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39:戦後処理

 天正十年(1582年)三月末。

 諏訪にある信長本陣を訪れた河尻かわじり秀隆ひでたかは、滝川たきがわ一益いちますと出会った。


「おう、金笠きんかさ殿ではないか」

左近将監さこんのしょうかん殿か」


 金笠という呼び名は、秀隆の馬印、金色の釣り笠からきている。

 左近将監は、一益の官位だ。


「金笠殿は、甲斐からこの諏訪までを与えられたと聞いた。大領たいりょう大任たいにん、誠に祝着しゅうちゃくであるな」

「いやいや。信忠殿の代わりを任されたのだ。失敗は許されぬのに、どこから手をつければいいのやら。頭が痛い」

「ふふっ。お互いもう年だというのに、なかなか気楽な隠居とはいかんな」


 どちらも、信長に取り立ててもらって一代で成り上がった身である。

 一益は光秀と同じく、若いうちは各地を渡り歩いた牢人に近い身であった。

 秀隆と同年代のはずだが、スラリと姿勢がよく、動きにキレがあって、遠目からもよく目立つ。常に他者の視線を意識した立ち振舞いをしており、他の宿老たちはよく一益に「演者殿えんじゃどの」と呼びかける。


「演者殿は上野こうずけと聞いたぞ」

左様さよう。信長様も、老骨ろうこつむごいことをなさる。我が口舌こうぜつがいかになめらかに回ろうと、さてはて。坂東武者ばんどうむしゃを相手にできるものか」


 一益の得意は、話術である。

 話術で相手を観察し分析し、心の内にある願いと不満を見つけて揺さぶる。

 調略でも戦争でも、一益の話術は活躍する。伊勢攻略では、一益が諸勢力の間をのらくらと歩き回って言葉を交わしているうちに抗争が激しくなり、織田を頼る勢力が力をつけ、いつの間にか「織田から信雄様を北畠きたばたけ家の婿養子でいただくのが最善では」という声が主流となっていた。

 武田攻めにおいても、一益の話術は大活躍だった。特に、逃げた勝頼を追いかける時に役立った。後難こうなんを恐れて寡黙かもくに口を閉ざす村人も、一益の話術には無力だった。怯えた表情は、何かを知っている証拠だ。投げかけた質問への否定と沈黙で、情報の輪郭を浮かび上がらせることができる。最後に「こちらの勘違いであった」と相手を安心させる言葉をかけた時にまろび出る喜びの表情と視線こそ、真実だ。そうやって一益が話術で得た情報で追い詰めた天目山てんもくざんで、勝頼は自害した。


「演者殿が無策で坂東に行くはずがあるまい。策はあるのだろう?」

「ふふ。かなわんな、金笠殿には」


 一益が顔の前で手で何かを握る仕草をした。

 長い筋ばった指を、獲物に飛びかかる蜘蛛の足に見立てた動きだ。


「武田から降った真田の一族を使う。土地に根がついていて、顔が広い」

「真田……武田の有力国衆だな。長篠で兄が死に、弟が家督を継いだのだったか」

「そうだ。兄二人が長篠で戦死した。継いだのは三男の昌幸まさゆきだ。まだ若いが利かん気が強くてな。我が舌で転がすには、ちと手強い」


 五十代半ばの一益や秀隆から見れば、三十代半ばの昌幸は若造である。


「では、どうする」

「昌幸には息子が二人いる。まだ会ったことはないが、優秀で真面目な兄と、兄を慕う才気煥発さいきかんぱつな弟と聞く。人質として弟をもらって、手元で飼……育てるつもりだ。すぐにとはいかんが、半年もあれば関東の演目、我が思いのままとなろう」

「半年か……甲斐もそのくらいはかかるか」

「焦るなよ、金笠殿。今は、焦るな」


 一益の忠告に、秀隆は苦笑にがわらいする。


「演者殿にはお見通しか。こたびの武田攻め。あまりにうまく行き過ぎた。このままでは朝倉攻めの再来さいらいとなりかねん」

「うむ」


 国が滅びても権力は、消えない。

 そして権力は、空白を許さない。

 勝頼と息子と共に甲斐武田宗家が滅びたことで、甲斐と信濃は無主むしゅの地となった。武田が戦国大名として握っていた権力は、バラバラに分割されて国衆や寺社の手に移った。

