32:別れの挨拶
天正八年(1580年)閏三月二十日。
坂本城の船着き場に、一隻の船が到着した。ちょうど日が比叡山に没した直後である。
初夏の残照が、空を赤黒く染めている。
船着き場の石垣の上で、篝火が燃えている。
ここ数年で、見違えるほどにたくましくなった青年武将が、年配の近侍が持った松明に照らされる桟橋に足をのせた。
金造が笑顔で青年武将に出迎える。
「信忠様! ようこそ坂本城へ! 足元にお気をつけて!」
「やあ、金造。悪いね、こんな時間になって」
金造は信忠と近侍の武士を、昼間のうちに用意しておいた部屋へと案内した。
金造の目に、信忠は前に会った時より面窶れしているように見えた。
そして、近侍の武士も。目は落ちくぼみ、顔色もずいぶんと黒い。
「ご安心ください。ここであれば、話が漏れることはありません。周囲の警固をしているのは、我が朋友の内畑日之介と、明智家最古参の足軽どもです。満腔の信頼がおけます」
近侍の武士──佐久間信盛は、金造の言葉に微笑んだ。そうすると、七年前、最初に出会った時の愛嬌の良さが少し戻ってくる。
「すまんな、金造。そなたとそなたの主君にまで、危険を冒させてしまって」
「何をおっしゃいますか。この三十年間、筆頭家老として織田家を支え続けたのは、信盛様でございます」
信忠を上座に座らせ、その対面に信盛が座る。
今宵は信忠が坂本城にいる金造に会いにきた、という形式をとってはいるが、本当のところは信忠と信盛の密談である。金造の主の光秀は信長に会う用事があり、入れ違いで安土城に行っている。気配りの達人である光秀らしい身の処し方だ。
部屋の外に金造が下がろうとすると、信忠が止めた。
「金造。きみもここで聞いて。そして惟任日向守に伝えて欲しい」
「よろしいのですか」
「金造。わしからも頼む。この後、わしが日向守と肝胆相照らして話せる機会がくるか、難しくなってきたからな」
信盛の寂しそうな顔に、金造は、と、と胸を衝かれた思いになる。
信盛の立場が、それほどに危うくなっているという事実に。
信長と信盛の間で諍いがあったとは聞いていたが、斯くなる仕儀とまでは金造は思っていなかった。
「では、話の前に白湯を持ってこさせます」
金造は外で警備している日之介に声をかけ、足軽に白湯を運んでもらう。
日之介も事情を察してか表情が硬い。目で「わしはおってええんか?」と問いかけるので、金造は太い腕にそっと手を添えて頷いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「どうぞ」
「助かる。喉がかわいておったのだ」
白湯を出し終えた金造は、懐から矢立を出し、帳簿と紙を傍らに置く。
信忠が頬を緩める。信盛が優しい目になる。
「相変わらずの帳簿好きだね」
「几帳面なのはよいことだ──さて」
信盛が、信忠に向き直る。
「結論から申し上げます。織田家は今、累卵の危うきにあります」
累卵之危は、卵を積み重ねたような、不安定で崩れやすい様を指す。
信忠は、ため息をついて首肯した。
「たしかに。いくつもの国を短期間で併合した我が織田家の権力構造は不安定だ。ここ数年で、つくづくと思い知ったよ」
「はい」
「父上と不仲になったのは、そのことが原因かい?」
「いえ」
信盛の声に、苦い後悔の色が混じる。
「昨年の暮。伊丹城で捕らえた荒木の人質をいかにするかで論争になった時に、お怒りを受けました」
「あの時に父上と言い争いになったとは聞いていたが……何があったんだ?」
信忠は聞き返す。信盛と信長の間では、信長が家督を継いでから三十年の間、何度も何度も言い争いが繰り返されてきた。だが、それが回帰不能点を越えることは、一度もなかった。
「信長様は、取り決めに従わぬ村重の非を鳴らす名目で、伊丹城に残された人質を処刑しようとされました」
「うん」
「処刑方法として、洛中での村重妻子の公開処刑。信忠様がおられた尼崎での磔が詮議の場で決定となりました」
「信盛様は、それを止めようとして信長様と言い争いになったのですか?」
「いいや」
金造の問いかけに、信盛は首を振った。
「村重の行為は、弁解の余地がない卑怯未練。罪の贖いは、残した人質に支払ってもらうしかない。それが上に立つ者が支払う対価だ」
「そう……ですよね」
金造が肩を落とす。
「では、父上と言い争いになったのはなぜだ?」
