43:天正十年五月二十九日
天正十年(1582年)五月二十九日。
二十人ばかりの供を引き連れ、信長が本能寺に入った。
「前右府のご上洛でおじゃるか」
「はて。前右府は右馬頭を攻められると聞いておりましたが、それにしてはずいぶんと人数が少のうおじゃるな」
「ほんに。山科までお出迎えにいかれた神祇大副殿は、なにかご存知であろうかの」
目の前で会話をしながら、ちらとこちらに視線を向ける公卿たちに、神祇大副こと吉田兼和(兼見)は「ほほ」と上品な笑みを返した。
二人の公卿は、たまさか吉田神社を訪れた体を取ってはいるが、もちろん、そんなことはない。ここで兼和が口にした文言は、この二人を通して一両日中に洛中に拡散される。
その情報の源流に自分がいることを、兼和は卜部氏の嫡流として快に感じる。
「そういえば。お会いした時、前右府様は、ずいぶんとご機嫌でしたな」
「ほう」「ほっ」
あえて小声で口にすると、公卿たちが目をギラつかせ、顔をずい、と近づけた。
「引き連れた馬と籠には、名物茶器がたん、と積まれておるご様子で」
「むむ」「むっ」
一言も聞き漏らすまいと必死の形相だ。
「右馬頭との戦については、すぐに終わるので心配無用と闊達に申されておりました。すでに手は打っておられるご様子で」
「なんと」「おお」
「それと……」
兼和が口ごもると、二人はさらに顔を近づけてきた。
「……武家伝奏殿からお話のあった件については、西のことが終わった後で、とのことでしたな」
公卿二人は無言で視線をかわすと、兼和に丁寧に挨拶してから、速やかに去っていった。
本当に知りたいことを聞き出したとたん、興味ありげに合いの手を入れる所作すら消えてしまうあたり、朝廷で生きる者の本音と建前がよく出ていた。
兼和が観察していると、公卿が乗る牛車が吉田神社を出る前から数人の舎人が散っていくのが見えた。その一人の顔に見覚えがあった。帝にも仕えている者だ。朝廷の儀式はそれぞれに人数が定められているが、各家で規定人数を常に揃えるのは負担が大きい。舎人の多くは複数の公卿に仕え、使いまわしされる。それを利用して、情報の共有を図っているのだ。
(前の勅使は、帝の権威を毀損する形になってしまったからな)
天下一統が目前となった信長が、朝廷とどのような関係を結ぶつもりなのか。今の朝廷の関心事は、ここに尽きる。前例がないという無理があっても、多少ならば目をつぶる覚悟だ。だからこそ、三職推任のような本来はありえぬ話を、帝と皇太子の女官を随伴させる形で勅として承認しようとした。
なのに、最初に話を持ち出したはずの信長に断られてしまう。信長が何を考えているかわからぬと、朝廷は周章狼狽となった。
(信長という男には、そういうところがある。他者をわざと驚かせ怒らせ、その反応をみて心根を測るのだ。家督を継いだばかりの時や、京で山門や公方と対立し、周囲が敵か味方かわからぬという時には必要なことであったかもしれんが……今になっても続いておるのは、天下人としてどうなのか。いや、だからこそ天下の主になれたというべきかもしれんが……このままでいけば、三筑の二の舞ぞ)
三筑こと三好長慶は、京の者たちにとっては「信長の前の天下人」である。強い警戒心を保ち続けて天下の主となったが、晩年には警戒心が過ぎて猜疑心の塊となり、三好の天下を自らの代で終わらせることとなった。
(警戒心なくば天下の主は務まらぬが、猜疑心が過ぎれば天下の器を壊す。秦の始皇帝。漢の劉邦。貞観の治の太宗もそうであった。我が日本もそうであるな。清盛も頼朝も尊氏も、常に周囲を警戒し、粛清を繰り返して天下人になった。なにも三筑や信長だけではないわ)
器を壊さず天下を維持するには、天下人の方を入れ替えていくしかないのだ。
その意味で、信長の息子の信忠が立派に成長していることは、天下の民にとって幸いであると、兼和は考えた。戦も乱もなく、天下が継承されるのだから。
だが──
