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30:往復書簡

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 天正七年(1579年)八月十九日。

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信忠様へ


 伊丹いたみでの活躍、祝着しゅうちゃくに存じます。

 丹波こちらでは利三殿が黒井城に入部にゅうぶし、氷上ひかみ郡全域に、還住げんじゅうを命じました。

 丹後の平定も順調です。弓木ゆみき城(現:与謝郡与謝野町)の一色いっしき満信みつのぶとは、長岡ながおか(細川)藤孝ふじたか様が縁者の娘を養女として縁組することで所領安堵となる予定です。


金造より


尚々書(なおなおがき)

 弓木ゆみき城からは、東に阿蘇海あそのうみがのぞめ、天橋立あまのはしだても見えるとのことで、光秀様と藤孝様が連歌の会を企画しています。信忠様も参加していただければ、これに勝る栄誉はないみたいなことを書けと強制されたので、一応は書いておきますが、無理そうなら断っていただいてけっこうですからね?


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 天正七年(1579年)八月二十二日。

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金造へ


 丹波・丹後の平定が順調なようで何よりだね。

 摂津では、朝から晩まで普請、普請、普請でひたすら土を掘ったり、柵を作ったり。

 ぼくは指示を出すだけなんだけど、現地の国衆に「砦は二重、三重と堀を重ねて堅固にせよ」と命令したら、言葉通りに解釈されてしまって、大慌てで修正した。深夜になっても篝火つけて人足を働かせてるから、どうしたんだろうと見に行かせたら、それまで堀が一重だけだった後方の砦にまで、堀を重ねようとしていた。おかげで新しい砦の建設が遅れたのだから、これじゃ本末転倒だ。

 最初は唖然あぜんとしたし、腹も立ったが、摂津の国衆はそれだけ必死なのだと佐久間さくま信栄のぶひでさとされたよ。荒木あらき村重むらしげの裏切りのせいで、国衆たちは自分たちも疑われているのではないかと不安なんだ。

 叱るのではなく、忠節を褒めてやってくれ、と言われたので、前に金造から聞いた『明智の餅役』を試してみた。夜に普請している人足たちと監督役の国衆の全員に、餅を振る舞ったんだ。人足は素直に喜んでたけど、国衆からは疑惑の目で見られたね。餅をくれた代償に、何か命じられるんじゃないか、って空気だった。

 ひねくれてるなぁ、って思った。でも、これまで積み重ねてきた不信が餅一個で消えてなくなるわけじゃないものね。

 国衆の皆がみてるのは、ぼくじゃない。ぼくのことなんか、彼らは知りもしない。そもそもぼくは、これまでの人生で何もしてない。

 国衆の皆がみてるのは、父上だ。ぼくはこれからの一生をかけて、彼らにぼくを見てもらうための努力をしないといけないのだろう。

 ……って、書いてて、気が遠くなったよ。父上に匹敵しようだなんて、どれだけぼくは頑張らなくちゃいけないんだって!

 明日も早いし、このへんで。


信忠より


尚々書

 天橋立で連歌の会か。楽しそうだね。光秀も藤孝も、有職故実ゆうそくこじつに詳しい歌人だから刺激的な会になりそうだ。日程が合えば参加したいけど、年内は難しそうかな。でも、もし行けるなら、金造にも会いたい。また連絡して欲しい。


尚々々書

 文字通りの意味にとられたら困るので、追記しておくけど、金造が忙しいのは知ってるし、連歌の会にそれほど興味がないのなら、金造は参加しなくていいからね? 金造に会いたいのは本当だけど、それは坂本城でも、京の屋敷でもいいわけだし。


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 天正七年(1579年)九月六日。

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信忠様へ


 丹波と丹後は、少しずつ還住が進んでいます。連年の戦で米の出来は今ひとつだったようで、各地に諸役しょやく免除、地子銭ちしせん免除、借銭しゃくせん借米しゃくまいの返済免除、押買おしがい禁止を申し付けました。ここで気をつけないといけないのが、国衆が抱えている借銭・借米の処理です。

 というのも、村の借銭・借米の免除は、そこを所領としている国衆に負担がかかることがあるからです。

 流れで説明しますと、村人が不作で銭米に困ると、庄屋が貸します。庄屋は不足する銭米を国衆から借ります。国衆は、当座に必要な分の銭米を親戚や商人から借ります。相手も同じ国内であれば制札による返済免除が有効ですが、国をまたがる借銭・借米であれば、国衆は収入がないのに、返済義務だけはある、ということになります。

