていけるように、皆さんがこの舞台を整えて下さったのでしょう?」
「主にアンブランがだな。彼は、君がこの嵐を退けられると信じて疑わないらしい」
(アンが、私を信じている)
そう思うと、胸の奥がほこほこした。
リーフェットにもとうとう失いたくない人が出来て、その人がリーフェットを信じてくれるのだ。
(出来るだろうか…………)
迫り来る嵐は、王都を覆う程の大きさである。
魔術師であれば、滅多にない規模の嵐から力を借りられるだろうかとは考えても、嵐そのものをどうこうするという発想は、そもそもあり得ないと言うだろう。
だがリーフェットは、殆どの者達がそのあり得ないと言うだろう先に行かねばならない。
アン達が出来ると言ってしまったからだが、この国の人達は、リーフェットが嵐の被害を抑えてくれると信じているのだ。
それが、何人もの大魔術師の命を捧げても叶わないかもしれないものだとは、思いもしないのだろう。
魔術は、扱う力が大きければ大きい程に対価を取られる。
決して万能のものではないのに。
(……………でも、やるわ)
雪降る国の生まれた屋敷で、期待を抱いて学んだ魔術学院で、閉じ込められた王宮の塔の中で、リーフェットは結局何も得られないまま処刑台に登った。
奇跡のように得られた、生まれ変われたらこんな風に生きたいと願った事を叶える為に、ここで踏ん張らなくてどうするのだ。
(それに私は、ここでぴしゃりと格好良く嵐を討ち滅ぼして、アンを誑かしてみせるの!!!)
ギャレリーアン・ブランシール。
かの偉大な魔術王、夏至祭の系譜の人ならざる魔術の師は、リーフェットのものだ。
絶対に、このまま誰にも渡すものか。
それが、アンを蝕む得体の知れない不調にだって。
「……………始めます」
「ああ。俺に出来る事があれば、言ってくれ。魔術感応を使って、部下達とは連携を取れている」
レイヴィアがそう言ってくれたので、リーフェットは頷いた。
ぎっと、海の向こうの嵐を睨みつける。
この嵐が国難となり得るのは、普通の気象性のものとは成り立ちが違うものだからだ。
災いの嵐は、大きな災厄や障りが普通の嵐を飲み込み、魔術的な影響を備えてやって来る大災厄である。
人為的に打ち消すことは不可能だとされ、世界の果てに到達して初めて消滅すると言われていた。
この国では二十年ぶりの訪れとなり、二十年前は辺境域を通った嵐のせいで、千三百人もの犠牲者が出た。
(王都の地図は頭に入れた。………大丈夫)
出かけていくリーフェットに、僕のリーフェットは大丈夫だよと、アンが髪に綺麗な白いリボンを結んでくれた。
今は雨具のフードに隠れてしまっているが、今日のリーフェットのお守りだ。
これがあれば、きっと大丈夫。
アンが一緒にいるみたいだから。
「はい。……王都西側からの沿岸地域、二区、四区、六区、そろそろ高波が堤防を超えそうなので、風雨と波の影響を鎮めます。……東側の倉庫地区、風の影響が強いので風向きを変えましょう」
「リ、リーフェット……?!」
「王宮はやはり、建物が高い場所にあるので心配ですね。とは言え、元からある守護の質がいいのでそれを損なわないように。………まぁ、これは妖精の守りなのですね。なんて綺麗なのかしら」
ばさりと、スカートの裾が風を孕んで揺れた。
風向きが変わった事で後ろからの風の流れも生まれ、フードが外れて結んでいた長い髪が顔にかかる。
それを払い除けると、リーフェットは、偵察台の柵を両手でしっかりと掴んだ。
「………まだ少し遠いので網をかけ難いですが、嵐そのものの調伏にかかりますね。……………レイヴィア様?」
振り返ってレイヴィアの確認を取ろうとすると、なぜか後見人は目を丸くしてこちらを見ているではないか。
「リーフェット………か?」
「レイヴィア様?……これから、嵐本体に取り掛かりますね?」
「…………ああ」
伶俐な美貌の騎士が、無防備な困惑の表情を浮かべていると何だか撫でてあげたくなってしまうが、今はそれどころではなかった。
こちらを見ているレイヴィアの頬を、髪を濡らした雨が流れ落ちてゆく。
嵐が近付いてきたことで、かけていた雨除けの魔術が効かなくなってきたのかもしれない。
だが、リーフェットが自分にかけた雨除けは、まだ有効なようだ。
(でもやっぱり、…………思っていたよりも嵐そのものの階位が高いような気がする………)
