6:比叡山焼き討ち
元亀二年(1571年)九月十二日。
比叡山が焼かれたという噂は、半日もせぬうちに京へと届いた。
直線距離で一里と少し(5km)しか離れていない山中から、煙が見えたのだ。
「ついに焼かれてしまわれたか……残念だが、これで根回しも楽になるな」
明智家の屋敷で働く下人たちの騒ぎを聞いた金造は手を止め、ため息をついた。焼かれた山門への痛ましさはあるが、それより安堵の思いが強い。
ここ半年あまり。金造は京の町衆から「公武御用」のための貸付米の了承を取り付けるべく、奔走してきた。
京の一町につき「御米」を五石貸し付け、三割の金利で月ごとに一斗二升五合を納めさせる手立てだ。金利は禁裏の財源だ。来年の正月から徴収を開始する。
「御米」は、京周辺の荘園から洛中妙顕寺の蔵に集められ、以後は基本的に動かない。貸付も金利も、実物としての米が動くのではなく、帳簿の上で移動する。もちろん、米は食料でもあるし古くもなるので、寺の側で適時処理していくことになる。
荘園から米を集めることに関しては、権大納言である公卿の山科言継が中心となって動いている。田畑一反につき、米一升の賦課だ。命じられた荘園から確実に米が来るわけではないが、よほどに量が少ない場合をのぞけば、帳簿上の存在である。さほど問題にはならない。
問題になるのは、後世でいうところの市民税を徴収される町衆の側だ。
新しい税に好意的な人間は存在しない。
負担が軽いか重いかではない。
面子が軽んじられているか重んじられているかが大事なのだ。
もちろん、町衆の中でも奉行衆から公式に依頼を受ける立場にある旦那衆は、「承知いたしました」と頭を下げるだけだ。反対などしない。
が、その下で実務を担当する、明智家における金造のような立場の者は別だ。
金造には、実務レベルでどのような会話がなされるのか、ありありと想像がついた。
いつも光秀を相手にやっているからだ。
「殿。大事なお話があります」
「……聞かなきゃダメか?」
「ダメです。もう晦日ですからね」
「はぁ……言ってくれ」
「いつものように支払いが溜まっておりますが、今月は特に厳しいです」
「うん」
「全部の支払いは無理です。優先順位を、お願いします」
「公家や町衆の付き合いにかかる銭は、最優先。これを削ると、わしの言うことを誰も聞かなくなる。会ってはくれるが、それだけだ」
「わかりました」
「次は給米だな。来月、また陣触れがある。兵数、特に足軽が減るとまずい。給米が足りぬと、食えない連中が人足仕事に精を出して、集められなくなる」
「それは……難しいですね」
「優先順位の二番目だぞ! もう難しいのか?!」
「はい。足軽に給米となると、現物ですので帳簿上の誤魔化しがききません」
「なんとかならんか?」
「何度か、理由をつけて屋敷に足軽たちを招きましょう。屋敷で飯を食わせるのです」
「それだと、屋敷の米がなくなるだろう」
「なくなりますが、明智家の蔵に米を入れるのは来月ですし、支払いはそこから先延ばしにできます。明智家の他のツケと抱合せにすれば、年の瀬までは延ばせます。いや、延ばしてご覧にいれましょう」
「さすが、金造は頼りになるな」
「お褒めにあずかり、恐悦至極に存じます。ですが、優先順位の三番目から下はダメです。殿が堺の商人に打診なさった鉄砲は、こちらでお断りを入れておきました」
「えっ!」
「優先順位を入れ替えますか? 足軽の給米を減らすのであれば、一丁くらいは」
「うぐぐ……わかった……足軽の給米の方が優先でよい……人数がいるのだ……」
「賢明なご判断です」
町衆の面子を軽んじた形で貸付けた「御米」の金利支払いの優先順位は、ほぼ確実に、最低になる。払いたくないし、払わなくても大丈夫だろう、となる。
銭が入ってこないことから、禁裏は幕府奉行人と織田方奉行衆に「なんとかしてたもれ」と言ってくるだろうが、奉行人や奉行衆にできることは、あまりない。
せいぜいが「町衆にはきつく申し付けます」くらいだし、彼らが出会って口を利ける旦那衆は、いくら怒られようが、平伏して畏れ入ってみせるだけだ。
