47:明智家の帳簿(最終回)
天正十年(1582年)六月二日。払暁。
本能寺北側から鬨の声が轟く。続いて火矢が放たれた。
火矢が狙ったのは馬草を積んでいる小屋だ。屋根はあるが壁はない。数本の火矢が馬草に刺さり、しばらく燻った後、ボウッ、と燃えあがる。
カンカンカンカン!
火事を知らせる早鐘が寺内に鳴り響く。
信長は布団の中で目を覚ます。
頭が、すっきりしている。まるで何ヶ月も眠った後のようだ。
「何事か!」
起き上がり、廊下に出る。
近習たちが驚いた様子で信長を見る。違和感があった。全員が武装している。
森成利が素早く信長の前に跪いた。
「謀反に、ございます」
「誰ぞ」
「旗印は桔梗紋。明智が者と見え候。そして……」
成利はまぶたを閉じ、それから意を決したかのように顔をあげる。
「左近衛中将様の企てと思われます」
信長の中で、何かがすとん、と落ちた。
嫡男の信忠が、謀反。そして光秀が兵を率いて囲んでいる。
「で、あるか」
信忠ならば、仕方ない。
光秀が合力するならば、心強い。
おかしな話だが、信長はこの時を待ち望んでいた気がする。
「是非もなし」
心が軽い。
天下という重荷を、捨てたからか。
軽くなった心のうちで、むくむくと、闘争心が湧き上がる。
人間五十年。節目も近い。
あの世に旅立つ前に、大暴れしてやろう。
「弓と槍を」
信長は差し出された弓を握り、浮き浮きと駆け出した。
成利の視線が、ちらと表門に近いところの塔頭寺院に向けられる。「若様、感謝します」小さく呟き、成利は信長の背を追いかけた。
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その塔頭寺院の周囲は、明智の足軽が囲んでいた。
中では青年がひとり、布団の上で弱々しく息をついていた。
老僧が、青年の首に指で触れて脈をとり、険しい顔で瞼を閉じる。
治療具の箱を持ってきた屈強な僧が、老僧の指示で、いくつかの薬を煎じ、青年を抱き起こして飲ませる。青年はケホケホとむせ、飛沫を散らす。
「信忠様」
金造は、青年=信忠に呼びかけた。そして老僧に、信忠をここから動かせるか、目で問いかける。
老僧=曲直瀬道三は、左右に首を振った。動かせば、途切れかけた命がこのまま尽きると。
「信忠様」
「……」
「信忠様。それがしは怒ってますが、責めませんので起きてください」
「……ごめん」
信忠が目をあけた。くろぐろと浮かぶ死相に、金造は胸をつかれる。
「謝るより、これからどうするか考えてください」
「厳しいな、金造は」
「それが、天下人の重荷です」
「天下人、か……ぼくの後は、信澄に天下を継がせる」
「三法師様ではなく、七兵衛様を、ですか」
「赤子に、織田家は継げないよ。弟たちもダメだ。片方が選ばれたら、もう片方が乱を起こすからね」
「七兵衛様でも、お二人が乱を起こすのは同じだと思いますが」
「そこは光秀の手腕に期待かな……それに、信澄ならグダグダ文句を言いながら、なんとか天下を回してくれるよ」
「わかりました」
信忠が目を閉じ、ほう、と息をついた。
「光秀は来れそう?」
「まだちょっとかかります」
「そうか……じゃあ、光秀に……ぼくの代わりに、謝っておいて」
金造は、ぎゅっ、と唇を噛んだ。血の味が口の中に広がる。
「無用です。信忠様が謝るようなことは。何ひとつありません」
「……自分で謝れと言われるかと思った」
金造は、一ヶ月前の安土城の夜を思い出す。
「それがしが明智を出て信忠様の勝手方となるのを躊躇っていた時、光秀様はこう言われました──」
『失敗を恐れるな、金造。この世を豊かに、強靭にするのは、失敗する者たちだ。失敗してなお諦めず、ジタバタあがく者こそが、次へとつながる道を拓く』
「──それがしは、ここからどうジタバタあがくかが大事だと思います。信忠様がどれだけ言葉を飾って謝っても、得るものは何もありません」
「ふふ……そうか……謝るより、どうするか考えないとね……」
信忠の呼吸が、少し穏やかになった。
金造は信忠の手を握る。信忠の唇が動いた。声がかすれている。金造は耳を近づけた。