そうはならなかったのである。
この三日前。
五月二十六日。
明け方、坂本城を八千の兵と出発した光秀は、丹波亀山城へと向かった。
明智秀満に率いられた軍勢は、下京のさらに南を大きく迂回する道をたどる。途中で一泊し、翌二十七日に丹波亀山城に到着の予定だ。
丹波亀山城では、斎藤利三が四千の兵を準備して待っている。
合流すれば明智軍は一万二千だ。
万が一、秀吉の調略がうまくいかずに毛利との講和が破綻しても、羽柴軍と組んで力押しが可能な数となる。
山科で南へ迂回する軍勢と分かれた光秀と金造は、まっすぐ明智家京屋敷へと向かう。
「毛利との戦の再開、ありえることなのでしょうか?」
「ありえるな」
金造の問いに、光秀は機嫌よく答える。
「織田にはかなわぬ。だから東は捨てて西に向かう。上の輝元は割り切っていても、これまで東に関わっていた下まで同じ気持ちとは限るまい。どこかで和議が崩れれば、元の木阿弥になろう」
「では、やはり兵糧の準備がいりますね」
「うむ。備中高松城を包囲中の軍勢に我が軍が加われば、三万近い数となる。四国征伐が一段落つくまで水運はほとんど使えんだろうから、兵糧は陸路で支えねばならん」
「中国方面軍との役割分担が必要となりますが……おそらく小一郎様の糧道を補強して使う形になります」
「小一郎殿……ああ、羽柴殿の弟君か。あそこは一族のほぼ全員が文武両道だからなぁ。親族も有能揃いで羨ましい限りだ」
「公家の方とお話すると、よく羽柴筑前守が元は農民の出というのは本当かと聞いてくるんですが、なんなんですかね、アレは」
「筑前守の持ちネタだよ。京奉行で貴族の方と雑談する時、他の武家は、たいてい先祖が家柄がいいという話を持ち出すんだが、筑前守は逆に農民の出で押し通したんだ。目新しくてウケがいいんだ。本当は血筋でいえば、木下家は我が明智家よりいいくらいなんだけどな。まあ、本人もまさかここまで出世することになるとは思ってなかったんだろう」
「一族の全員が読み書きできる水呑み百姓とか、どこのおとぎ話かと」
光秀と金造が明智家京屋敷に到着すると、妙覚寺より使僧がきていた。信忠が二人に相談したいことがある、というのだ。
明智家京屋敷から鴨川を渡って北西にある妙覚寺は、織田家の二条御新造に代わる、織田信忠の常宿である。二条御新造は、信長から信忠に、そして皇太子へと譲られている。
寺の奥へ案内される。
枯山水の庭が見える座敷の縁側で、信忠は腕組みをしていた。
案内された光秀と金造が入っても、じっと庭を見ている。
「左近衛中将におかれましては、ご機嫌麗しゅう……なさそうですね」
「うん。ない」
「どうされましたか」
「父上から文がきた。そこに置きっぱなしになってる」
信忠が、難しい顔で庭を見たまま言った。部屋の奥の床に、書状が広げられている。
光秀と金造は顔を見合わせ、書状を見る。信長の字だ。
読む。
「注進、二十五日、未刻到来」
信忠からの報告書を、二十五日の午後に受け取ったという書き出しで始まっている。
光秀と金造は続きを交互に読み上げる。
「三職推任について、朝廷への取りなしは不要」
「この書状を受け取り次第、密かに京を離れ、住吉大社へ向かうよう」
「どこかで乱か連絡があり次第、速やかに四国征伐軍を掌握せよ」
「猶、この書状は誰にも見せてはならぬ……信忠様っ!」
金造が憤然として声をあげると、背中を向けたままの信忠が「ぷすっ」と笑った。
「ごめん。でも、ぼくから誰かに読ませるわけにはいかないし。うっかり転がしたまま忘れちゃってて、勝手に読まれたという形にするしかなかったんだ」
「もう。そんなことだろうと思いましたよ」
信忠の謝罪に、金造がふくれっ面になる。
光秀は、かつての自分と金造のやり取りを見る思いで、微笑む。
そして顔を引き締め、信忠に向き直る。
「ですがこの内容であれば、信長様が誰にも見せてはならぬ、というのもわかります。信長様は、どこかで乱が起きることを想定されています」