「………思っていたより、嵐の状態が良くないですね。………この手の嵐は、経路上で大きな犠牲が出ると、贄を喰らったという形式を取って災いそのものの階位が上がるんです」
「……………そうか」
「千切ってばらばらにしてもいいですが、落ちた先に災厄の残響が残ると、そこからまた新しい災いが生まれたりするかもしれません。………海の領域の魔術は詳しくないのですが、漁船や商船が行き交う領海内で何かを取り込むと厄介ですね」
リーフェットの持つルスフェイト国の立地的な魔術条件や特性の知識は、この国に来てから得たものでしかない。
やり方を変えるにせよ、経験に基づいた取捨選択は不可能に等しい。
(残滓すら残らない程に、徹底的にこの嵐を解体する。でも、この近海は国にとって大事な財産だわ。力技で嵐そのものの解体を行うとなると、どうしても影響は免れない)
あれも駄目。
これも駄目。
近付いてくるのは、もはや嵐というよりは大きな災いで、予め用意しておいたやり方では、どれも階位足らずだ。
魔術はその階位に応じて効果が変わり、定められた理を越えられるのは、願い事の魔術しかない。
「…………でも、それなら簡単だわ。だって私は、刺繍の魔女なのだもの」
実は、針の魔女という呼び方にとても思うところがあったリーフェットは、こちらであれば吝かではないとそう呟いて微笑んだ。
魔女という呼び方は、女性の経済的な自立が望まれないリーフェットの祖国では、家を出された女魔術師を示す蔑称であった。
だが、模範的な振る舞いから脱したからには、災いをなし人々を傷つけるに違いないとそんな女性達を魔女と呼ぶ一方で、人間の身で人ならざる者達の領域に踏み込み境界を超える者のこともまた、魔女と呼ぶのだ。
なぜ女性に限られるのかと言えば、人外者の領域に招かれるのは、祭祀や贄の役割を担う女達が多かったからだと言われている。
(だったら、私はアンの刺繍の魔女になろう。夏至祭の祭祀として、それを司る主人のいないこの場所でも、夏至祭の眷属であるアンが生きていけるように)
嵐を前にして緊張しているからか、ポケットに魔術をかけて持ってきていた刺繍道具の箱は、何だかとても小さく思えた。
リーフェットは、小さな手では扱い難かったが、思い入れのある道具なのでとそのまま残してあった以前と同じままの大きさの針を手に取る。
これは、夏至祭の領域である湖の水で磨く特別な針で、曇っていたのをアンが元通りにしてくれたものなのだ。
大事な刺繍箱や、その中の刺繍糸が雨に濡れないように、手元には特別な魔術をかけてある。
ひらりと取り出した真っ白な布に、リーフェットは鮮やかな青緑色の刺繍糸を選んだ。
魔術を帯びた針が、ぼうっと銀色に光る。
ひと針、ひと針。
けれども素早く縫い上げ、決して手を抜かないように。
この図案は、一度使った事がある。
そして、目の前の嵐に使うのであれば、何の遠慮もいらないだろう。
風に煽られてよろめくと、すぐさまレイヴィアが腰に手を回して支えてくれた。
リーフェットはその腕を信じて全てを預け、後見人を柱か何かのようにして体を固定すると、刺繍を続ける。
布に鮮やかな糸を通し、一つの図案を描き出してゆく。
形を作り、それが映えるように整え、細部までしっかりと表現した。
(………初めて自分の目でみたけれど、こんなに綺麗な刺繍だったのね)
出来上がった刺繍は素晴らしかった。
今回はリーフェットの大好きな青緑色だけを使ったが、単色でもやはり、刺繍魔術は美しい。
リーフェットの宝物だ。
糸を留め、針を持ち替えると道具箱から取り出しておいた小さな鋏で、残った糸をぱちんと切った。
処刑台の上では糸の処理をするどころか、あの刺繍がどうなったのかさえ分からないが、今は刺繍の魔女の矜持にかけて、丁寧に仕上げるのだ。
そして、針をしまい、出来上がった刺繍を両手で掲げる。
「出来たわ」
リーフェットがそう言った途端に、ぱちんと、どこかで泡が弾けるような音がした。
こうっと音を立てて、これまで以上に強い風が吹き荒れると、僅かにだが、どこからか冬の風の匂いと、松の木の香りがした。
恐らくだが、災いの元凶となったものの香りなのだろう。
そして、仕掛け絵本を動かすようにくるくると空の雲が一点に引き込まれてゆき、ざざんと音を立てて海の向こうに落ちていった。