旦那衆の下にいる金造のような実務担当者は、あくまで自分の旦那の顔しかみないし、そうでなくては、仕事にならない。
いろいろ揉めた結果、奉行衆から「御米」を管理する妙顕寺に「なんとかせい」と恫喝が入り、妙顕寺が渋々、肩代わりするという流れになる。
押し付けられた妙顕寺も、そのまま引き下がりはしない。上のレベルで話が通せる相手というのは、上のレベルでもみ消しに動く。妙顕寺は、二度とこのようなことがないよう公方や禁裏に働きかけ、奉行衆は公方と禁裏から「妙顕寺に無理はさせぬように」と申し付けられる。
かくして一年とたたぬうちに、「御米」の貸付は立ち消えとなる。
右往左往させられた京の町衆は、支払いが有耶無耶になったことを内心で喜びつつ、口では今の公方もそれを支える織田家も「頼りなし」と評価を下げ、溜飲も下げて終わる。
次に何か新しい施策をするにしても、「頼りなし」で評価が下がった分、実施はより難しくなる。
少し前まで、金造はそのように考えていた。この結末は避けようがないと。
だが──
(比叡山を焼いたことで、流れが変わった)
織田勢は、鎮護国家の要である比叡山すら、敵だと認定すれば焼いてしまう相手だ。
「御米」金利支払いの優先順位を最低にするような、舐めた真似をすれば、報復される危険がある。町衆からは払いたくないが、払わないと危険、に格上げされる。
誰もが嫌う税でも、長く続いて習慣化すれば定着する。
禁裏の賄い安定化のため、やってみる価値はあった。
数日が過ぎ、日之介に率いられた足軽衆が、晴れ晴れとした顔で京に戻ってきた。
この一年あまり、織田勢は比叡山に煮え湯を飲まされ続けてきた。武によって成り立つ武士にとり、「あいつらは弱いのでは」と思われることは腸の煮えくり返る屈辱だ。日之介や足軽たちは比叡山を「恨みを晴らす」相手として、朝倉・浅井・三好と戦う以上の熱心さで戦ったのだ。
商人の出で、勝手方として山門と銭米の付き合いがあった金造と違い、戦を専らとする日之介と足軽には、武装しているのに都合が悪くなると宗教団体の側面をみせて戦を避ける比叡山は、憎悪と侮蔑の対象でしかなかった。
「それがしが聞いたところ、女子供も殺したと京烏が騒いでおるようだが」
「焼いたからの。煙に巻かれたのはおるやろ。ええ気味じゃ」
「そうか。なんにせえ、日之介が無事でよかったわ。殿はどうした?」
「坂本の片付けで、まだ残ると仰せじゃ。それにしても、今回の火付けは快事じゃったわ」
聞けば足軽たちも、京では肩で風切ってのし歩いているらしい。
さらに数日がして、光秀が京に戻ってきた。
額がつやつやしている。
「留守居ごくろうだったな、金造」
「ありがとうございます。殿も戦捷お喜び申し上げます」
「おお。比叡山は、しっかりこんがり焼いたからな。金造も、仕事がやりやすくなったろう」
「はい。正直、ここまで皆が協力的になるとは思いませんでした。こちら、町衆から指出のあった町組と図子です。写しをとっておきました」
「助かる……やあ、これを手に入れるまでけっこうかかったな」
町のどこに誰がいて、どのような仕事をしているかは、統治に必須の基本情報だ。しかし、その情報は価値が高いがゆえに、紙の上に存在しなかった。奉行といえど京の町衆に遠慮があったのは、分散した人々の記憶に、統治情報を握られていたためだ。
「殿は志賀の陣の時に、比叡山は焼くことになると言われました。一年前からこれを狙ってのことでしょうか?」
「そうだ、と言う方がカッコよいが。もちろん違う。わしは千里眼ではないぞ」
光秀はカラカラと笑い「千里眼と思われておいた方が得ではあるが」と言ったあとで、真面目な顔になる。
「応仁の乱から百年じゃ。いつまでたっても世が平らかにならぬゆえ、公方も幕府も、それを支える大名も、武士は皆、軽んじられておる。戦ばかりして世を荒らすバカどもだとな」
「はい。それがしも、越前では商家の息子でしたので。そうした空気はわかります」
「わしも牢人だったからわかる。その上で、武士にバカが多いのは間違いない。うちの足軽たちもな。気はよいヤツらなのだが、だいたいバカだ」
「はい」