「人質の処刑を決定した二日後のことです。信長様から相談があると呼ばれました。処刑を取りやめる方法はないものか、と。気が進まぬから、と仰せでした」
「父上らしい」
「わしも、最初はそう思っておりました」
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天正七年(1579年)。十二月二日。
「書式を整え、使番を出した後になって、そうおっしゃいまし」
「だめか」「ても」
言葉が終わる前に、性急に割り込む信長の声に、信盛は「はて」と思う。
余裕のない声色に、何かあったろうかと思う。
「だめとは申しません。ですが助命なさるなら、詮議の場で申し付けていただき」
「翻しては、だめか」「ませんと」
二度目だ。
信盛は、林秀貞から聞いた、この二日間に信長が会って話をした者の顔と名を脳裏に浮かべる。
その中に、荒木の人質助命に動きそうな者はいるか。
──いない。
公家衆とは何人か会っているが、彼らは人質を哀れには思っていても、今の時点で口にはしない。ここで信長に何か進言して人質の助命が成功してしまえば、公家が責任を取らされるからだ。公家とは、責任は穢と同義と考える人々だ。
なら、これは人質助命にかこつけた政治工作。
そちらなら、信盛は心当たりがあった。
──笑岩。
笑岩は、三好孫七郎康長の法名だ。三好長慶の祖父である、三好長秀の息子で、長慶の叔父になる。三好一族の中では特に粘り強く信長と戦い続けたが、それゆえに実力を評価されもした。今は河内半国を任されるほどに重用されている。
(あの老人は、会話している相手が今聞きたいと思っている言葉をかける天賦の才があるからな)
信盛にとっては与力である。優秀で頼りになるが、警戒も必要な相手だ。
「天下人の決断でございます。たとえ苦くとも、軽々に翻すことは、慎むべきかと」
「……で、あるか」
信長の言葉に、ねとりと熱いものを感じ、信盛は顔をあげた。
「なら、その天下人の決断で七カ国の動員権を与えられながら、四年の長きにわたり長袖どもを追い払えぬ者を、どうすればよいか」
それは信盛にとって、思いもよらぬ言葉だった。
信長の心を見透すことにかけては、信長本人よりも優れていると自負する男は、虚を衝かれたまま信長と見つめあう。
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信盛に信長の言葉を伝えられ、信忠と金造がそろって首をひねる。
「長袖を追い払えぬ……石山本願寺のことか?」
「はい」
「七カ国の動員権って……総動員したら、それは石山くらいは踏み潰せますが……え……全員が自弁させられたら、借銭、借米で立ち行かなくなりますよ?」
「だよな」
信忠と金造は、信長の言いようを理不尽と感じる。
「戦がだらだらと長引いているのはその通りだが、原因はむしろ、いきあたりばったりに戦線を広げまくる父上にあるだろう」
「それがしも同感です。戦続きで銭も米も恒常的に不足している中、勧農や頼母子講で域内の経済を立て直すことに注力し、余った最小限の兵力で石山を締め上げている信盛様は、どう考えても本願寺を追い詰めた功労者です!」
「まったく金造の言う通りだ! 信盛は集めた金と米を、連年の戦で疲弊した域内に回し、すべての村が、すべての国衆が、潰れて身売りせずともよいように苦心しておる!」
「信長様も、そのことは──」
「父上も、そのことは──」
「ご承知のはずです!」「ご承知のはずだ!」
信忠と金造は、同時にそこまで口にしてから、顔を見合わせる。
ジワリ、と二人の胸のうちにいやなものが染みて、満ちる。
「わしも、そう思っておりました。なので、しばらく噛み合わぬ会話を信長様と繰り返し、今日はお疲れなのかもしれぬと、下がらせていただいたのです」
だが、日を置くなどして幾度この話をしても、信長と信盛の話は、平行線のままだった。
「信盛。その……父上はいったいどうして……」
「わかりませぬ。わしも信長様の信任をよいことに、口頭で簡単な報告だけして、後は何も説明せずにすすめて参りました。それが信長様の癇に触られた……とも」
「だとしても……だとしても、だっ!」
金造は、愛用の帳簿に触れた。
金造が越前から光秀と同行した時に持っていた最初の帳簿は、坂本城の書庫にしまってある。その帳簿を金造にくれたのは、父だった。