 織田は、権力を再び国衆や寺社から簒奪さんだつし、一円支配を成し遂げる必要があった。これまで敵であった武田領内で。戦った兵の多くが動員解除で解散した後で。

 諏訪に本陣を敷いた信長は、武田攻めで功績のあった諸将を、各地に配した。

 河尻秀隆は、甲斐本国から諏訪にかけて。

 そのうち、甲斐南部は梅雪斎ばいせつさいが所領安堵。

 もり長可ながよしは、信濃北部に。ここは対上杉の最前線だ。そのため、長可は兵を解散せず、そのまま連れている。

 毛利もうり秀頼ひでよりは、信濃南部の伊那いな郡を担当する。

 人質となった母子を捨てる決断によって武田崩壊を導いた木曽きそ義昌よしまさは、本領の木曽を含む筑摩ちくま郡と安曇あずみ郡の信濃中西部を手に入れた。

 駿河は徳川家康が併合し、北条氏政と境目を接する。

 上野こうずけと信州北西部は、滝川一益だ。

 これまで、秀隆が城主を務めた岩村いわむら城にはだん忠正ただまさが入る。

 信忠のぶただ麾下きかの諸将に、働きにふさわしい褒美が与えられたことになるが、秀隆には危惧もある。


「金笠殿が気にしているのは、此度こたび論功行賞ろんこうこうしょうで信忠様の周囲から、お支えする者が減ってしまうことであろう」

「うむ。信忠様は次期天下人として見事なお働きをなされた。諸将もそれぞれに役目を果たした。喜ばしいことではあるのだが……不安だ」


 秀隆は正直に内心を吐露とろした。

 一益を相手に、腹芸は意味がない。むしろ、本音をぶつけた方が一益の協力を得られる。


「わかっておるよ。信忠様にとって、今が一番、気をつけねばならぬ時だからな」

「そうだ。その通りだ。演者殿は焦るなというが、焦らざるを得ん」


 秀隆は一益に正面から向き合った。


「演者殿は、信忠様が信長様に害されること、ないと言えるか」

「む」


 一益は、「信長様がおられる本陣ここでそれを聞くか」という顔で秀隆を見た。

 秀隆は、「そっちから本陣ここで話しかけてきたんだ。想定していなかったとは言わせんぞ」という顔で一益を睨む。

 もちろん一益は想定していた。信長は今、蒸し風呂に入っている。近侍は周囲の警固だ。さらに二人の会話中は誰も近づかないよう手配りもしてある。


「金笠殿。これはあくまで一般論であるがな」

「聞こう」

「権力を握っている父から、権力のない子への継承は、失敗しやすい」

「道理だな」


 二人とも、思い当たることが多すぎた。


 尾張。織田家。

 信秀ちちから信長への権力移譲が、最終的に信長あに信勝おとうとを殺すことでしか解決しなかったことは、織田家にとって苦い記憶である。


 美濃。斎藤家。

 まむしと恐れられた斎藤さいとう利政としまさ(道三)から息子の義龍よしたつへの権力の移譲は、ひとたびは平和裏に行われたが、すぐに骨肉の争いとなった。ついには道三ちち義龍に殺されることとなる。


 甲斐。武田家。

 ここは二代続けてだ。まず信虎のぶとら晴信はるのぶ(信玄)。信虎ちちの留守を狙って晴信が国を閉ざして追放する。続いて信玄ちち義信廃嫡はいちゃくして自害に追い込んだ。


 三河。徳川家。

 家康の嫡男であった信康のぶやすの自刃事件は、わずか三年前のことだ。近江浅井氏と同じく当主の武威カリスマに頼った徳川の家臣団統制は、わずかなほころびが感情の暴走を招き、暗殺テロへ走る。


 越後。長尾・上杉家。

 こちらも継承のたびに騒動が起きる。近くは御館おだての乱での、景勝かげかつ景虎かげとらの戦い。その前の長尾ながお為景ためかげから子への継承も、騒動の果てに、晴景あに景虎おとうとに家督を譲らされてしまう。


