44:御所巻
天正十年(1582年)六月朔(1)日。
前日に本能寺に着いた信長は、公家や寺社に使いを出した。
安土から持ってきた名物茶器をお披露目する茶会を催すので参列を願う内容だ。
「前右府が何を考えておるかわからぬが」と勧修寺家で。
「悠揚迫らぬ態度をみせようとはしておるな」と近衛家で。
「三職推任の件、気にはしておるのか」と甘露寺家で。
「四国征伐のこと、聞けるやもしれぬな」と一条家で。
「妻が書いた和歌をここへ。前右府に渡しておこう」は二条家。
「兄ちゃんも行くかな? じゃ、行かないとね」は九条家だ。
信長からの秋波とも取れる茶会への誘いは、京の公家たちに、ほどほどの安堵を持って受け入れられた。茶の湯や連歌、蹴鞠などの文化的行事を通して権力者と顔をつなぎ、名を伝え、何くれとなく話ができる空気を作り上げておくのも、公家の仕事である。茶会の誘いに承諾し、本能寺に使いを返した。
例外は吉田神社の神祇大副、吉田兼和(兼見)である。前日に入洛する信長を山科まで迎えた兼和は、茶会には出席せず、神事に務めていた。
これは嘘ではないが、理由のすべてではない。兼和が日記などに記録する時によく使う手だ。
兼和が本能寺に出向かなかった本当の理由は、明智家京屋敷から訪問客があったためだ。
訪問客とは、従三位織田左近衛中将信忠である。兼和とは十年来の馴染みである明智家勝手方、秦創金造が供をしている。
表向きは妙覚寺に滞在中であり、本当は信長の命で住吉大社にいるはずの信忠を前に、兼和は困惑を隠せないでいた。
「前右府と、惟任日向守の離間にございますか……いや、正直、まったく心当たりが……」
「あからさまなものでなくともよい。父上が何か疑念を抱きそうなことがあれば、なんでも言ってくれ」
「そう言われましても……あの……これ、どこまで空言なんでしょう?」
兼和は、文字で記す時こそ飾ること多いが、心根は素直で敬虔な人物である。だからこそ、光秀が友と頼む。
「すべて事実です。神祇大副様」
「ええ……」
「それも、かなり緊迫している。昨日。住吉大社のぼくのところに、父上から書状がきた。西へ向かう明智勢の動きが怪しくなれば、四国征伐軍の指揮権を掌握の上、すぐに街道を封鎖せよと書かれていた」
「ええええ……」
「兵乱となれば、京がまたしても焼かれることになるかもしれん。もしそんなことになれば、天下一統は遠くなる」
「ええええええ……」
気の毒だとは思うが、金造と信忠は兼和を脅し、追い詰める。
兼和は、情報の断片から、隠されている綾を透かし見る才に長けている。
今は情報が少しでもほしい。
光秀と同じ側に立つ金造と信忠では見えないものを、兼和に見てもらいたいのだ。
「父上が、ここまで強行に進めるからには、父上には惟任日向守の謀反を疑う何かがあるのだ。そこを掴まねば、父上を説得できぬ」
「んんんん……」
兼和は記憶を遡る。
兼和は信長とも光秀とも会って話をすることはあるが、互いに立場はわきまえている。光秀が信長の悪口を言ったことなどないし、信長が兼和に光秀のことを聞くこともない。
そも、光秀曰く「家臣としての最大の悪」は「主君の信任を得られぬこと」だ。特に光秀は越前の牢人あがりの中途採用の幕臣で、さらに転職して織田家に仕えている身である。太田道灌のように、自分のやりたいことを最優先して家中を引っ掻き回した挙げ句に「当方滅亡!」とぬかしてよい身ではない。
己の才や実績を鼻にかけて勝手すること。
他の重臣や、与力となった国衆の面子を潰すこと。
光秀は、細かい気配りをもって、そのような事態を避けてきた。
それどころか、必要とあらば信長や宿老たちの代わりに泥をかぶる役すら、光秀は引き受けた。
そこまで気配り上手な光秀が、信長に疑われるようなことなど──
「……んんっ?」
兼和は思考の手綱を握って止めた。
信長に、光秀の忠義はどう見えるだろう。
若い頃の信長であれば、光秀の滅私の奉公を当然と受け取ったかもしれない。
年齢を重ねた今の信長は、どうだろう。光秀の忠義が重くなってないだろうか。
兼和にも覚えがある。親である兼和の、愛情をこめた家庭内教育が、息子の兼治にウザがられる。昔はあんなに素直だったのに。
人は変わるものだ。光秀は昔と同じように行動していても、受け取る信長が昔と同じように受け取らないことはあろう。
「惟任日向守の無私の忠誠に疑いはありません。ですが、それがかえって前右府様の疑念を呼び寄せたとは考えられませんでしょうか。ここまで忠を尽くすからには、何か裏があるのではないかと」