 しかも、国衆は自分の返済が免除されるか否かを理解していないことが多いです。自分の返済も免除されると思い込んで、手遅れになるまで放置している国衆のなんと多いことか! しかもそういう国衆に限って、相談にきてくれないのです。あらかじめ借銭・借米の返済で困ってることを教えてくれれば、いくらでも打つ手はあるのに。

 織田の敵が減り、味方が増えるにつれて、味方同士の銭や米の貸し借りをどうするかを考えねばならなくなってきています。まずは、織田の武士全員に、帳簿のつけ方を学ばせるのが先決かもしれません。


金造より


尚々書

 光秀様が、「最近、信長様と会えないことが多い」と気にかけていました。何かご存知なことはありますでしょうか。


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 天正七年(1579年)十月朔(1)日。

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金造へ


 返事が遅くなってごめん。

 もう聞いてるかもしれないけど、九月に弟の信雄のぶかつが伊賀に出兵して、大負けしたんだ。父上はカンカンで、信雄と親子の縁を切る、とまで言っちゃったから、家内が大騒ぎになって、両者の取りなしにぼくが駆け回ることになった。

 信雄が伊賀に出兵したきっかけだけど、本人に確認したら明智の丹波攻めを聞いて憧れて、自分でもやってみようとしたんだって。

 山がちの国で道普請をし、付城をし、有力国衆を孤立化して潰す。方向性は間違ってないけど、どうも信雄は「ぼくの仕事はこれで終わり。あとはみんなでうまいようにやっといて」と家臣に放り投げたみたい。人も予算も時間もつけないまま、雑に丸投げ!

 信雄の家臣が困り果てて「まずは殿が軍勢を率いて伊賀の国衆を畏れさせ、おいおい、相手の離反を待ち、それから」となったんだけど、もうこの時点で、手段も目的も見失ってるよね。信雄は道普請するよう命じたはずなのに家臣が言うことをきかなかったって不貞腐れてたけど、自分でもやったことのない、どうやればいいのかわからない仕事を家臣に放り投げて、それでうまくいくって、どうして思えるんだか!

 ぼくが聞き取りしたところ、信雄もその家臣たちも、伊賀への侵攻前から「これはどうもうまくいきそうにないぞ」ってのは薄々と感じてたらしくて、とにかく形だけ侵攻して、さっさと帰ろうと考えてたみたい。兵糧も馬草も用意してなくて、腰兵糧だけだもの。三日分だけ持っていって、食べ終わったら、すぐ帰り支度だ。

 敵がいつ引くかわかってるんだから、伊賀の忍び慣れした一揆衆にとってはこれほど楽な戦いはなかったろうね。案の定、進撃中は何もなく、兵糧がなくなるっていうので撤退の準備をはじめてから襲われた。

 正直、父上の言う通り、信雄をしばらく勘当させておくのも悪くないかな、と思ったほどだよ。こんなつまらない戦いで死んだ家臣たちが可哀想だ。

 でも、信雄が反省する様子がまったくないのを見て、ぼくの頭も冷えた。

 信雄を勘当せぬよう、父上に申し上げようと思う。ここで父上に勘当されても、弟はなぜ勘当されたかを理解できない。

 ……いや、そうじゃないな。

 信雄は、自分が勘当された理由を理解しないため、全力を尽くすだろう。

 理解してしまえば、きっと後悔する。そのことは信雄も気づいてる。伊賀への出兵は失敗したし、家臣が何人も死んでる。そのことを理解し、後悔し、イヤな気持ちになるくらいなら、理解せず、何もわからない、何も感じないことを信雄は選ぶ。それじゃあ、勘当の意味がない。

 信雄は、頭はいい。でも、心が弱いんだ。

 信雄をどうすればいいのか、ぼくにはわからない。でも、ここでぼくが信雄を見限ってしまえば、信雄を救うことはもう誰にもできないだろう。未来のぼくが、未来の信雄を救える可能性を、ぼくは残しておきたいんだ。

 ぼくは甘いだろうか? 金造はどう思う?