 足利将軍家も。鎌倉公方も。管領も。戦国大名も。国衆も。

 権力の継承は高い確率で混乱と争いを引き起こす。

 なぜか。


「権力の継承時は、今が不遇の者たちにとって、再起の機会だ。今は力がないが、上手く立ち回れば、未来が開ける。そういう連中が権力者の父と子、兄と弟、叔父やら甥やら、自分の手の届く範囲に必死でぶら下がってくるのよ」

「今の織田家に、そのような者たちがいるとでも……」


 ──いるな。たくさん。

 ──数え切れぬわ。

 ──武田も滅ぼしたから、さらに増えるぞ。

 ──言うな。自業自得とはいえ頭が痛い。


 互いに目と目で会話をし、コホン、と咳払い。


「潰した国衆は気にせずともよい。問題は権力の中枢にいた連中だ」

「権力いうと、公方様と朝廷か」

「それと三好家だ。さすが前の天下人の人脈、驚くほど根が深いわ」

「三好家か……そんなにか?」

「京で仕事をすると、たびたび三好家の伝手つてに行き当たる。これは同時に幕臣の人脈コネでもある。幕臣として長く京で働いていた者たちが、そのまま将軍から三好に、そして今は織田に鞍替えしているからな」


 十七世紀日本は成文法せいぶんほうは穴だらけで、慣習などからくる不文法ふぶんほうが穴を埋める。

 その慣習がどこからくるかといえば、書に記録されているものはわずかで、ほとんどは人に記憶されているものだ。

 相論そうろんがあった時、怪しげな書を牽強付会けんきょうふかいして「昔はこのような習いであった」「このような先例がある」を滑らかに語れる人を引っ張ってこられるかどうかが、仕事がデキるかデキないかを分ける社会である。

 主張にもっともらしさを付与する教養と機転の有り無しも重要となる。各地で催される茶の湯や連歌の会には、相手の教養を測り、顔をつないで人脈を広げる意味合いもあった。互いを紹介したり、紹介されたりして、知識人は社会に居場所を見つけるのである。


「金笠殿。織田の宿老は全員が。心の底から。信忠様を推しておる。もし明日、信長様が隠居を決めて信忠様にすべて譲るといえば、一も二もなく賛成し、全力で支える。なおも信長様にすり寄ろうとする者、弟君を持ち出そうとする者は叩き潰す覚悟だ。我もそうだ」

「わかっておる。でなければ、このような危ない話題は持ち出さぬ」

「そして、そのほぼ全員がな──京から遠くなりつつある」


 羽柴はしば秀吉ひでよしは、対毛利の大戦で手一杯だ。

 柴田しばた勝家かついえは、対上杉の北陸戦線を推し進めている。

 丹羽にわ長秀ながひでは、四国攻めの準備に大わらわだ。

 さらに滝川一益は、関東へ下向となった。


「古くからの奉行や右筆は京と信長様の周辺に残るが、誰もが日常の業務で手一杯だ」

春長軒しゅんちょうけん殿や、宮内卿くないきょう法印ほういん殿か」

妙云みょうでん殿もな」


 春長軒は、村井むらい貞勝さだかつの出家時の号だ。村井家の家督は息子に譲ってある。

 宮内卿法印は松井まつい友閑ゆうかんの官職だ。友閑は信長の右筆、さらには特使として派遣されることも多い。

 妙云は武井たけい夕庵せきあんが茶会などで使う号だ。夕庵は信長の右筆、そして奉行の役目も請け負う。


「三人とも仕事はできるが、信長様を支えるのに十分……とは言えんか」

「それどころか、三人ともな。仕事に専念するため、面倒くさい派閥争いから身を遠ざけてるところがあってな」

「本来なら、誉めるべきところだな」

「だが、今は危うい。これからは信長様の周囲に、父から子への権力の移譲を機会に自らの復権を狙う連中がウヨウヨ集まるのだからな。そいつらにとって、平穏無事へいおんぶじな継承は何の得にもならん。何か起こそうとする」

