31:滅びざるもの
天正八年(1580年)一月四日。
男は墨を摺り、筆を取り、紙に向かう。
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十二月十三日。辰。尼崎、七松にて。
磔に懸けられる相定めとなりし壱百廿弐人、各々引き出し候。
衣装美々しき出立の上﨟女房の歴々。
叶わぬ道を悟り、呆と並び立ち居るを、さも荒けなき武士ども、引き掴み、引き上げ、磔に架ける。
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ここでほう、と一息。
現場で目撃した複数人から聞き出した内容を確認する。
日時。場所。人数。間違いない。
「あ」
大事なことを確認していなかった。磔にされた荒木方の妻女に、幼子はいたのか。いたとして、人数は。どうやって磔にしたのか。
わからないものについて、具体的な描写はできない。
だが、まったく書かないのも。
──もったいない。
男の持つ、職業規範が許さない。
幼気ない幼子が磔にされるのは、読み手の心を強く揺さぶる。よき書き手は、読み手の心を動かす機会を見逃さないものだ。それに、百人を超える妻女の磔があったのだから、確率的にも、幼子はいたものと考えるのが妥当だ。
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叶わぬ道を悟り、呆と並び立ち居るを、さも荒けなき武士ども、引き掴み、引き上げ、幼子はその母に抱かせ、磔に架ける。
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書き直した。
嘘は書いていない。現場であったであろうことを、想像で補っているのだ。
男の中で、この二つは矛盾なく両立する。
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鉄砲を以て、ひしひしと撃ち殺し 鑓長刀を以て刺し殺し害せられ 壱百廿弐人の女房、一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人、目もくれ、心も消えて、感涙押さえ難し。
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ここは慣用表現である。臨場感が大事なのだ。
これで終わってもよいのだが、やはりもう一押しが欲しい。
あからさまな嘘は書かず、読み手の心を動かす表現は何かないか。
男はこれまで読み耽り、蓄積してきた文章表現を記憶から引っ張り出す。
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見る人、廿日 丗日の間 面影身に添いて、忘れやらざる由にて侯なり。
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「よし」
男は満足して筆を置く。
十六才になる息子を呼び、読ませて感想を聞く。
「父上」
三十年前の男自身を思わせる、生意気で頭でっかちに育った息子は、読み終えると、ふっ、と唇の端に笑みを浮かべた。
「まだ丗日は経っておりませんが」
「言うと思ったよ。そこはそういう表現なの。数字を重ねて強調するのが大事なの」
「なるほど。勉強になります」
わかってて聞いてるだろ、と男は息子を睨むが、息子の方は平然としている。
「署名は、なされぬのですね」
「その場にいなかったのに、又聞きで書いたのだ。署名すれば嘘になる」
「父上の基準はわかりにくいですね。真ではないことも、嘘にはしない」
「学べ。いずれはお前が受け継ぐことだ」
「学びます」
紙に書くこと。
記録をつけること。
而して後世に語り継ぐこと。
大陸から伝えられた卜占を家職として二十五代。
時代は移り変わっても、先祖から受け継いだ男の役目に変わりはない。
「ところで父上。小屋に火をつけて焼き殺した件ですが」
「うむ」
男は、自分が書いた文章を読ませた後、元となった聞き書きの束を息子に読ませた。
情報の取捨選択の手法を学ばせるためである。
「五百十余人という数字、これ本当だったら、酷くないですか」
「ああ」
「書くんですか?」
「もちろんだ。ただ、こっちはどうも情報の出元がな」
「父上が聞き取りをなさったのでは?」
「いいや。磔について聞き出してたら、噂ですがって、一緒についてきた」
「噂にしては数字が具体的ですね。下級武士の妻女、三百八十八人。女房衆付きの若衆、百廿四人。あと、処刑担当者も矢部善七郎(家定)が検使と名指ししてあります」
「そこなんだよ。誰が現場で見聞きしたのかわからないのに、ところどころ具体的にすぎるんだ。怪しい。捏造の匂いがする」
「捏造の匂いって……父上の感覚の方が、私には怪しいですが」
「学べ」
「学びます……って、こっちは無理ですよ!」
男の息子が悲鳴をあげる。
──なんだかんだ言って、やっぱりこいつ頭がいいな。さすが私の息子。
情報の確度に応じて、表現や記述を変えるのは、経験を積み重ねればできる。
だが、情報の確度そのものはどうやって見抜くのか?