「だが戦ばかりなのは、武士のせいではない。世に銭が増え、商いが増え、相論も増え、なのに解決する方法は律令の昔からさほど変わらぬがゆえに、すぐに戦となって武士の出番が増えておるのだ」
「因果が逆であると」
「そうだ。揉め事を解決する手段を、銭と商いに対して有効にせんと、いつまでたっても乱世は終わらぬ」
「有効に……どうやればよいのでしょう。殿には何か腹案がおありですか」
「ない」
「え」
強い口調で否定され、金造が虚をつかれて口ごもる。
「この国に銭が流れるようになって千年近くなるが、誰もよい手を思いつかぬ。つまり、我らの手の届くところに、解決する術はないのだ。誰もが仏の如き心になれば、あるいは可能かもしれんが、ちょっとしたことで腹を立てて比叡山を焼いてしまうようでは遠いなあ。わっはっはっは」
光秀は自分で言って、自分で笑う。
「金造。わしらは手の届くところで最善を尽くすのだ。比叡山を焼いて、京の町衆の心胆を寒からしめる。武士を軽んじておった京烏に武士は怖いものだと思いださせ、恐怖で従わせる。仏の道には背くことだ。人の道でもどうかとは思う。だがな。今のわしらの手が届くこれが最善よ。最善を尽くし、ついてきた結果がこの指出よ」
パンッ、と光秀は町組と図子の写しの紙を指で弾く。
「町衆もな。最善を尽くした。京が比叡山のように焼かれれば、ここに書かれた情報も意味をなくす。この差出しを使いたいなら、京が焼かれることがないようにしてくれと。そういうことだ」
「再び京を焼くとなれば、三好三人衆でしょうか。それとも、恨みに思った比叡山が、朝倉・浅井を再び呼び込むということでしょうか」
「町衆が一番に恐れておるのは、比叡山を焼いた我らであろうな」
「比叡山と違って、京を焼いても我らに得はございませんぞ。いや、比叡山も焼いて得があったかといいますと、明智家は持ち出しの方がずいぶんと多うございますが。特に今年は、宇佐山の城番が重うございます」
「すまんな」
「いえ。勝手方としての、それがしの役目にござれば」
「そして、さらにすまん」
「……殿?」
光秀が、金造に頭を下げた。
見慣れた光景である。
「信長様からな。坂本に城を築くよう命じられた」
「それは、おめでとう、ございます……?」
金造は首をひねった。
坂本に城を建てる、というのは一年前から織田方の武士の間でよく出る話題だ。
京の奉行であり、勝軍山城、宇佐山城の城番も務める光秀が築城責任者になったのであれば、妥当でもあるし、めでたいことである。
では、光秀はなぜ金造に頭を下げているのか。
「あの……坂本に城となれば、去年に朝倉・浅井が陣を取った、壺笠山ですよね?」
城を建てる場所は、領主が誰になってもさほど変化はない。
前の領主、前の前の領主が建て、あるいは破却した城を手直しして築城するのはよくあることだ。
坂本は、比叡山のお膝元なので、これまで城らしき城は近くになかった。
去年、朝倉・浅井連合軍は宇佐山城を攻めたが落とせず、北に下がって比叡山南方の壺笠山に陣を敷いた。これが壺笠山城である。
京へ臨む青山(白山)越えの稜線にあり、交通の要衝を扼する場所だ。此度の比叡山焼き討ちでも、織田勢が陣を敷いている。
「違う」
「え、じゃあ青山(あほ山)ですか」
「違う」
「は? まさか、日吉大社の境内に作るとか言いませんよね。焼いた後でそれは、人心収攬的にも悪手です」
「違うのだ。そうではなく、まったく新しい場所に城を建てる」
「新しい場所? どこかよさげな土地がありましたか?」
光秀は、懐から絵図を取り出して広げてみせた。
紙に染みがある。線と文字が少しよれている。
「半年ほど前に酒の席でな。信長様や他の皆と、比叡山から坂本を奪った後、どんな城を建てるか話をしてて盛り上がってな。そこでこう、わしがちょいちょいと描いたのじゃ。その絵図を信長様が大事にしまっておられてな。あの宴で光秀が申したこの城がよい。この城を建てろと。目を潤潤させて仰せでなあ」
「これは……平城ですか。いえ、これは……」
「海城だ。淡海を臨む土地に、水城を建てる。これがわしの坂本城よ」
光秀は、腹に力を入れた声で言った。