信忠より


尚々書

 父上は最近、気晴らしに鷹狩たかがりをすることが増えたみたいだ。光秀が会えないのも、それじゃないかな。信雄のこともあるし、荒木もしぶといしで、父上は気苦労が多くて大変だと思う。ちょっとずつでも、ぼくが肩代わりできればいいんだけど。


尚々々書

 信雄の件とは別に、羽柴筑前守が調略で気侭きままをやって、しかもそれを自慢気に報告したらしく、父上が大癇癪を起こしてた。筑前守の勝手はいつものことなんだけど、時期がよくなかったのか、それとも調略した宇喜多うきた直家なおいえという武将が父上の気にいらなかったのか。どっちにしても、根回しと気配りを欠かさない、惟任日向守の節度をみんな見習うべきだよ。


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 天正七年(1579年)十月五日。

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信忠様へ


 伊賀のことは聞いていましたが、勘当の話があったのは手紙で初めて知りました。

 それがしは、信忠様の判断は的確で、行動は立派であると思います。

 なぜなら、心の弱さとは、その性が善である故と思うからです。その性が悪であれば、心の弱さに悩まされることはありません。堂々と悪をなし、平然となさるでしょう。

 信雄様の心の弱さと共にある善性はいずれ目覚めると、それがしは思います。

 もっとも、漫然と放置されたままでは、目覚めは遠いと思います。信忠様は、勘当を取りなすことで信雄様に貸しを作ることができたのですから、うまく取り立てて善性を目覚めさせてはいかがでしょう。

 たとえば、今回の伊賀出兵のように、思考が雑なままですと、視野は狭いままです。思考が雑になるほど、自分の主観以外はどうでもよくなりますから。なのでもし、信雄様が普請に興味がおありでしたら、重太が作った普請に関する絵図面の写しを信忠様に送ります。どんなことでもいいので、細かいところまで気になるようになれば、信雄様の視野は広がると思います。


金造より


尚々書

 宇喜多直家という人物について周囲に聞いてみましたが、有能ながら、癖のある人物のようです。主家しゅけ追放や暗殺、裏切りで成り上がったようで、そのへんが信長様の気に障ったのかもしれません。


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 天正七年(1579年)十月二十日。

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金造へ


 やった! 一益いちますがやってくれた!

 一益は伊丹の町を守る足軽頭を調略して味方につけたんだ。一益によると、足軽頭は、自分と足軽たちの赦免のみを求めたそうだよ。村重は一度でも織田を裏切れば、降伏して戻ることは決してできない、と恐怖で足軽たちを縛って戦わせてたみたいだ。

 ぼくは荒木村重という男を見誤っていたかもしれない。敵ならともかく、自分の家臣を恐怖で操るなんて、武士の風上にも置けない。だいたい、父上はどちらかといえば甘い人間だ。信雄のことも、結局は許しちゃったしね。ぼくと二人の時には、村重はともかく、無理矢理に戦わされてる家臣や家族の罪までは問いたくないし、諦めて早く降伏してくれないかな、なんて肩を落としている人だよ。比叡山や上京の焼き討ち、長島や越前の根切りは、父上が追い詰められ、必要に迫られてやった兵法だ。

 ともあれ、味方になった足軽たちの手引きで、有岡城ははだか城になった。

 村重は今は南の尼崎城で籠城しているけど、妻女は有岡城にいる。交渉で妻女を助命する代わりに、村重に降伏と開城を迫れると思う。

 これで、年内の幕引きも見えてきた。

 石山本願寺も、教団内の分裂と抗争、粛清がひどいようだ。ここ数年、石山本願寺は織田にとって軍事的な脅威ではもうない。あれだけ蓄えていた銭もなくなって、玉薬も補充できてないし。

 筑前守が攻めてる播磨の三木城もそろそろ限界だと聞くし、来年はいい年になりそうだよ。天橋立を望んでの連歌の会も、行けるかも。


信忠より


尚々書

 普請に関する図面、信雄が見たがるかどうかはわからないけれど、ぼくは読んでみたいから、写しを作ってくれると嬉しい。



挿絵(By みてみん)


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― 新着の感想 ―
[一言] 手紙のやり取りでの進行、VRゲームものにおける掲示板回を思い出したり。 >書けと強制されたので、一応は書いておきますが ぶっちゃけすぎ(笑)。
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