46:本能寺の変
天正十年(1582年)六月一日。亥刻(22:00頃)。
篝火と松明に照らされた亀山城を出発した一万二千の軍勢が、東へ進む。
このうち坂本城で編成された八千の兵は、二日前に通過したばかりの老ノ坂に戻る道に「どういうこっちゃ」と思わぬでもなかった。が、口は閉ざす。明智の軍法では兵は隊列を組んで備場にある時は勝手に騒いではならぬものだからだ。
古兵はこれを規律としてではなく、兵法の当然として理解し、沈黙を守っていた。足軽にとって、組頭の言葉が聞こえぬほど恐ろしいことは他にない。地べたを這い回る足軽衆の視野は狭い。進むも戻るも、組頭の声が頼りだ。
三里(約12km)を超える長蛇の列は粛々と、山陰道を東へ進む。
軍勢の先頭が丹波から山城へかかる老ノ坂に到着した頃。ようやく最後尾が動き始める。すでに子刻(24:00頃)である。
重太は、眠い目をこすり、隊列を見守る。
「童は寝ておれ」
亀山城で留守役となる斎藤内蔵助利三がぶっきらぼうな声で叱る。
「もう童ではありません。私は見送りたいのです」
「おぬしの仕事は、明日もあるのだぞ」
「仕事というのが、姫路城への小荷駄の手配なら、あとは利三様の決済待ちです」
「いつやった」
「光秀様に信忠様の文が届いてすぐに」
重太は隊列に目を向けたまま言った。
文が届いたのは日没前だ。
利三はため息をついた。
「……日が落ちた後は、おぬしを働かせぬ約束を金造としたのだがな」
「もう働いてしまいました。後で利三様から金造様に謝ってください」
「そうしよう。おはぎをつけてな」
なおも渋る重太を寝かしつけた後、利三は自作の地図を床に並べた。
(光秀様は、二通の文について、一言も語らなかった)
ただ事ではあるまい、というのは表情からも察せられた。
深夜に届けられた、金造からの文。
光秀は、あれで何かを覚悟したようだった。
日没直前に届いた、信忠からの文。
光秀の覚悟が、あれで揺らいだようだった。
(考えたくはないが……これは、お家騒動だ)
かつて利三は、美濃斎藤家に仕える稲葉一鉄の家臣だった。
斎藤道三と息子の義龍のお家騒動と、あの時の美濃に漂う空気はよく覚えている。
お家騒動は、利三のように家臣の家臣、という立場の方が敏感に感じ取れるものだ。
(金造の文は、光秀様の粛清の動きを伝えるものであろうな。光秀様は、身の潔白を証明するよりは、信長様に殉じる覚悟だったのだろう)
光秀は、牢人の身から新興武家である明智家を、ほぼ一代で築き上げた。
己を才人と自負する利三の目から見ても、光秀の才は飛び抜けている。
だが、そうであったとしても、人間にできることは限界がある。
(光秀様は、欲に無頓着にすぎたな)
もちろん、光秀は自分の欲を表に出してよい立場ではなかった。
最初は克己心をふるって、欲を疑われる言動を避けてきたのだろうが、長く遠ざけすぎて、今では本当に欲というものがわからなくなっていたのではないか。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、即ち悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
──『徒然草』第八十五段
利三は、光秀が懇意にしている吉田神社で読んだ兼好法師の書を思い出す。
(光秀様は、舜を学びすぎた。わしなら、とうに信長様を見限って信忠様に天下の権を移すため動いておる)
舜は、中華の伝説の五帝の一人だ。父親から何度も殺されそうになったが、父親に忠を尽くし続けた。