父の父。金造の祖父は越前でも有数の商人だった。祖父は記憶力と計算力が自慢だったが、年を重ねると両方が急激に衰え、不手際をして店を傾け、失意の中で死んだ。自分が生まれる前に死んだ祖父のことを金造は知らないが、父は帳簿を渡す時に祖父の話をし、日々の記録の大事さを金造に伝えた。まだ八才だった金造にとっては、生涯忘れられそうにない心的外傷でもある。
信長に、祖父と似た種類の衰えあったのだとしたら。
店が傾く、どころの騒ぎではない。
累卵之危という言葉の通り、国が傾く。
「信盛。ぼくはどうすればよい? 父上の状態は置いておくとしても、このままではそなたの身が危うい」
三十年の長きにわたって筆頭家老であった信盛の地位が揺らいでいるのだ。
信盛がいなくなれば、巨大な権力の空白ができる。
上洛前からの宿老たちはともかく、その後の新参たちにとっては、天下一統の見えた織田家権力構造の中で這い上がる絶好の機会だ。
「では、お願いがひとつ」
信盛はずい、と身を乗り出した。落ちくぼんだ目に、強い光が宿る。
「言ってくれ。なんでもするぞ」
「何も、なさりますな」
「信盛!」
「信長様と信忠様の間で織田家が割れ、親子の間での権力闘争が始まれば、天下はどうなります」
「今は天下ではなく、そなたの心配をしろ!」
「もちろん、わしは我が身を可愛く思っております。その上で申し上げます。わしは、信長様の信頼と庇護があってこその織田家筆頭家老でした。その信長様が、何があったにせよ、今やわしを信頼せず、庇うつもりもないとなれば、わしの失脚は免れませぬ」
「信盛……だが、信盛よ……」
「ここにいる佐久間信盛という男は、もう、終わっておるのです」
信盛は、赤子の頃から知る青年に、人好きのする笑顔を向けた。
信忠は、赤子の頃から知る老人に、ベソベソと泣き顔を見せる。
「本願寺が完全に屈服するまで、今しばらく、時がございます。それまでは、この老人の身も安全でしょう」
「時など残ってないぞ。本願寺は血判起請文を出した。ぼくと九鬼には、石山から退去する船も人も見過ごすよう、父上から命令がきている。すぐにでも石山は空になるし、そうなれば……」
「わしの方で手を回しました。本願寺教団は割れております。顕如を担ぐ派閥は帝の叡慮を理由に退去するでしょうが、対立派閥は息子の教如を担いでしばらくは石山に立てこもりましょう。これで三ヶ月か四ヶ月ほど時間が稼げます」
「……あのなぁ。本願寺に工作した久秀じいちゃんがどうなったか知ってるだろ」
泣き顔のまま、信忠が信盛を叱る。
信盛はニヤリと人の悪い笑みに切り替える。
「はい。ですので、わしの方が久秀よりうまくやれることを示しておきませんと。コツは、主流派閥をおだてあげることです」
危機感を抱いた少数派閥が人を集めるため先鋭化し、過激な行為に出るからだ。
「石山からの退去がごたつけばごたつくほど、本願寺教団の立場は悪くなります。加賀の荘園を返す約定など反故にできます。信忠様は、どうかこの間に家中の取りまとめを。欲の皮をつっぱらせて信忠様にすり寄る新参者もおりましょうが、忌避せずに受け入れ、腹の内と能力を見極めてお使いください」
「うん」
「それと……わしを守る必要はございませんが、息子の信栄がわしに連座させられた場合、一年かそこらあけて、信忠様の方で拾ってください。なかなかに使える男に育ったと思います」
「もちろんだ。約束する」
「ありがとうございます」
信盛は、金造に向き直る。
「惟任日向守に、伝言を」
「はっ」
「面白かった。楽しかった。先に抜けて苦労をかけるが許せ」
「はっ……必ず……お伝え……」
「ああもう。顔ベチャベチャじゃないか。頼んだぞ」
信盛は、夜のうちに京へ向かうため、部屋を出た。
信忠と金造が残される。
「ひどい顔してるぞ、金造」
「信忠様こそ」
泣き顔で向き合う。
「金造。ぼくは父上を継いで天下人になるよ」
「はい」
「だけど、今のままでは無理だ。天下が重すぎる。父上でも、支えきれないんだ。ぼくだと一瞬で押し潰される」
「はい」
「いや、そこは即答せず、ちょっとは悩んでほしかったな」
「事実ですから」
「うん。まあ、そうなんだけどね」
互いを赤い目で見つめる。
「だから、金造。天下を支える方法をぼくと一緒に見つけよう」
「はい」
織田家に忠を尽くして去った男のため、二人は誓う。