兼和の指摘に、金造と信忠は顔を見合わせる。
「つまり、不満を抱いて当然なのに、そうしないのはおかしいと?」
「はい」
「んん~~金造、なんか覚えある?」
「……ひょっとして、四国征伐かもしれません」
「四国征伐?」
「もしかして、長宗我部家との取次をなさっておられる、内蔵助殿のことか」
兼和が割って入る。
「はい。内蔵助殿は、縁故もあって土佐侍従殿との取次を任されておりました」
「だが、四国征伐で父上は笑岩殿に三七を養嗣子に入れ、三好家を継がせることになった」
「家臣の内蔵助殿が、外交方針の変更で面子を潰されたということですな」
「いや、それが微妙に違いまして……説明が難しいんですよ。あのヒトが絡むと」
内蔵助こと斎藤利三は才人である。
才を頼む人にありがちな狷介なところがある。
土佐侍従こと長宗我部元親とは、『古今和歌集』選者の紀貫之が書いた『土佐日記』の解釈違いで激しくやりあって、結果として仲を深めている。
「利三は、四国征伐で父上に恨みはないの? そこが大事なんだけど」
「まったく、これっぽっちも、ないですね。もちろん、土佐侍従に親しみはありますし、首を切られたら丁重に弔うでしょうが、それだけです」
「なるほどね」
「あ、もうひとつ。もしも嫡男が助命されたら、利三殿は強引にでも引き取って育てると思います」
「ああ、そういう気性なんだ」
「はい。前にも五郎左殿から、拗れてないかの確認の文が送られてきて、光秀様が説明に難儀されてましたから」
利三と元親の関係は、これまでのやり取りの説明が難しい。利三だけでなく、元親についても長々と説明しなくてはいけないからだ。
光秀が信長に問われても短い時間であれば「……まあ、特に問題はありません」くらいしか言えないだろう。
五郎左こと丹羽長秀は、四国征伐の実行面での管理責任者であるから、長宗我部元親という人物について詳しく知っておかねばならず、どこからどう説明するかで光秀も悩んだわけである。
「細かい上に、説明してもうまく伝わらないわけか」
「ただ、細かいところが気になる信長様は、疑念を抱かれたかもしれません」
「うん。でも、それだけで謀反の証拠につながるかというと……」
「……ありえませんよね」
兼和が大事なことを確認した。
「このこと。日向守は?」
光秀は毛利攻めの準備で、丹波亀山城に一万の軍勢と共にいる。
予定では明日、明智勢は大坂に向かう。信長が光秀だけを京に呼び寄せるのは、さらにその一日後の六月三日か。西へ移動中の軍勢から光秀だけを切り離す絶好の機会だ。
「すでに使いを走らせております。明日には京屋敷に来られるかと」
「それはよい。そのまま本能寺に向かい、前右府殿と直にお話をなさるがよいと思います。すぐに誤解も解けましょう」
「そうですね。そうであってほしいと思います」
「……」
金造は頷いたが、信忠は無言のままだ。
結局、吉田神社では信長説得の手がかりは得られなかった。
二人が明智家京屋敷に戻ると、光秀からの使いと書状が届いていた。
金造が開き、後ろから信忠が覗き込む。顎の先が金造の肩に食い込む。
「光秀様は、今夜のうちに移動を始めるそうです。明け方には京の近くを通るので、光秀様だけ軍勢から離れて京屋敷に来られます。ここで衣服を整えた後で、本能寺に向かわれるそうです」
「……」
「信忠様のことも書かれてますよ。今日のうちに大坂の住吉大社に戻られた方がいいって。今回の件で、勝手に動かれたことが信長様にバレちゃうとまずいと」
「……」
「あの、信忠様。肩が痛いです」
「……」
信忠はいつになく真剣な目でつぶやいた。
「……光秀は、死ぬつもりだ」
「え」
「京屋敷で衣類を整えるのは、死に際に見苦しくないようにするためだ。光秀の価値観からすれば、父上に謀反を疑われただけでも、腹を切る理由になる」
「ですが! 殿は無実です!」
「天下人の決定に、無実であるか否かは関係ない。父上には、佐久間信盛に折檻状を出して追放した前科がある。信盛のように高野山に追放されるくらいですめばいいけど、此度の一件はそれではすまないよ」
「そんな……あんまりです」
織田家に尽くし、心を配った果てが、冤罪による賜死では報われない。
「何か信長様を止める手はないのですか」
「父上を説得する手はない。そもそも、どこで誤解してるかがわからないんだから」
金造の肩にのせていた顎を持ち上げ、信忠が言う。