「信忠様は、あらゆる意味で理想的な天下人になれるお方だが……身内の権力闘争には不向きな性格だからな。そう育てたのはわしら信忠様の直臣なのだが」

「それでいい。金笠殿の教育は間違っておらん。身内の権力闘争が得意というのは、権力を握らせては一番ダメなヤツだ」

「わかっている。そして、だからこそ信忠様を守る者が必要なのだ。本当なら、我らがやることなのだ。武田の遺領を分割相続して有難がってる場合ではないのだ」


 秀隆の眉間に皺がよる。

 一益が秀隆の肩を叩いた。


「何度も言うが焦るな、金笠殿。半年待て。その間に、わしが駆け回って東国を安定化させる。本当は逆の方が得意なんだが、今はそうも言っておられん」

「え」

「え、ってなんだ」

「演者殿が真田の次男を預かると聞いたので、てっきり長男次男のお家騒動を起こして真田を乗っ取るつもりかと」

「しない! これ以上、織田の領国と面倒を増やしてどうする! 真田の次男を預かるのは、話術ノウハウを叩き込んで東国の取次を任せられるようにし、何かあった時にわしが信長様のところに素早く戻れるようにするためだ!」


 必死の形相での一益の抗弁に、秀隆は笑ってしまう。


「すまん。冗談のつもりだった」

「ふん。冗談が言えるようなら、まだ余裕があるな」


 秀隆は不貞腐れた様子の一益を見て、あれだけ権謀術数を自在に操るくせに、身内には甘い男だと思う。


「それにしても、半年か……」

「こうなると、惟任これとう日向守ひゅうがのかみが京にいるのはありがたいな」

「ああ。武田攻めでは、糧道を通すために明智家の勝手方の秦創はたつくり金造きんぞうに助けてもらったし、高遠城では足軽頭の内畑うちはた日之介ひのすけが見事な働きをみせた」

「信長様と信忠様も、日向守に任せておけば、そう悪いことにはなるまい」



 同時刻──


 信長は本陣のある寺で、蒸し風呂に入っていた。

 天下人は、湯気の中で一人、静かに物思いにふける。


(これは夢ではあるまいか)


 武田攻めは、次の天下人である信忠にはくをつけさせるための戦だった。

 信長は、武田攻めの落とし所を「勝頼に腹を召させる」「信濃を織田領とする」が現実的なところだと考えていた。諏訪まで半年はかかるだろうと。

 それが、二月三日に陣触れを出してから勝頼自刃の三月十一日の武田滅亡まで、二ヶ月に満たない短期間での決着である。


『斯く如く三十日、四十日のきわ一偏いっぺんに属すのこと、我ながら驚き入るばかりにそうろう


 信長が京の松井まつい友閑ゆうかんに届けた書状の一部である。


(そろそろ、いい頃合いであろう)


 天下人の地位を、信忠に譲ろう。

 信長の、父親としての最後の仕事は信忠の弟たちの行末を定めることだ。


(信雄は少しはマシになったか。信孝は四国を任せよう)


 信長の甥で、信忠の従弟いとこになる信澄のぶすみの面倒もみなくては。


(光秀の娘を嫁にしているから、明智家を継がせてもいいな)


 湯気と共に流れていく泡のような思考を楽しんでいた信長の心に、さっ、と黒い闇がさした。


 ──何かを見落としては、いないか?


 胃の腑が、ズン、と重くなる。


 家督を継いだ。弟を殺した。

 上洛を成功させた。義弟が裏切った。

 京を守り抜いた。公方から見限られた。

 松永久秀が裏切った。荒木村重が裏切った。

 本願寺を屈服させた。佐久間信盛が────、─────。


 人生の絶頂で、信長は何度も奈落に突き落とされた。

 今回も。信長に見えていないだけで、足元には亀裂が広がっているのだ。


 ──なぜなら、今までずっと、そうだったから。


 信忠に天下を継がせるため、今度こそ、見つける必要があった。

 織田家に忍び寄る、陰謀を。

 信長を破滅させようとする、悪意を。

 どこかにある。

 武田攻めがうまくいったからには、巨大な亀裂(ギンヌンガ・ガップ)があるに決まっている。


 ──なぜなら、今までずっと、そうだったから。


 信長にとって、根拠はそれで十分だった。


挿絵(By みてみん)


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[一言] 素直に行くかと思いきや、根拠のない不安で暗雲が立ち込める。権力の継承とは本当に厄介なものです。
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