「うん。どこだと思う?」
「わかりません。が、この書状の内容なら、我が明智勢に亀山城を出た後は西に向かわず、ひとまず大坂を経由せよと命じられたこととも一致します」
「え、そんなことあったの? 聞いてないよ、ぼく」
「今朝になって信長様から坂本城に書状が届きました」
信忠は考え込む。
「四国征伐の軍は約一万。明智勢は一万二千だよね。合計すれば二万を越える。けっこうな数だよ、これは」
「問題はどこで乱が起きるか、ですね。可能性があるのは、やはり東でしょうか」
「征服して間もない甲斐信濃での、大規模な一揆か……いや、それだけだと、ここまで隠すことないよね。ぼくや光秀に相談してくるはず」
「はい。我らに隠していることと合わせて考えるに、疑念はあれど確信がなく、また面倒になりやすいことではないでしょうか。可能性の話ですが、関東の北条が織田を裏切り、甲斐信濃に攻め込んでくる情報を入手したとも考えられます。あるいは、洛中で何か変がある場合とか」
「ありえるなー。金造から、父上が一人で金平糖の壺を抱えてボリボリかじって悩んでると聞いたから、何かあるとは思ってたけど」
「はい。すべて信長様の勘違いという可能性も否定できなくはないのですが。金平糖の壺を抱えてボリボリとか、面白すぎますし」
信忠と光秀が、チラと金造を見る。
金造はムッとするが、日を置いて考えてみると、あの夜の信長の姿には、どこか諧謔味があった気がしてくる。
いずれにせよ、金造は二人に自分の見たことの報告はし、相談もした。明智家の勝手方としての役目に戻る頃合いだ。
「そんなことより、殿」
「なんだ?」
「なんだい?」
金造の今の主と、未来の主が同時に返事する。
わかってからかっているのだ。
「……つむじまで薄くなってる方の殿です」
「わあっ」
「えっ、そうなんだ」
「もしも乱が起きた場合、毛利との講和、破綻する可能性があります」
「そうだな」
「我が明智勢が丹波を西に向かう想定で準備していた荷馬と馬草があります。これを利用して小荷駄を編成し、兵糧を丹波から姫路城に運び込んでおきたいのですが。許可をいただけますか」
「そうか、それがあった」
上から覗き込もうとする信忠を避けつつ、光秀が真面目に答える。
「四国征伐軍と我が軍がどちらも東国へ向かうとなれば、毛利勢が攻めかかってくることも十分に考えられるな」
「兵糧を姫路城に確保しておけば、羽柴殿と中国方面軍なら不慮の事態があった場合でも、対応できると思います」
「わかった。わしからも書状を筑前守に送る。信長様から信忠様への書状の内容は伏せるが、状況証拠だけで見抜いてくれるだろう」
信忠は、置きっぱなしになっていた信長からの書状をたたみ、懐にしまった。
「じゃあ、ぼくは父上の命に従って、こっそり大坂に行ってくるね」
「信忠様。行動を秘匿されるのでしたら、安土城に書状を出して、しばらく京にいることにしたと伝えてはいかがでしょう」
「ぼくがそんな書状を出したら父上が混乱しない?」
「信長様宛ではなく、小姓の……そうですね。森の三男殿に出すのです」
天下人である信長の小姓であれば、信長周辺のスケジュール管理も仕事となる。
京に信忠がいる、という書状を小姓宛に送っておけば、小姓に接触できる者から周囲に信忠在京の欺瞞情報が伝わる。
「乱ちゃん宛か。うん、わかった。寺の者にも、ぼくがここにいるよう振る舞うように、言っておくよ」
妙覚寺を出た後、光秀と金造は明智家京屋敷へと戻った。
「わしは明日、亀山城へ向かう。合流して大坂に向かうのは、六月二日になる。金造、おぬしは京屋敷に残って山陽道を進む場合の糧道の調整をしてくれ」
「おまかせください」
そして──
五月二十九日夜。
仕事をしていた金造は、灯火に炙られパサついた顔をあげ驚愕した。
「……え? どうしてこちらに?」
よほどに急いできたのか。
裾を泥だらけにした信忠が、青白い顔をして立っていた。