41:ただ理性のみにて
天正十年(1582年)五月十七日。
信長は、安土城の天守閣最上層で西に向かう船を見送った。
船には光秀が乗っている。西方作戦の準備で、坂本城へ向かうのだ。
遠ざかる船を見る信長の瞳は、深く黒く、沈んでいる。
信長の隣で、ブンブンと大きく手を振る信忠が、あえて楽しげに話しかける。
「いよいよ、毛利攻めですね。父上」
「羽筑が手を回しておる。和議が成立すれば、そのまま毛利を先鋒に、九州まで向かう」
羽筑は、羽柴筑前守を縮めた呼び名で、秀吉のことだ。
前の筑前守であった三好長慶が三筑と呼ばれていたことからつけた。
秀吉は毛利攻めの最前線で戦い続け、今は備中高松城を水攻めで囲んでいる。
「父上。秀吉の調略を疑うわけではありませんが、毛利は輝元の本軍に、吉川、小早川の両川を揃えた主力が後詰できていると聞きます。乾坤一擲で立ち向かってくる可能性もあるのでは」
「ない」
「ありませんか」
「輝元が叔父二人を連れておるのは、毛利が一族揃って織田に降ることを天下に知らしめるためよ。この手間を省けば、家中の有象無象がいらん気を回す」
「いらん気を、ですか」
「下におる者ほど、上の顔色を伺って生きておる。二ヶ月前と同じだ。下の者は上の腹を勝手に忖度して、しかも自分の都合に合わせるのだ」
「二ヶ月前……ああ。小山田信茂の裏切りですね」
二ヶ月前。
勝頼は、諏訪にある上原城にいた。
弟が守る信濃高遠城をわずか一日の戦いで奪われたと知った時、勝頼には三つの選択肢があった。
一、抗戦。新府城で籠城するか、各地を転戦してゲリラ戦を行う。
二、逃走。真田昌幸の上野岩櫃城まで逃げる。
三、保留。ひとまず小山田信茂の岩殿城に入る。
一は、祖父の信虎が今川氏との戦いで行った行だ。
二は、同盟国である上杉景勝の越後まで逃げることを視野に入れている。
三は、とりあえず安全そうな場所に逃げようというものだ。
勝頼は三を選んだ。まず小山田信茂が先行して勝頼一行の受け入れと籠城の準備を行い、その後で勝頼が女子供を連れて避難する手はずである。
ところが勝頼一行が小山田領に入ろうとすると、関所は閉ざされていた。
「むろん信茂に、勝頼と共に死ぬまで忠を尽くす義理はなかったろう。城に入れて籠城の格好だけ整えたら降伏したはずだ。それなのに勝頼を領内にすら入れなかったのは、信茂の意に反しよう」
「ぼくが信茂に詮議したところ、己の不徳とのみ答えました。不審に思って小山田家中の者に事情を聞いたのですが、誰に聞いても、あの関を誰が守っていたのか、何があったのか、自分は知らぬとの返答でした」
「で、あるか」
吐き捨てる口調だった。
武田滅亡の最後に起きた醜悪な裏切りを、信長は嫌った。
信忠は、情状酌量の余地なしとして信茂を成敗した。
「家臣の誰ぞが信茂の意を勝手に汲んだだけでなく、信茂が処罰されそうになったとたん、全員が知らぬフリか。信忠よ、そなたは、知らぬ存ぜぬと返答した連中の首も切るべきであったな」
「そんなことしたら、ぼくが近づいただけで、みんな逃げちゃいますよ」
信忠は、冗談めかして言った。
信長が、冗談を言ってないと知っていたから。
「うむ。逃散されてはまずい。名のみ記し、まとめて処分すべきだな」
──このところの父上。どうも変なんだよな。
静かにうなずく信長を見て、信忠は心の中でのみ首をひねる。
怒っていても、癇癪を起こしている、という感じがしない。
天地の運行のように、自然な感じで苛烈な処罰を実行しようとしている。
信忠が幼い頃の信長は、情緒がもっと不安定だった。
嬉しい時には、手を叩いてキャホキャホと喜び。
悲しい時には、締め切った部屋の中でウーウーと唸る。
信忠の古い記憶に、添い寝をしていた信長が、いきなり閉じていた目を開き、「ケェエッ!」と叫んで部屋を飛び出していった光景がある。
──お父様はとっても、とーっても、面倒くさい人なのですよ。