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本能寺に、火矢が打ち込まれる。
あちらから、こちらから小火の煙が上がり、視界を遮る。
信長は本堂の屋根に登り、腹ばうようにして様子を伺う。
後ろから、小姓が上がってくる。信長は強い声で叱咤する。
「かがめ! 輪郭が浮かぶ!」
白くなりゆく空を背にすれば、動きが目立つ。
小姓たち若い世代は、武芸は達者でも、そういう戦場の機微が身についていない。
(思っていたより数が少ない。明智の先遣が先走ったか)
本能寺の表門は、敵の手に落ちているようだ。だが、そこで動きを止めている。
本能寺の周囲からは、五月雨式に火矢が放たれている。こちらは数が少ない。
ならばと信長は考える。
周囲を囲む側の指揮官を叩けば、裏手から脱出も可能だ。
安土城へ逃げ、籠城して態勢を立て直すか。
それとも大阪に出て、四国征伐軍と合流して反撃に出るか。
問題は、そのどちらも調略の手が伸びている可能性がある。
(四国征伐軍だ。三七と合流する)
此度の謀反は、信長が光秀を粛清しようとしたからこそ。
性急に本能寺を攻めたのは、光秀の本意ではあるまいと信長は考えた。
信長は寺の外から火矢を放ってくる明智の足軽を観察する。足軽たちの間を、頭とおぼしき武士が動いている。
(あれを射抜く)
信長は目で距離を測り、動きを読み、弓を放つ所作を組み立てる。
矢を握って立ち上がる。弓を引き絞る。放つ。すぐにしゃがむ。
ヒョウ、と飛んだ矢が武士に当たる。もんどり打って倒れる。足軽たちの動きが止まる。
「よし! 裏門より出てあやつらを蹴散らし東へ駆けるぞ!」
小姓に命じ、信長は本堂の屋根から降りようとする。
パアン、と鉄砲の音が表門の方から響いた。
小姓たちが、さっ、と立ち上がって信長の周囲を固める。
我が身を盾に信長を守ろうというのだ。
屋根にしゃがんでいるのは、信長だけ。
(まずい!)
風切り音。矢が飛んできた。小姓の間をすり抜け、信長の右腕をざっくりと裂いた。
「むうっ!」
「上様っ!」
信長は弓を放り投げ、体を転がし、半ば落ちるようにして本堂の屋根から降りる。
下にいた小姓たちが、信長を受け止める。
(してやられた! やはり明智は手練が揃っておるわ!)
表門を押さえた連中に動きがなかったのは、釣りであった。
弓と鉄砲を準備して、信長を狙える機会を探っていたのだ。
矢傷の手当てを受けつつ、信長はこの後の手立てを考える。
逃げられないかもしれない、とは思う。
だからといって、諦めるつもりは毛頭なかった。
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塔頭寺院の屋根の上で、日之介は残心を解く。
手応えはあった。騒ぎの様子から、信長はまだ生きている。
寺の外からの火矢は止まったままだ。武吉はやられたか。手傷を負ったか。
若い武士に命令を与え、外に送り出す。
建物の中に入る。金造が眠った信忠の手を握っている。
「どうだ?」
「今は眠っておられる。光秀様は?」
「遅れている」
作戦が二転三転しているのだから、これは仕方がない。ちょっとした不手際が積み重なるだけで、軍の行動は半日くらい遅れるものだ。
「本堂が燃えております!」
外から足軽が報告した。火矢は止まっている。小火は消されている。
本堂から火が吹き出すほどの火事となれば、自焼の他にない。
逃げられぬと思い定めた信長が、腹を切る覚悟を決めたのか。
「違う」
信忠が、小声だが、意外なほどにはっきりした口調で言った。
金造が口元に耳を近づける。
「父上は。火災に乗じて。逃げる気だ」
「はい」
「逃がすな。討ち取れ」
「はい」
金造が顔をあげ、日之介を見る。
日之介が頷き、外に駆け出した。足軽たちが報告してくる。
「裏手から、女衆や寺男たちが逃げ出しております」
「信長や近習が混ざっているかもしれん。道を竹束で塞げ。誰何しろ」
「はっ」
本能寺の裏手から、人影がワラワラと逃げ出す。裏門を出るもの。壁を乗り越えるもの。
足軽たちが竹束を並べて臨時の関を作り、道を塞ぐ。逃げようとする男女と足軽の間で、怒号が交わされる。揉み合いが起きる。