あっという間に空が明るくなる。
「お終い!………まぁ、なんて綺麗な青空かしら。雨上がりだから、海の色もとっても綺麗だわ」
先程まで白波が立ち、海底の砂を巻き上げて濁っていた海が透明に戻っている。
ぱっと笑顔になったリーフェットが、微笑んでレイヴィアを振り返ろうとした時の事だった。
「これはこれは。祝祭の日に、何とも素晴らしい供物じゃないか」
ぞっとするような美しい声が耳元に落ち、くらりと視界が翳る。
はっとして見上げた先でこちらを見ていたのは、長い紅茶色の髪を風に靡かせた、美しい青年だった。
(これは……)
血の気の引くような恐怖に目を瞠ったリーフェットの耳元で、がきんと硬質な音が響いた。
長剣を軽々と持ち替えて続け様に何かを弾いたのは、いつの間にか剣を抜いていたレイヴィアだ。
リーフェットは、いつレイヴィアが自分の前に出てくれたのか分からなかった。
「星の妖精か。人間の領域で得るには稀有な古き民だが、今はまだ午前の光の中。おまけに今日は、収穫祭のその日だぞ」
そして、レイヴィアが一度退けてくれたお陰で、リーフェットにもその青年の姿がよく見えた。
人間とは思えない美しい姿といい、今の会話の内容といい、この青年が誰だかなんて言うまでもない。
まだ残っている風に髪を乱し、リーフェットは呆然とその姿を見上げている。
足場などない筈の虚空をかつりと踏み締め、こちらを見てにっと笑ったのは今日を治める祝祭の主人だ。
(……………収穫祭!!)
今日のこの日だからこそ大きな力を持つ、高位の人ならざるもの。
どの種族にも属さず、祝祭そのものを司る存在。
(まずい。レイヴィア様が、最高位に近い星の妖精でも、相手が祝祭では分が悪過ぎる………!!)
リーフェットがそう考えた瞬間、レイヴィアの剣を跳ね返し、青年が大きく体を捻った。
鈍い音がして、レイヴィアがその場から弾き飛ばされる。
「レイヴィア様?!」
港や海の様子を一望出来るようにと作られた、高い位置にある偵察台の上なのだ。
石造りの建物の三階相当のこの高さから落ちたら、レイヴィアとて無事ではすまないだろう。
真っ青になったリーフェットは、思わず柵の方に駆け寄ろうとしてぎくりとする。
(しまった…………)
すぐ側に、祝祭の主人がいた。
鮮やかな紅茶色の髪が視界の端で揺れ、まだ触れられてもいないのに肌を冷たいものが這うような悍ましさだ。
込み上げてくる吐き気に、ぐっと息を止めてしまう。
「………夏至祭の子か。それも、私の知らない夏至祭のようだ。祝祭の夜に生まれた、夏至の座の中の夏至ともなると祭祀にするのは難しいだろうが、幸い、まだ花嫁には選ばれていないらしい。………今日は収穫祭だからな。贄として食べてしまえば、これ程の糧もないだろう」
「………っ、」
(こわい…………)
それはほんの一瞬のことだったが、随分と長く感じられた。
ひたりと背中を伝う冷たい汗に、ぞぞっと総毛立つ。
けれども、リーフェットが悲鳴を上げる前に、ばさりと耳元で何かが解けた。
「ふざけるなよ」
髪をまとめていた白いリボンが解け、リーフェットを包み込むように風にたなびく。
こんなに長くなかった筈なのに、まるでリーフェットの周囲を覆うようだ。
そして、アンの声が聞こえた。
「夏至祭だと?!今日は、私の日だぞ?!」
「……………生憎だが、僕はあわいを渡り、境界のあちらとこちらをひっくり返し、願い事を叶える夏至祭でね。………おまけにここには、僕の愛し子がいる」
(この声は………)
リーフェットを背後から抱きしめるようにして、そう笑ったのは誰だろう。
確かにアンの声なのに、あまりにも冷たくて重くて、心がひび割れそうな程に美しい。
人間が、容易に触れてはならないものの声だった。
「……………アン?」
「困った子だ。こんな姿でいたら、それは収穫祭も食指を伸ばすだろう。あれは収穫を司るものだから、子供の姿のままであれば、君を選ばなかったかもしれないけれど」
振り返ろうとしたリーフェットの目を、アンの手が覆った。
ひんやりとした体温に、リーフェットはぎくりとする。
「アン!」
「……………さて、邪魔なものは壊してしまおう。祝祭の主人が本来座すべき農業地を離れていられるのなら、この国の収穫の祝福は、主人が欠けたくらいでは損なわれない筈だからね」
(え…………?)