そう語ったのは、まだ幼い時だったから実母だったかもしれない。
頭がよく、合理的で、情感が豊か。
──そして、現実主義者だ。
信長は、イヤな現実から目を逸らすことができない。
頭がよく、目を逸らすための理論武装はいくらでもできるのに、だ。
父の信秀から織田家の家督を継いだ信長は、イヤな現実を渋々と認める以外の選択が許されない身の上であった。
尾張国内の有力者たちは「信秀に預けてた権力、代替わりしたんで返してもらいますんで」と手のひらを返す。
織田一族内は「これだけ周囲から頼りないと思われてるのでは、当主としては不向き」と割れはじめた。
どちらも「味方になってほしかったら、今すぐ結果を出してもらいましょ。今すぐはムリ? 話になりませんな」と自分の都合だけを押し付けてくる。
──ぼくだったら、隠棲しようとして失敗し、腹を切らされてるだろうなぁ。
他人は他人の価値と理屈で動く。
これが現実主義の基本だ。他人が自分と同じ価値と理屈で動かないと、認めること。
ただし認めるのは、行動して失敗した後だ。失敗の原因を探り、修正して仕切り直すため、どこで食い違ったかを考える。そのたび、自分と他人の間にある共感がゴリゴリと削られ、こそげ落とされていく。年を重ねるにつれて信長が他者に酷薄になったのは、イヤな現実を見つめ続け、自分の心に鑢をかけ続けたせいだ。
──弟たちみたく、現実を自分とは距離のあるものとみなし、他人に不都合を押し付けてれば心は安らかだろうけど。あと、自分では行動しないし失敗もしない現実主義者もありえないよね。それ、ただの現実の追認じゃんか。
それでも佐久間信盛がいる間は、かろうじて信長の心の芯は守られていた。織田家を守るため心を削らざるを得ない信長の苦悩を、信盛は深いところで理解していた。「そんな苦労はしなくてもいい」などとおためごかしは口にせず、血反吐をはきながら進む信長を、時には叱咤し、時には励まし、三十年以上を共に歩んだ。
信盛を追放した時、信長の心の芯も切れた。
信忠は、少し前まで信盛の追放を「なんで?」と思っていたが、後で信盛の息子の信栄と話をして、わかってきたこともある。
信盛は信盛で、三十年を共に過ごした信長への甘えがあったらしい。互いの、ちょっとした掛け違いが心に負担を重ね、ついには折檻状となった。行間から怒りと不満が溢れ出す十九ヵ条は、事情を知る者には支離滅裂な内容だったが、信盛に対する信長の甘えも伺えた。
今の信長は、信盛にみせた甘えすら消えている。乾いた虚無のように、怒りをそのまま相手にぶつける。
──父上はもう、限界だ。ぼくが父の代わりに……うわあ、イヤだなぁ。天下人なんか、やりたくないなぁ。でもぼくしかいないしなぁ。
この時。
信長が何に悩んでいるか、信忠は知らなかった。
二日後の五月十九日。
安土城の城郭内に建てられた總見寺で、舞と能が催された。
信長は信忠と共に、家康と梅雪斎と見物した。
「家康殿。この後は、京、堺へ向かわれるがよろしかろう」
「ははっ」
「信忠、京へはお前が同行せよ」
「はい」
「大坂では、信澄と長秀に接待を申し付けてある」
「ありがとうございます」
能見物が終わり信長が去ると、家康と信忠は、同時に大きくため息をついた。
互いに苦笑しながら顔を見合わせた後、家康が「やっ、これは失礼」と頭を下げた。
「お気になさらず。父上の前では、ぼくもいつも緊張のしっぱなしです」
「失礼ながら。信忠様でも、でしょうか」
「はい。でも、父上の心労はよくわかります。天下は細かいところの積み重ねで動いております。細かいところを知らずして、天下は動かせません」
「天下は上からではなく、下から動く、ということですな」
「はい。家康殿の仰る通りです」
信忠がパアッ、と笑顔になる。
眩しいものを見るように、家康は目を細めた。
この青年が天下の二代目であれば、徳川も安泰ではないかと思える笑顔だった。
總見寺を出た信長が一歩を進むたび、顔から表情が消えていく。