利三には、とても舜の真似はできない。不遇になれば、逃げて新しい主君に仕えるし、実際にそうした。利三の才覚を最大限に使ってくれる光秀には感謝している。
(なら、光秀様の代わりに、この先に備えておくのもご恩への奉公であろう)
地図を眺める。
眺めるほどに、信長が光秀に向けた信頼の厚さが伺える。
坂本城と亀山城の両方を光秀に任せ、大和国も与力の筒井順慶を通して光秀の指揮下に置いてある。
織田領国中央の銭と軍は、光秀の指ひとつで動く。
(光秀様が裏切らないという確信があっても、ここまでは……いや。そうか)
信長らしい決め打ちだ。「光秀が裏切ったら、どうしようもないので、裏切らない前提とする」ことで、権限を光秀に集中させたのだ。
目をそらしていた、ともいう。
(これは、一度でも疑念が差すと止まらなくなるな……すべてが怪しく思えてしまうぞ)
信長が光秀を粛清しようとしたのも、それが理由だろうと利三は考える。
信忠が光秀の粛清を止めるため動いてくれた──のだろうと、利三は考えている──のは、織田家のためにもよかった。光秀は腹を切って身の潔白を証明すればよいと考えていたかもしれないが、織田家第一の功臣であった佐久間信盛の追放に続いて、光秀まで粛清してしまえば、家臣団の側はそうは考えない。
(どの方面軍も目の前の敵をいよいよ討滅にかかっている。この時期を狙っての粛清となれば、どうだ。狡兎死して良狗烹られ、飛鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。織田の重臣全員の頭に、淮陰侯韓信の故事が浮かぶわい)
方面軍を任された重臣たちは自衛の道を選ぶ。地方で独立の動きをみせるか。あるいは、信長の息子の誰かを擁立して信長の追放を試みるか。
(いずれにしても遠からず乱は起きる。なら、積極的に動くべきだ。信忠様は正しい)
織田家の乱がどうなるにせよ、三位中将ですでに尾張と美濃の織田家督を継承している信忠は大駒だ。今は東方経営で一時的に陣営が薄くなっているが、半年もすれば、質も量も戻ってくる。
途中経過はともかく、最終的な信忠陣営の勝利を利三は疑っていない。信忠が信長に謀反を起こしたことで、揺らぐ者もいるだろうが、先を見通せる者は、最後には必ず信忠陣営につく。
「となれば、姫路城にありったけの兵糧と銭を送るべきだな」
四国征伐軍は、信孝陣営となって信忠陣営と敵対する。信孝に野心がなくとも、信孝の後ろ盾となった三好家にはある。利三としては、西で毛利と戦う羽柴軍を早急に信忠陣営につける必要があった。姫路城に兵糧と銭を送れば、秀吉をはじめとする羽柴軍幹部は、明智の計策に気づくだろう。羽柴軍は上方の情勢がはっきりするまで、中立を守っていればよいのだと。毛利と対峙したままでもよし。和議を結んで引き返してもよい。十分な兵糧と銭があれば、選択に余裕ができる。
信忠謀反を知って京に攻め上がろうとする四国征伐軍の背後から、羽柴軍が圧力をかける。羽柴軍が沈黙を守っているだけで、信孝の副将となっている丹羽長秀が不利を悟って三好家に働きかけ、講和を目指すはずだ。
利三は、重太が認めた小荷駄に関する書状を並べ、修正し、花押を書く。
丑刻(02:00頃)。
明智軍一万二千の最後尾が老ノ坂を抜ける頃。
前衛は、沓掛から平地に出ていた。
明智軍最古参で、切込隊長の役を担う内畑日之介率いる五百の足軽衆も、ここに含まれる。
光秀とその供回りも、前衛の中程に位置している。光秀の周囲には、目立つ長い旗を背負った伝令役の騎乗が多く混じっている。
日之介は、足軽隊を広げて四方に配置し、軍勢が備えを組み直せる空間を確保した。
篝火を焚き、後続の味方を誘導する。篝火の位置は、少し窪んだ場所だ。