裏門から、牛車が出てきた。ガラガラと音を立て、竹束の関に衝突する。関が壊れる。すわとばかりに、足止めされた男女が倒れた竹束を踏んで逃散。足軽たちが追いかける。
応仁の乱から百年あまり。京雀は常に戦乱に身をさらされて生きてきた。織田と公方の戦いのとばっちりで上京が焼かれてからも、十年とたっていない。己の身は己で守る。相手が明智の足軽だろうが、おとなしく捕まったりはしない。男も女も若者も老人も、大声で喚き散らし、棒を振り回して抵抗する。
日之介は、少し離れた場所で混乱が広がる様子を見ていた。
「そこか」
日之介は弓を掴み、関に衝突して止まっていた牛車に矢を射掛けた。
牛車の前簾がばっ、と開いた。中から女官の服を着た青年武士が飛び出す。
半壊した関の近くにいた足軽が切られる。さらにもう一人に刃が迫る。矢が飛ぶ。青年武士が飛び退く。女装の似合う、端正な顔が見える。
「蘭丸殿か」
日之介は矢をつがえ、放つ。二本。三本。裾を射抜かれ、動きが鈍ったところに、足軽たちが左右から槍をかける。足を刺され、腹を抉られ、森家の三男は道端に転がる。
「いずれ地獄で」
日之介と成利が一対一で戦えば、弓でも槍でも勝利は成利のものだったろう。信長の護衛を任される小姓の技量は、それほどに隔絶している。
だが戦場では個人の武芸に意味はほとんどない。戦に慣れた足軽が二人補助につけば、道端のゴミを掃く気軽さで、格上の相手でも簡単に殺すことができる。
日之介は再び周囲を観察する。
信長の姿がどこにもない。
成利が牛車に隠れていたのは、囮となって信長を逃がすためで間違いない。
ここに、信長はいない。
「信忠様の見立て通りか……頼むぞ、金造」
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本能寺を改装するにあたり、脱出用の抜け道が作られたことは、一部の者しか知らない。
一部の者の中には、信忠も含まれる。
信忠が含まれていることは、信長も知っている。
「ええいっ。なんだおぬしらは」
抜け道の出口で待ち構えていた武士は、一部の者しか知らないはずの抜け道から、ぞろぞろと僧や公家が出てきたことに、目を白黒させた。いずれも大事そうに、木箱を抱えている。信長が安土から持ってきた、茶器の入った箱だ。
「こっ、これはっ、珠光小茄子でっ! 天下の名物でございます。ご覧ください、この曲線の優美なこと!」
「いや、そういうことを聞いてるのではなく」
「これは松嶋の壺ですっ! 拙僧はどうなってもかまいませぬ。どうか、どうかっ、この壺だけはっ! この壺は、いいものですっ!」
「おぬしらが何者かを聞いておるっ!」
僧や公家は、目を血走らせ、口角泡を飛ばして名物の良さを訴える。
武士は閉口し、配下の足軽を集め僧や公家の身をあらためさせた。警戒も怠らない。弓と鉄砲は、抜け道の出口に向けたままだ。
その様子を、信長は茂みから伺っていた。見つからぬようこそりと小路へ出る。
(……よし)
名物を「救う」名目を与え数奇人を囮にしたのは正解だったと信長は考える。
脱出用の抜け道には出口が二つあることを、信長は誰にも言っていない。
まずは山科まで逃げる。身を潜めて情報を集め、安土か大阪に向かう。
腕が痛む。できれば馬を見つけたいところだが──
白馬がいた。老いているが、生意気な顔の馬だ。鞍に小柄な若い男がまたがっている。
どちらも息が荒い。隠し出口を探して走り回ったのだろうと信長は見てとった。
「明智家勝手方、秦造金造です」
堅い、裏返った声で、男が名乗った。名乗りなれていない声だ。
諧謔を感じ、信長は汚れた白小袖の背を伸ばし、朗々とした名乗りをあげる。
「織田弾正忠信長である」
今の信長は、官職がない。あえて呼ぶなら前右府であろう。
ここでの弾正忠は、尾張三奉行の家としての名乗りだ。朝廷からもらったものではなく、代々、勝手に自称してきた。上洛した時、本物をもらってどれだけ誇らしかったことか。
信長はどっかと地面に座り込んだ。
「金造と言ったな。手向かいはせぬ。捕らえて手柄とせよ」
嘘である。
信長の狙いは、金造の馬だ。