目隠しをされたからではなく、ふと、太陽が落ちたみたいに空が翳ったような気がした。
夜空には星がまたたき、ふわりと瑞々しい花々と草木の香りがする。
それがなぜか、両目を覆う手のひらの内側の暗闇に見えたのだ。
遠くから聞こえてくるのはそら恐ろしい歌声や音楽で、どんなに楽しげに聞こえても決して近付いてはいけない。
そこに触れたら、二度と戻れなくなってしまうから。
(夏至祭だわ)
夏至祭の夜だった。
アンの手で目隠しされている暗闇の向こうには、確かに夏至祭の夜があって、ぞっとするような誰かの悲鳴が響いていた。
ばりばりと骨ごと獲物を貪るような悍ましい音が響いた後、辺りがしんと静まり返り、ふつりと夜が晴れる。
そっと目隠しの手を外され、リーフェットはゆっくりと振り返った。
振り返るのが怖いとは、なぜか思わなかった。
「……………アン」
そこに立っていたのは、アンだった。
けれども、白銀の髪は光を孕むようで、青緑色の瞳は吸い込まれそうに深い。
あまりにも美しい、夏至祭の夜の色だった。
(でも、………この夏至祭は、こちら側のものじゃない)
リーフェットはなぜか、この色は本来の色じゃないと思ってしまう。
本来の、健やかなる夏至祭であれば、もっと別の色をしていた筈だと。
「…………間に合えて良かった。これでやっと、僕の手で君を守れたかな」
「アンは、…………夏至祭の主人なのですか?」
「そうだよ」
「…………っ、……………だから、あんな風に弱ってしまっていたのですね?」
「うん。ここには、僕を祀る為の夏至祭はないからね。………よく頑張ったね、リーフェット。君は何でも出来るじゃないかと褒めてあげるつもりだったけれど、今回は刺繍魔術が大活躍したらしい」
アンがリーフェットの腰に手を回し、二人はしっかりと向かい合わせになる。
こちらを見ているアンは、にっこりと優しく微笑んでいた。
その微笑みを見たら、リーフェットは胸がいっぱいになってしまった。
「……………が、頑張りました。思っていたよりも階位を上げていましたが、あんな嵐は、時を戻して派生前の状態にしてしまえば消えてしまうばかりです」
「そうか。だから、時間が巻き戻るような、時計の意匠の図案としたのだね」
「……………レイヴィア様が」
「大丈夫。彼は妖精で、妖精は羽があるからね。今は、祝祭の主人を僕が壊してしまったから、慌てて影響を確認するべく連絡を取っているよ」
「……………ふぇ」
「おやおや、僕のリーフェットは、こちらの姿でも泣き虫だな。………夏至祭の効果として、少しばかり心が動きやすくしていたのだけれど、思っていた以上に効き目が強いのかな………」
「聞き捨てならない言葉が聞こえてきました……」
ぎょっとしたリーフェットが疑いの眼差しになると、苦笑したアンが、リーフェットが心を動かしやすいように少しだけ魔術で手助けしていたのだと白状するではないか。
夏至祭の主人には、未婚の男女をむこうみずにする魔術侵食が使えるのだとか。
「ほら、せっかく子供に戻れたのだから、たくさん心を動かして欲しくてね」
「なんてことをするのですか!」
「ああ、泣かないで、リーフェット。怖かったね。そして、たくさん頑張ったね。見てご覧、あまりにもいい天気になったから、みんな驚いて建物の窓から顔を出しているよ。君が彼らの命と暮らしを守ったんだ」
「…………えぐ。しゅ、しゅかくさいが現れました」
「うん。…………この国の王女様は、確かに祝祭の主人の庇護を受けていたようだ。とは言え、僕が壊してしまったからもういないけれど」
「………アン」
「素晴らしい魔術だったよ、リーフェット。君の刺繍は、見事に災いの嵐を晴らしてみせた。僕の自慢の弟子で、……………花嫁候補だ」
「……………むぐ?!」
ふわりと微笑み身を屈めたアンが、リーフェットの頬に口付けを落とす。
目を瞠ったまま真っ赤になって固まってしまったリーフェットにくすりと微笑むと、おでこと、鼻先にも口付けをするではないか。
「君に、僕からの最大の祝福を授けよう。それと、簡単に求婚もしておいた」
「…………求婚も?!」
「ほら、この姿でないと、さすがに僕も複雑だからね。今の内に済ましておけば、元の姿に戻っても有効だから一安心だ」