丹波から来る後続には見えるが、京の町からは見えない。
日之介が京から大山崎・高崎方面へ向かう西国路への備えを強化していると、伝令が駆けてきた。
「組頭。京から馬が到着しました。殿がお呼びです」
「おう。ご苦労」
篝火に囲まれた窪地の真ん中へ向かう。すでに千近い兵馬が、ゆるい備を作って、たむろしている。
中央に光秀の馬印。近くに見慣れた白馬の姿。日之介の唇が自然と緩む。金造の馬だ。もういい年なのだが、金造が乗れるのはこの馬だけなので大事に世話されている。
打擲の音がした。小柄な人影が倒れる。
日之介はぎょっとした。
殴られ倒れたのは、金造だ。
殴ったのは、光秀だ。
日之介は無言のまま駆け寄って金造を背にかばい、光秀を睨む。
倒れた金造は、頬を腫らしたまま、地面に額をこすりつけた。
「申し訳ございません!」
日之介は周囲を確認する。
金造が害されそうなら、担いで逃げる。馬を奪う。邪魔されたら殺す。
何が起きてるかわからぬ時は、頭を使わず、心に従い、体を動かす。
「大丈夫だ、日之介。殿は混乱しているだけだ」
地面に顔を伏せたまま、金造が小声で言う。
日之介が光秀を見ると、光秀は金造を殴りつけた自分の拳を見つめ、呆然としていた。
金造の小声が聞こえたのか光秀は息を吐き、「なるほど。これか」と呟いた。
「……すまぬ、金造」
「いえ」
「日之介」
「……」
日之介は警戒を解かない。
光秀は膝をつき、平伏したままの金造の顔をあげさせた。湿った土で汚れた額を拭い、赤くなった頬を指で撫でる。
「状況が変わった。急ぎ本能寺へ突入せよ。内畑組には先鋒を任せる」
「はっ」
「金造。時間がない。日之介と同行せよ」
「はいっ」
「わしはここで、後ろ備えの準備をして追いかける。急げ」
光秀が周囲に矢継ぎ早に指示を飛ばす。伝令の騎乗が駆け出す。
その時になって、日之介は周囲の皆が、一様に顔を強張らせていると気づいた。
「金造。京で何があった。信忠様はどうした」
「信忠様は、本能寺だ」
「くそっ、先手を取られたか! 京屋敷の皆は無事か?」
「違う」
「ん?」
「信忠様は、ご自分から本能寺に行かれたんだ」
「謀反がバレて、釈明に行ったのか?」
「京屋敷を出る時に言伝を残しておられる」
信忠の言伝は「ちょっと父上の言い分を聞いてくる」というものだった。
あっけらかんとした様子で、京屋敷の門番は疑いもせず信忠を通したという。
「信忠様は、信長様の存念を確かめたかっただけなのだろう。本当に光秀様の謀反を疑っておられるのか。それとも、他に粛清せねばならない理由があったのか」
「そんなもの、後回しにしとけ。信忠様は頭がいいのに、バカなことをしてくれる」
日之介は吐き捨てる。
小声で会話をせねばならないので、自分の馬に金造を乗せる。金造の白馬についてくるよう言って、自分も馬に跨る。
「信忠様が、今も本能寺におられるのは確かなのか?」
「確かだ。近習の高五郎が本能寺から脱出して報告した」
信忠は、夕刻に本能寺に入った。供回りは五人。夜半になって変があったことは、人の出入りが大きくなってわかった。身の危険を感じ、馬の口取りをしていた高五郎は徒歩で本能寺を脱出した。残る四人がどうなったかはわからない。
明智家京屋敷に戻った高五郎の報告を聞き、金造は本能寺に人をやって確かめた。
「本能寺は、警戒態勢にある。信長様や信忠様が外に出た様子はない。ただ、数人の薬師が本能寺の中に入ったと」
「なんだとっ!」
日之介が大声を出した。耳元で怒鳴られ、金造が「ひゃっ」と首をすくめる。
「っと、すまん」
「かまわんよ。さっきは同じところで光秀様に殴られた」