腕を怪我していなければ、引きずり下ろして馬を奪うところだが、今は金造の方から降りてきてもらいたい。
白馬が近づいて止まる。金造がのたのた鞍から降りる。
金造が懐に手を入れた。信長の目が細められる。
金造が荒事に不慣れなことは、一目でわかった。信長を捕らえようとすれば、動きがぎこちなくなる。そこを狙う。
金造の懐から、帳簿が出た。
「んんっ?!」
機先を制されたのは、信長だった。立ち上がろうと中腰になったところで、動きが止まる。風に乗って、後ろから火縄の臭いが届く。銃声。腰に衝撃。
信長は地面に倒れた。
してやられた。馬を奪おうとしているのを読まれ、鉄砲持ちが駆けつけるまでの時間を稼がれた。
「信忠様より、言伝をいただいております」
暗くなる視界の中で、声が聞こえた。
「お疲れ様でした父上、と」
洒落臭い、と信長は思う。
気の利いた返しを口にしようにも、舌が痺れて動かない。
ただ唇が、微笑みの形をつくった。
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午刻(12:00)。
山科に抜ける粟田口で吉田兼和(兼見)は、近江に向かう光秀を出迎えた。
本能寺の顛末を聞いて、兼和は重い溜息をついた。
「斯様な仕儀になるとは……」
「運命であろう。天下静謐はまだ遠いということよ。それより、神祇大副殿」
「なんでしょうか」
「このこと、書き残すのであろう?」
「それはもちろん……ですが……」
兼和は口ごもる。
状況はひどく流動的だ。この先がどうなるかがわからない。もしも光秀が負けることがあれば、勝者はあらゆる罪を光秀に押し付けようとするだろう。そうなれば、この時代の日記や書簡のような、他人に読ませることを前提とした書では残しにくい。
光秀はわかっている、という風に頷く。
「頼みがある。わしではなく、うちの勝手方の金造と……信忠様、からな」
「なんでしょう」
「この十年あまりの明智家の帳簿。吉田神社の書庫で預かってもらいたい」
「それは……」
ぎょっとした兼和に、光秀は笑をみせる。
「わしは負けるつもりはない。だが、何が起きるかはわからぬ。信忠様がな。明智家の帳簿は天下のために残せと。誰が天下人になろうと『細かいこと』は必要だからと」
吉田神社の書庫の奥に、白木の箱に『帳簿』とのみ書かれた箱が運びこまれたのは、その翌日である。
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それから。
長い長い歳月が流れた。
古い建物から、新しい建物へ。箱と中身は移動を続けた。
箱が開かれて中が確認されることもあったが、中身が帳簿であることだけわかれば、そのまま箱の中に戻された。
ある日、ついに箱の方が壊れた。
中の冊子をパラパラと確認した者は、頑丈なコンテナボックスに帳簿を移し、コピー用紙に『帳簿』と書いて箱の側面に貼り付けた。
それから数日が過ぎ。
「炒鋼鉄の値段と重さが書いてあるって本当でしょうね」
「いや、そこまではわかんないわよ。炒鋼って書いてあったことまでしか見てないんだから。でも、『帳簿』って書いた箱の中身だから、値段とかもあるはず」
「よっしゃあああっ! これで室町時代の鉄輸入の手がかりがつかめる。よくやったぞ、キンちゃん。あんたの名前、うちの論文に書いてあげるからね」
「声がデカいよヒーコ。論文とか半年以上先じゃん。それより、おはぎおごりなさいよ。お、あった。このコンテナボックス」
「どれどれ……ふーむふむ……ふむ?」
「どしたん、ヒーコ」
「いやこれ、けっこうイイかも。めっちゃ細かい。あんたのご先祖、すごいな」
「うちの蔵にあるからって、ご先祖様とは限らないわよ。江戸時代末期に、金にあかせてけっこう買い集めたとか聞いてるし」
「それもそうか。どこの誰だ。たぶん、国衆以上だとは思うんだが……ないな」
「こっちもない。表紙を張り替えてあるね、これ」
「年号と日付はきっちり書いてある。お、こいつが一番古い。永禄十一年……」
表紙をめくった最初の頁には、誇らしげな文字でこう書いてあった。
『明智家勝手方 秦造金造』
『明智家の勝手方』(了)