「この姿……………?……………ぎゃ!元の姿に戻っていません?!」
アンの言葉にそろりと自分の手を見たリーフェットは、それが子供の手ではないことに気付いた。
すらりとした、少女の手だ。
「君が、嵐の影響を軽減する為に、ちょっと凄過ぎて夢かなと思うくらいの魔術をばんばん使ってた時に、体に負担をかけないように無意識に魔術調整したんだろう。困ったな。こんなに綺麗になると知られたら、僕の敵が増えるかもしれない」
「そ、それどころではありません!!このまま何とか固定できれば……………ぎゃ!!!ちびころに戻った!!」
「はは、やっぱりこっちの姿も可愛いなぁ」
「どうしてなのですか?!せっかく元の姿に戻れたのに……!!」
「それと、こんなもしもがあるといけないから、君の着ている服は常に体の大きさに対応できるように魔術をかけてある」
「………そ、そうなっていて良かったです」
ちびころに戻って動揺していたリーフェットだったが、その魔術がかけられていた有り難さに胸を撫で下ろした。
場合によっては、嵐の場面で、ちびころ服をびりびりに引き裂いて成長する大惨事になりかねなかったのだ。
想像しただけでぞっとする。
そして、小さなリーフェットを、抱き上げようとアンが体を屈めた時のことだった。
「アン?!」
ずるずると崩れ落ちるようにして、座り込んでしまったアンを、リーフェットは慌てて抱き締める。
リーフェットの小さな体をぎゅっと抱き締め返して、アンが深く息を吐いた。
「……………少し無茶をした。何しろ相手は、祝祭の当日を迎えた祝祭の主人だったからね」
「す、すぐに人を呼びます!ここで倒れたら……」
また涙が出てきてしまったリーフェットに、アンがくしゃりと微笑む。
柔らかな冬の入りの風の吹く、美しい青空の下ではっとする程に美しく。
「……ねぇ、リーフェット。君のお陰だ。さすがの僕も、祝祭の主人を相手にして、嵐まで片付けるだけの力はなかった。君が嵐を引き受けてくれたお陰で、僕は安心して君を守れたんだ」
「……………もしかして、あの収穫祭の主人が現れることを、予測していたのですか?」
「来るだろうなとは思ったよ。あの王女が君を手に入れようとしたのも、当初のその目的から大きく逸れて、途中から君を殺そうとしたのも、彼らのやり方にはどうにも統一感がなかっただろう?途中からは、収穫祭が君を欲したからだと思えば納得がいく。………収穫祭はね、名前の通りに豊穣と収穫を司る祝祭だ。君の魔術師としての才能は、収穫祭の主人に興味を持たれるくらいに立派な財産だった」
王女がアンを取り込む為にリーフェットを呼び付けたところまでが、王女の意向であった。
けれどもそこで、王女に庇護を与えている祝祭の主人が、リーフェットを見付けてしまったのだろう。
そう教えてくれたアンは、リーフェットがその場で麦穂の香りがしたと言った時から、収穫祭の介入があると予測していたらしい。
「僕達がどんな立場でも、あちらは王女だからね。公的に君に介入したいのであれば、他にもやり方はあった筈だよ。それをしなかったのは、王女が反抗していたからなのだろう」
「王女様は、反抗していたのですか?」
「自分に庇護を与えている者が、他の人間に興味を示しているんだ。場合によっては愛し子の地位を奪われる可能性もある。でも、あの祝祭はビアド公爵の息子としてあちらの陣営に入り込んでいたから、公爵が動くことは止められなかった」
「ほわ………」
「君を殺そうとした子爵は、もしかすると、王女本人から君を殺せと内密に命じられていたのかもね。……………さてと、僕はそろそろ限界だから、レイヴィアには大切に運ぶように言ってくれるかい?」
「アン?!」
そう言うと、アンはぱたりと倒れてしまった。
飛び上がったリーフェットが頬に手を当てると、どうやらぐっすり眠り込んでいるだけのようだ。
(よ、良かった………!!)
安堵のあまりぐしぐしと泣いてしまいながら、リーフェットは偵察台の柵の間から、下で騎士達に指示を出していたレイヴィアの名前を呼んだ。
わあっと海沿いの歩道や店の前などで、外に出てきた人々がこちらに手を振っている。
慌てたリーフェットは、監視台の上でぴょんと飛び上がり、慌ててぺこりと頭を下げたのだった。