日之介は馬の手綱を握ったまま、思案を巡らせる。
信忠が信長によって本能寺に幽閉されたなら、一刻も早く救出する必要がある。
負傷しているなら、なおのことだ。
「武吉!」
「へい!」
あばた顔の武士が馬を寄せてきた。
「一隊連れて、本能寺の絡手に回れ。どこでもいい。火をつけろ」
「へい」
「こちらは正面から突っ込む」
「火は遠くでつけろってことですか」
「塩梅は任せる。とにかく騒ぎを起こせ」
「ヤバいようですな。わかりやした。ヤバくするかもしれませんから気をつけて」
「武吉もな。そっちもヤバくなったらまず逃げろ。それから合流しろ」
「もちろんでさ」
武吉は顔を引き締め、隊列の後ろに向けて走った。
桂川が見えてきた。旧暦の六月頭は梅雨の終わりだ。川は増水し、音をたてて流れている。
京へ向かう道には橋が架かっている。桂橋だ。応仁の乱よりこの方、戦で焼かれたり破壊されることもあるが、そのたびに架け直される。
道の北側、少し後に桂離宮が作られる場所は、今は湿地帯である。
道の南側にはポツポツと田畑が広がる。その向こうにあるのは、久世庄だ。
桂橋の両岸には篝火がつけられ、数人の地侍が警備をしていた。深夜に京へ進む軍勢の姿に驚き、誰何もせず逃げ散った。
桂橋を確保した足軽が、日之介に報告する。
「逃げたヤツらを追いますか?」
「無用だ。足軽を十人ばかり、篝火番に残せ」
内畑組は、下京の町場にはいった。
深夜である。くぐり戸はおろされ、櫓門には監視の町衆が上がっている。
明智の足軽たちは、くぐり戸を押し開き、町衆を追い払って進む。
ところどころで、争いも発生する。
戦い、というほどではない。「なんやこらっ!」「やるんかこらあっ!」「隠れとらんででてこんかあっ!」「どぐされがあっ!」明智の足軽と警備の町衆が揉み合うのだ。言葉は勇ましいが、不利とわかればすぐに逃げる。
お互い、相手が何者かも、何をしようとしているのかも、わかってはおるまい。明智の足軽でさえ、何のために京の町場を通過しているか、聞いてはいないのだ。
「本隊の通り道さえ確保できればいい。逃げた町衆は放置だ」
「逃げた町衆が仲間を集めて反撃してきたらどうしましょう」
「殺せ」
足軽に命じた日之介は、腕に抱く金造の背が少し強張ったのを感じる。
人質として明智家に預けられた日之介が、金造と出会ってから十三年になる。
出会った時から、金造はひょろ小さく、荒事にはまったく向かない少年だった。少年時代を共に過ごし、やがて青年期を終える年になったが、もって生まれた性向に変化はない。
金造が、ポツリと言った。
「公方様に光秀様が召し抱えられ、上洛となった時に」
「ん?」
「明智家に仕えるからには、少しでも武士らしくしようと思って。それで父に相談したんだ。何か武芸を習ってみたいのですが、って。槍でも弓でもなんでもいいから」
「そりゃ……」
日之介は吹き出しそうになるのをこらえた。子供っぽい動機だが、まだ十代前半の話だ。
「父ちゃんには、やめとけって言われたろ」
「うん」
「それで諦めたのか」
「武芸は諦めたけど……その、言葉遣いを……武士っぽくするために……」
金造の耳が赤くなる。
「自称を、“それがし”にしたんだ」
「ぶっ」
今度こそ、こらえきれずに日之介は吹き出した。
「笑うなよ」
「いや、すまん。そうか。その言い回し、わざとだったのか」
「十年以上使っているから、今では“それがし”以外だと違和感があるけどね」
「うん。まあ……わしは好きだぞ。そういうこだわり」
「ありがとう」
金造の背が、柔らかく日之介にもたれかかる。
本能寺が見えてきた。