天守閣に入ったところで、信長は通りかかった青年を見た。
青年が持つ、大きな帳簿に信長は目をとめる。
呼び止める。
「明智の者だな」
「はっ」
帳簿を持った青年、秦創金造は跪いた。
「明智家勝手方の、秦創金造でございます」
「で、あるか」
信長の視線が、月代にチリチリと刺さる気がして金造は額に汗をかく。
「甘ものはあるか」
「金平糖であればすぐに」
「持ってこい」
信長がスタスタと立ち去る。
金造は台所に戻って金平糖を用意すると、白湯を後から持ってくるように言って信長を追いかけた。
部屋の外に小姓が控えている。
金造が金平糖の入った壺を小姓に渡そうとすると、首を振った。
仕方なく、金造は「金平糖をお持ちしました」と外から訪いを告げる。
反応はない。
小姓を見ると、黙ったまま襖を開けた。
部屋に入る前にもう一度「失礼します」やはり反応はない。
諦めて中に入る。
板敷きの間に、大きな虎の毛皮が敷かれていた。
信長はその上に横たわり、大の字になって天井を見ていた。
締め切った部屋の中は、昼間でも薄暗い。
金造が「金平糖です」と言って、壺を置く。
信長が起き上がり、壺を抱き寄せ、手を突っ込む。
掌いっぱいに金平糖を握り、口へ。
ボリボリと咀嚼する音が暗い部屋に響く。
掌から溢れた金平糖が、コロコロと床に転がる。金造は手を伸ばして拾った後で、どうしようとしばらく考え、持っていた懐紙に包んだ。
ボリボリ。コロコロ。ひょい。
ボリボリ。コロコロ。ひょい。
壺の中の金平糖が空になった。
信長は壺をひっくり返し、それから手を金造に伸ばした。
懐紙を渡すと、信長は残った金平糖を口の中に流し込む。ボリボリ。ごくん。
信長は再び虎の毛皮の上に大の字に横たわった。
金造は空の壺を持ち「失礼します」と言って部屋を出た。
どっ、と背中に汗が吹き出た。
「……」
何か一言でも失礼なことを言えば斬り殺すぞ、という目で部屋の外にいた小姓が金造を睨む。
その小姓の目で、金造はようやく少し落ち着けた。
(それがしが今見た信長様のご様子は、やはり常の状態ではないのだ。そして常にひかえる小姓にとっては、よくあることなのだ。これまで公務などでご拝見した時や、光秀様や信忠様から聞く限り、普段からああではあるまい)
小姓に頭を下げ、金造は空になった壺を持って台所へ向かう。
(おそらく、気を配らねばならぬ相手が周囲にいなくなれば、ああなるのだ)
他人に向ける気配りを、すべて削ぎ落としてまで、信長は何を考えているのか。
後継者の信忠にも、宿老中の筆頭である光秀にも、相談できないことなのか。
(なんだろう。胸騒ぎがする)
明日、信忠は家康らと京へ向かう。金造も同行する。
(信忠様には、お話しておこう。光秀様にも、手紙で伝えておこう)
この時。
信長が何に悩んでいるか、金造は知らなかった。
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虎の毛皮に横たわって天井を眺め、信長は思考の迷路を彷徨い歩く。
金平糖はほぼすべてがショ糖でできている。小腸で加水分解され吸収された糖は、血液で運ばれ脳へと届く。ブドウ糖を燃料に神経細胞が化学的な火花を散らし、頭の中が鮮明になっていく。
思考は鮮明になるが、見通しは暗い。
(おかしい……誰も尻尾をださなんだ)
武田を滅ぼし、天下一統を目前にした織田家。
その織田家を害する企みは、朝廷の中にあるはず。
信長が合理的な思考の、***はてにたどり着いた結論だった。
だから京奉行経由で武家伝奏を動かし、信長への三職推任をさせた。
信長の予想では、朝廷は征夷大将軍職を信長に与えることに難色を示し、それによって隠されていた織田家を害する企みが明るみになるはずだった。
(なぜ問題にしない。今も征夷大将軍職を持つ義昭が鞆にいて存命なのだぞ。将軍職は足利家にのみ伝えられる家職の官職だぞ。先例に悉く反しておるではないか。なぜ誰もおかしいと声をあげぬ。朝廷とは、そのためにあるのではないのか)