こちらは、文章をたくさん書けば身につく性質のものではない。
「小屋に押し込めて、焼殺。この噂はどこから出ていると思う?」
「……処刑を担当した足軽でしょうか。そこから足軽仲間、陣や付城の出入りの商人?」
「焼けた小屋の片付けを行う人足や、経をあげる僧侶も噂の出どころとなるな」
「数字がはっきりしていますので、商人か僧侶、でしょうか」
「では、そこからさらに考えてみよ。小屋が焼け、大勢の死体が出てきた。そこまでは事実として、ではこれは本当に処刑なのか? 事故ではないとなぜ言い切れるのか?」
息子が「あっ」と小さく叫んだ。
「火事の可能性があるということですか」
「わからん。確認しようにも、噂だからな」
「火の不始末に見せかけた、処刑という可能性もあるのでは」
「どうしてそう思う?」
「いえ、なんとなく……織田右府ならやりそうでは、というくらいで……比叡山を焼いたり、上京を焼いたり、火をつけることにためらいのない方という印象があります」
「皮肉なものだな。その印象、最初は織田が利用していたのに」
京の人間にとって、外からくる武士団は皆、蛮族であった。
古くは木曽義仲。これは北陸からきた蛮族であった。
承久の乱の北条。そして足利尊氏。言うまでもなく、坂東からきた蛮族だ。
三好は、四国からきた蛮族であった。
織田は、東方からきた蛮族だった。
軍を率いる蛮族は、軍を維持するために兵糧を求める。力でも兵糧は得られるが、毎度毎度、力をふるっていたのでは手間ばかり増える。
そこで使われるのが、蛮族としての印象操作だ。恐怖によって兵糧を供出させる。織田は、いたるところに、ことあるごとに火をかけ、放火の恐怖を植え付けた。
「この噂が事実と異なるのであれば、織田の自業自得でしょう」
事故として、火事があった。
焼け跡から、焼死体がたくさん出てきた。
語られるうちに、放火ではないか。いや、処刑だろうとなる。
処刑ならば、誰がやった。事故後の検分を織田の家臣の某がやっていた。
──やはり、織田か。
──織田右府は、そういう男よ。
冤罪かもしれないが、だとしても故なきではない。
「自業自得だとしても、利用したものはいる。噂の拡散が早い」
「誰でしょう」
「候補はいくつかあるが……ま、本願寺教団だな」
「ああ」
「あいつら、石山にこもって内部抗争にふけってるが、どの派閥も、あまり長くは織田との戦いを続けたくはないんだ。銭ないし。戦況がよくなる見込みもないし。だから、織田をあまり怒らせると、こんな風に無残に焼かれるぞ、という噂を利用してるのだろう」
「織田との戦いをやめたい。だから、対立派閥と手打ちをしたい。そのため、織田が放火魔である噂を喧伝して、派閥争いの落とし所を見つけたい、ですか。念仏衆のやることって、細かい上にひねくれてますね」
「頭でっかちだからな。自分たちが悪いと認めるくらいなら、すべての罪と穢を信長に押し付けるくらいのことはするさ」
「石山から出たら、いつまでも信長に押し付けてはいられませんよ」
「いーや、押し付けるね。百年たとうが、二百年たとうが、派閥争いが嵩じて教団が分裂しようが、『かつて織田信長という邪悪な存在と正義の戦いをした本願寺教団』の看板だけは維持するよ」
「なんで父上は、そんなに一向一揆に厳しいんですか」
同族嫌悪である。
「ですが、なんとなく捏造を見抜く勘所がわかった気がします」
「ほう。言ってみろ」
「嫌いなヤツを貶めたい。安全な場所から叩きたい。捏造は、そうした心から生み出されます」
「うむ。わかりやすい捏造はそうだな」
「わかりにくい捏造もあるんですか」
「あるぞ。読み手を面白がらせたいという純粋な思いから生み出される捏造だ」
「それ、父上がよくやるやつですよね」
「ちょびっと。ちょびっとだけだ。面白くない記録は後世に残らんからな。記録はつけるまでが半分。後の半分は、残ることだ。いずれ私の後はお前が継ぐ。残る記録をつけろよ。よいな、兼治」
男の息子、兼治はかしこまって頭を下げた。
ただし、言うことは言う。満年齢で十四才。そういう年頃である。
「記録は面白くなくてもいい気もするのですが。うちにもよく遊びに来る明智家の勝手方の金造をご存知でしょう。金造が常に持ち歩くあの帳簿こそ、後世に残るべきと思うのですが」
「あんな正確な数字ばかりの帳簿、つまらないから残らなくていい」
「父上の装飾過多な文章だって、漢籍などの基礎知識が読み手にないとつまらないじゃないですか」
「貴様っ、たとえ事実でも父親に言ってはならんことを!」
「ほらっ! 父上だってわかっててやってるっ!」
京。吉田神社。
男──吉田兼和(兼見)は、息子の兼治と深夜まで言い合いを続けた。




