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45:父と子と

 本能寺へ向かいながら、信忠は家康の話を思い出す。

 安土から京に向かう途上で、信忠は家康が三年前に信康を自刃させた事件について聞いていた。信忠と信康は同世代で、信忠を見ていると家康はつい「次郎三郎じろうさぶろう(信康)が生きていれば」を思うのだという。


 ──次郎三郎は世間で言われるような、悪辣な男ではありません。あいつは素直で人が良かった。周囲の者に好かれる性格で、本人も周囲の者に対し、自分にできることはないか、常に考えていました。


 ──次郎三郎の素直さが裏目に出たのです。あいつが「こんなことをしては、危ないんじゃないか」と確認しても、周囲の者たちは「大丈夫です」「うまくいけば、御父上のためにもなります」などと自分たちに都合のいい言葉だけ吹き込み、危険リスクは次郎三郎に押し付けた。絶対に許さん。いつか後悔させてやる。


 ──次郎三郎の件で吉法師アニキには無理をお願いしました。本当に悪いのは家臣団てした統制シツケできなかった私です。ですが、私が隠居してすむ話ではもはやなかった。家中を引き締めねば、徳川家はバラバラになる。そこを汲んでいただき、織田家からの断れない命令という形で、我が子に腹を切らせました。


 ──次郎三郎と私が仲が良い親子だったかは、わかりません。私はあいつを大事に思っていた。あいつも、たぶん、そうであったと思いたい。ですが……私たちは、それを言葉にすることをおこたった。もっと会って話をしていれば、こうならずにすんだかもしれません。後悔といえば、それだけです。


 本能寺に到着した。

 おとないを告げ、中に入る。信長の近習の何人かが驚いた顔をする。

 やはり、動いて正解だったと信忠は思う。信長が周囲にどれだけの話をしたかは不明だが、すでに信長の周辺は光秀を粛清することを知り、動き始めている。

 信忠が明日まで決断を伸ばせば、明智家京屋敷が兵に囲まれていたはずだ。

 権力者の親子喧嘩は、必然として双方の家臣を巻き込む。そして家臣の知りうる情報は狭い。ひとたび暴力の連鎖が始めれば、主君でさえ家臣を止めることはできない。

 信長のいる西の対屋たいのやから、賑やかな声が聞こえる。

 信忠は、明るい声と表情を作り、中に入った。


「父上! 名物開きの茶会は、もう終わりましたか」

「信忠か」


 信忠が乗り込んだ時には、酒食を並べての宴会が始まっていた。


「見ての通りよ」


 信長の表情は明るく、声は甲高く、瞳は暗い。


「や。これはどうもご相談したきことがあり、まかしました」

「そうか。おい、信忠の膳をだせ」


 信長の隣に、信忠の膳と席が用意される。

 集まった公家の視線が、信長と信忠の親子に、ねとりと集中する。

 何代も京で暮らす公家たちの情報網は侮れない。ここにいる公家の半分くらいは、妙覚寺に滞在中ということに「なっている」信忠が本能寺に来ていることをいぶかしんでいるはずだ。残りの半分は、そこまでは知らずとも、他の半分の公家たちの様子から、信長信忠の親子に何かあると考えている。

 信長は内心で苛立っているだろうが、公家に観察されていては静かなものだ。


(父上には申し訳ないけど、こうでもしないと話もできずに、追い返されるからな)


 信忠は、如才じょさいなく公家とやり取りをしながら、宴会を乗り切る。

 信長は、静かに食事をしている。静かすぎるほどだ。公家や信忠が話をふっても、最小限の受け答えだけで終わらせる。


(父上……怒ってない? いや怒ってる? どっちだ?)


 奇妙な空気のまま食事が終わり、公家がお愛想のように「これからあちらで本因坊ほんいんぼうの対局がございますが」と誘うも、信長は無反応なまま立ち上がり、部屋を出ていった。信忠が代わりに「ぼくは父と相談がありますので」と断って追いかける。


「……なぜいる。お前には住吉大社にいるようにと命じたはずだ」


 人払いをした一室で、信長が信忠を叱りつける。


「はい。ですが父上。さすがに今回は説明が必要ではないかと」

「なんのだ?」

「光秀です。あの忠臣が謀反を起こすとは信じられません。何かの間違いでは?」


 信忠が言うと、信長はうなずいた。


「お前がそう思いたいのはわかる。わしも間違いであればと何度も思った」

「証拠があるのですね」

「うむ。三職推任さんしきすいにんを覚えておるな」

「もちろんです」

「あれが朝廷にとって、受け入れがたいものであることもわかるな」

「はい」


 武力も財力もない朝廷が権威を維持できているのは、前例踏襲を徹底しているおかげだ。

 関白、太政大臣、征夷大将軍のいずれも、前例からすれば信長が推任されてよいものでは、ない。


「わしが奉行を通して三職を求めたのは、朝廷でこれが問題となり、誰が賛成し、誰が反対するかを見極めるためよ。ところが結果はどうだ。帝と皇太子が揃って女官を送ってきた」