信長からの根回しは、あえてしなかった。
朝廷の中で反対の声をあげやすいようにである。
だというのに朝廷は一致団結し、異例の速さで帝と皇太子が勅を出してきた。
(帝と皇太子すら動かせる誰かが、この企みの背後にいるのか)
信長の論理的な思考の、***はてが導き出したのは、戦慄すべき陰謀だった。
織田家を害する企みが朝廷の中に潜んでいるとしても、黒幕は別だ。
信長は毛利か上杉か北条、あるいは鞆の義昭が、黒幕だと考えていた。
だが、そのどれも、朝廷の中に張り巡らせた織田家の諜報網をかいくぐって帝や皇太子を動かすことはできない。
(となれば……認めねばなるまい。織田家中にいるのだ。獅子身中の虫が)
『あらゆる不可能を消去して最後に残ったものは、いかに奇妙でも真実である』
三百年の後。英国作家のコナン・ドイルが描くシャーロック・ホームズと同じ境地に、信長は立っていた。
(わしにわからぬよう、朝廷を動かせる者など……いるにはいる。だが、あの者にはそうする動機がない。それとも、わしが見落としているだけか)
手がかりを求め、信長は記憶を探る。
記憶はすぐに浮かんだ。二日前まで、一緒にいたのだ。そのどれも、饗応の役を忠実に果たしている姿しか写っていない。
もっと前か。いや、あった。挨拶にきた時だ。五月七日。
信長が問いかけ、あの者が答えた。
「四国。かような仕儀となった。異論はないな」
「……ございませぬ」
あの時、返答するまでに、わずかな間があった。
あったのか。異論が。
抱えていたのか。不満を。
松永久秀や荒木村重と同じように、信長に謀反を起こす覚悟を決めるほどの何かが。
四国征伐。信長が長宗我部家を切り、三好家を拾ったのは、それが織田家の利になると考えてのことだ。個人としての能力はともかく、前の天下人を出した三好家と、土佐の国衆あがりの長宗我部家では、家格が段違いだ。息子を入れ、家を継がせるのに相応しいのは、三好だ。
取次を任せたあの者の部下には悪いが、これまでだって隠してはいない。あの者も、わかってるはずだ。それとも、わかってるはずだと思っていたのも、自分だけか。
(三七に三好家を継がせ、於次に羽柴家を継がせ、茶筅丸の北畠家と合わせて、信忠を支える御三家とする。これはそなたが提案し、わしと共に進めてきた次世代の織田家の形ではないのか)
理性以外のすべてが、謀反などあり得ないと信長に訴えかける。
これまで、あの者は忠実に信長に仕えてきた。
気配りも根回しも完璧で、嫉妬も猜疑も受けず、今日まできている。
自分一代で育てた有能な家臣たちを、信忠の直臣にすべく何年も準備してきた。
嫡男が幼いこともあり、信長から信忠への代替わりに合わせて自分も隠居し、信忠の従弟の信澄に家名と家督を譲る予定だ。
そのすべてが、今この時の謀反を成功させるため、というのは、論理だけで動く機械の考えだ。
10 もし、謀反が成功しそうなら──謀反を起こす。
20 それ以外なら──忠節を尽くす。
信長の中に、理性以外を重んじる心が欠片でも残っていれば、このような考えを一笑に付したろう。
ただ理性のみ、論理のみを積み重ねた思考の、***はてに。
(それでも……それでもお前なのか。明智十兵衛光秀よ。お前が、わしを裏切るのか。わしに謀反を起こすというのか)
ただ理性のみ、論理のみを積み重ねた思考の、なれのはてに。
信長は、ついに真実へとたどり着いてしまう。
『狂人とは、理性を失った者ではない。理性以外のすべてを失った者が、狂人になるのだ』
三百年の後。英国作家のチェスタトンは、そう語る。
消去法による推理:コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの事件簿』の『白面の兵士』より
理性のみがもたらす狂気:G・K・チェスタトン『正統とは何か』より