「だけど、父上を止める手はある……あるんだ」
言葉ではなく武力で。軍勢を使って。
信忠は、何かを確かめるように拳を二度、三度と握った。
目を閉じ、天を仰ぐ。
ため息をつく。
信盛が追放された時の無力を思い出す。
流した涙と、誓った言葉を思い出す。
──ぼくは父上を継いで天下人になるよ。
あれから二年がたった。
今こそ、あの誓いを果たす時だ。
高揚はない。それどころか、奈落に落ちるような不安で胸がムカつく。
こうなるとは思ってなかった。準備なんかしていない。
根回しも何もしていないから、誰がついてきてくれるかわからない。
たとえ成功しても、傷痕は一生残る。
生涯を、後ろ指をさされ続けることになる。
後の歴史書に、信忠の所業はこう書かれるはずだ。
『天正十年(1582年)六月二日。上洛して本能寺に滞在中の織田信長を、織田信忠と明智光秀の軍勢が取り囲んだ。これは本能寺の変と呼ばれる。父から権力を簒奪した信忠は、反抗する家臣や親族衆を粛清し、恐怖政治を敷く』
(おお、もう……そんなことになったら、たとえ成功しても光秀は腹を切っちゃうよ。もう数日、様子を見てからでもいいかな……父上から次の命令を待って……いやでも、それだともう手遅れに……)
「信忠様?」
弱気に襲われ、保留を選ぼうとした信忠の耳に、金造の声が届いた。
信忠を信じ、案じる声だ。一緒に涙を流し、一緒に誓った同志の声だ。
信忠は、大きな、長い、ため息をついた。
「……はああぁああああ」
「突然止まってしまわれるから、心配しました」
「うん。自分の弱さを再確認してただけだから。あ、紙と筆を借りるね」
自分を含め、他の誰を裏切ったとしても、金造を裏切ることはできない。
信忠は、光秀宛の書状を書く。
綴られる内容に、金造が息を呑む。
『六月朔日 申刻 明智京屋敷』
『父、織田前右府信長は、錯乱状態にあり』
『天下の権、遂行すること能わず』
『惟任日向守は、軍を率い京へ向かえ』
『京へ通じる街道に関を構えよ』
『本能寺を囲み、封鎖せよ』
『何人たりとも、本能寺から出ることを許さず。解囲の動きはあらゆる手段を用いて阻止せよ』
『このこと、織田三位中将信忠が命じる』
『猶、本能寺の塀の内より打ち掛けられた場合、制圧射撃を許す。突入は許さず』
本能寺を囲み、御所巻を命じる内容だ。
「謀反の企みはないと父上を説得することができないなら、謀反を本当にしてしまえばいい。でもそれをやるのが光秀ではだめだ。織田家の嫡男で、次の天下人として父上も認めたこのぼくだ。ぼくが謀反を起こし、ぼくが父上から権力を奪う。明智の皆は、ぼくに命じられてやるだけだ」
「あの……」
「こんなことして大丈夫ですか、なんて言うなよ。ぼくだって不安だし、心配だし、書いているこれ、破り捨てたくてたまらないんだから」
「では、一言だけ。ありがとうございます」
信忠の筆が止まる。「どういたしまして」花押を記す。
「金造、この書状を亀山城の光秀に送って。出発前に届くはず」
「はっ」
信忠は、バタリと床に大の字に寝転がった。
「御所巻は一日で終わらせるつもりだけど、何か拗れて数日かかり、変の知らせを受けた弟たちが父上を救おうとする可能性もある。最悪、京を捨てて父上を拉致したまま亀山城か坂本城に一時撤退することになるかもしれない。とにかく、父上の身柄を確保しておけば、後はなんとかできるから」
「帝はどうします?」
「放置! こんなドタバタで始めた御所巻じゃ、帝まで手が回らない」
「わかりました。兵糧の輸送や、関所の資材の準備をします。信忠様は?」
床の上に大の字に横になったままの信忠に、金造が聞く。
「ちょっと休憩。頭の中が煮えてて冷静に考えられない」
「白湯を持ってこさせます」
「ありがとう」
パタパタと金造の足音が遠ざかっていく。
(……悪いね、金造)
御所巻が始まれば、信長が本当に錯乱状態なのかどうかは、二の次、三の次だ。
信長のすべてが「そういうこと」にされてしまう。
信忠だって「あれはなかったことに」とは言えなくなる。
療養という名目で幽閉し、死ぬまでそのままだ。誰にも会えない。会わさない。
だから、信忠はどうしても今のうちに信長に会う必要があった。
(父上の存念、ぼくが確かめなきゃ)
本当に「そう」なのか。
それとも「そうでない」のか。
信忠は目を開き、起き上がる。日はだいぶ西に傾いている。そろそろ暮れ六つの鐘が鳴る頃合いだ。
「本能寺へ向かう」
信忠は、わずかな供回りと明智家京屋敷を出た。