「そうですね」


 話が見えなくなり、信忠は相槌だけを打つ。


「つまり、織田家に対する陰謀を企む者は、わしらに気づかれることなく帝と皇太子を動かせる力を持つのだ。京の奉行衆に気づかれぬままそれができるのは、惟任これとう日向守ひゅうがのかみ、あやつだけよ」

「……んんっ?」


 信忠は、どこかで信長の話が飛んだのではないかと疑った。

 頭の中を整理する。


「父上。わざわざ朝廷が揉めそうな関白、太政大臣、征夷大将軍の三職を要求したのは、揉め事を通して、織田家への陰謀を浮かび上がらせるため、ですよね」

「そうだ」

「でも、揉め事は起きず、即座に帝と皇太子が動いて勅使が派遣された」

「そうだ」

「手際の良さから、光秀の仕業に違いないと」

「そうだ」


 信忠は、信長の顔をまじまじと見る。

 冗談を言っている顔ではない。


「父上……三職推任のために帝と皇太子を動かせる人物は、もう一人おります」

「なに?」

「その男は、光秀より、よほど上手に朝廷を動かせます。朝廷は、どれだけ不満があろうが、その男の意に逆らうことはしません」

「信じられぬ」

「いいえ。本当です。それだけの実績と恐怖を、その男は朝廷に対して築き上げてきました。鮮やかに上洛して三好勢を京から追い払い、比叡山を、上京を焼き、朝倉浅井を滅ぼし、自らが担ぎ上げた公方を追い払い、石山本願寺を下し、甲斐武田家すら滅ぼしました。この日本ひのもとに、その男に逆らえる者は、もうおりません」


 信忠は膝を詰めた。


「その男の名は、織田信長です」


 武家伝奏から三職の話を聞いた帝と皇太子(ツートップ)が即座に動いて勅使を派遣したのも当然だ。自分たちが積極的に信長の任官を認める姿勢をみせねば、信長の考えていた通り、朝廷が揉める。


「父上。この陰謀の犯人は父上なのです。帝も、皇太子も、あなたに恐怖して、前例のない三職の話を推し進めたのです。光秀が出る幕はないのです」


(いける!)


 信忠の心に、この日、初めての高揚が湧き上がる。

 信長を論破し、光秀の粛清という考えを捨てさせ、すぐに明智の京屋敷にとって返して、プリプリ怒る金造をなだめすかし、光秀への御所巻の命令を撤回して──


 能面のうめんのように硬い顔で信忠を見ていた信長が、くるりと背を向けた。

 うずくまり、耳を塞ぐ。

 頑是がんぜない、わらべのように。


「え? 父上?」


 信忠は驚いて信長に手を伸ばす。「あああああああああ!」信長が叫ぶ。


「父上! しっかりしてください! 父上!」「あああああああああ!」


 誰かを論破しようとする者が、忘れがちなことがある。

 論破に成功しても、相手の考えを変えることはできないということに。

 論理が破綻している。根拠が薄弱である。それは結果であって、原因ではない。

 破綻した論理であってもいい。薄弱な根拠であってもいい。

 そう「信じたい」相手の心が、目をつぶらせ、思考をにぶらせているのだ。

 相手の心が、そこまで追いつめられていることこそが原因で、原因を取り除かねば、論破には何の意味もない。


「父上! 聞いてください!」「あああああ!」


 信長の甲高い声に、人払いされていた小姓たちが部屋にはいる。


「上様! どうされました!」

「若様、これはいったい?」

「いや、ぼくにも何がなんだ──」


 灼熱の感触が、信忠の下腹部にあった。

 鮮血が飛び散る。ふすまに真っ赤な模様が走る。

 信忠の足がもつれ、床に膝をつく。


「あ──」


 立ち上がろうともがく信忠に、小姓たちが駆け寄る。

 信長は焦点を失った瞳で、その様子を見ていた。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
[良い点] ネット上の惨状を見てると、論破についてはホントにその通りだなあと。今も昔も人間は変わってないって事かもしれませんが。 [一言] 信忠がこの状態だとすると自分が泥を被るつもりだった本能寺は一…
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