3:糧道からみた金ケ崎の退き口
元亀元年(1570年)四月二十七日。
近江田中城(上ノ城)の麓にある館。いわゆる下ノ城は、激戦地となっていた。
ここには織田を主力とする幕府連合軍で補給を担当する、兵糧方、小荷駄方、そして勝手方といった役職が集結している。
幕府連合軍は、四月二十二日に近江各地を出撃し、若狭へ進軍。
二十三日、主力の織田勢が国吉城にはいる。元号が永禄から元亀に改元。
二十四日、事前に根回しをしておいた若狭の国衆を服属させ、越前へ進軍。
二十五日、越前敦賀に侵攻。
二十六日、敦賀金ヶ崎城が落城。朝倉勢は木ノ芽峠に退却。
ここまで一気呵成である。幕府連合軍の半分は、長蛇となってまだ若狭国内を行軍中だ。
「誰か! 池田殿の陣がどこにあるか、誰か知らぬか!」
「国吉城ではないのか? たしか書状がきておったはず」
「それは一昨日のことだ!」
「摂津衆は、このあたりには不案内だ。一緒について案内した者がおるはず」
「おおい、米が! 米が来てないぞ! 徳川殿に回す米がどこにも来ておらん!」
「怒鳴るな! わかっておる!」
「怒鳴りたくもなるわ。三河の田舎侍、腹が減るとナニをやりだすかわからんぞ」
「坂本に使いをだせ。兵糧を積んだ船を一艘でも二艘でも、すぐに出せとな」
上を下への、大騒ぎである。
そうでなくとも、前線の動きしだいで兵站は翻弄される。
進撃が順調な方が、情報が錯綜してわからなくなるものだ。
金造もまた、明智家勝手方として喧騒の中にいた。
新興武家の明智家は総勢で三百の小勢であるから、部屋の隅である。
新造は帳簿をめくり、寺の名前と場所を紙に綴って名簿を作る。
「大変な騒ぎじゃな」
「これは、小一郎様」
木下家で倉役を務める小一郎秀長に、金造は頭を下げた。
小一郎は、京奉行の木下藤吉郎秀吉の弟だ。
秀吉ともども、金造とは顔なじみだ。
「手を止めずともよい。去年の秋に兵糧を通した寺、残さず書いてくれ」
「帳簿にすべて記載してあります。書き写せばよいだけ。ですが──」
本当に必要になるのか。
問おうとして、金造は口ごもる。二年前の上洛戦の時も、兵站はずいぶんと混乱していた。進軍速度が速すぎ、小荷駄がどこに行けばいいのかがわからなくなった。
同じといえば同じなのだが、金造には違和感があった。
「此度の越前攻めは上洛戦の時とは違う。わしはそう思っている」
「あ──」
金造は、小一郎の顔を見た。ふっ、と小一郎が柔らかい顔になる。
「うちはな。兄があの通りのお調子者だで、うまく行くときと、行かんときとで、どえりゃあ差がつくわ。このところは、うまく行っとったで、兄は京でお奉行勤めができるようになったが、ま、いかんときは、いかんわな」
金造はうなずいた。光秀と秀吉は、よく似ている。
金造の主君である光秀の明智家は、美濃の守護土岐家とつながりがあったというが、三代くらい前からは牢人暮らしに近い。系図も怪しい。
小一郎や藤吉郎の木下家も、先祖はそれなりの家柄であったというが、これまた三代くらい前からは、村の庄屋である。系図はなきに等しい。
出世できたのは、どちらも幸運だったからだ。
幸運がめぐってきた時に、逃さず掴む度胸と、活かす才能があってこそではあるが。
そして、幸運はいつまでも続くものではない。
「わしゃあ、兄があかんかった時に備えて、逃げ道を用意するんが仕事よ」
「それがしの書いている名簿に記載した寺が逃げ道、ですか」
「おうよ」
去年の秋に、明智家は近江から若狭へ進軍し、道々を荒らす者を膺懲して帰還した。その時に、明智勢の宿所と米を提供したのが近江北部の寺だった。
半年が経過した今も、米の支払いはしていない。
寺からは催促が何度も来るが、小一郎からすれば、そこが狙い目でもある。
「取り立てが期待されとる間は、これらの寺から切られることはないからの」
「……そこまで、気をつけねばなりませんか」
「わからん。この混乱の裏で、誰かが何かをしとるのは間違いないが、そこまではさっぱりじゃ」
「小一郎様でもわかりませんか」
「わしらにわかるのは、銭と米の現場だけじゃで。だもんで、兄にならともかく、織田の殿様や、公方様にご注進とはいかんわな」
「はい」
現場にいれば、視点が低いゆえに見えるものがある。
現場にいるだけでは、視点が低いから全体の模様までは見えない。
そこに。
「小一郎殿。よろしいか」
年配の武士が話しかけてきた。
金造は初めて見る顔だ。五十代半ば。骨ばった顔に大きな目玉がついている。
「これは佐渡守様。いつこちらに」
「今しがただ。気になる情報があってな……こちらは?」
ギョロリとした目玉が金造に向けられる。
「明智十兵衛光秀が家臣、秦創金造です」
「明智殿の家臣か。ならそなたも聞くがよい」
「金造。こちらは林秀貞(*注1)殿だ。織田の家宰を務められる」
新五郎秀貞は、織田信長の父、信秀の時代からの宿老だ。
普段は岐阜城で内政を専らとしている。
金造や小一郎より、高い視点を持つ武士だ。
「海津と塩津から敦賀への街道筋。どこも馬草を積んでおらんそうだ」
「馬草を?」
馬匹は大量の馬草を食う。
そして馬草は嵩が張る。
道沿いに馬草が集められて山となる景色は、戦の予兆を示すものだ。
「浅井殿は、此度の越前攻めにおいては兵は出さぬのでしたな」
「兵は出さぬが、兵糧を出す約定だ。兵糧を出すには、大量の馬がいる。浅井が保有する馬を総動員せねば、万を超える軍勢の米は運べぬからな」
「浅井は、長く良好であった朝倉との関係を利用し、事前に敦賀で米を買い付けておるから、倉を開ければよいという噂もありましたが……」
「根も葉もない噂だ。浅井から敦賀に、銭が動いた様子はない」
小一郎と秀貞の会話に、金造は青くなった。
米は四斗俵であれば、馬一頭で二俵を運ぶ。
兵一人に一日五合の米を支給するとなると、一俵で約八十人分。一万の兵を一日食わせるだけで六十頭の馬が、毎日、近江から越前へ向かわねばならぬ計算になる。
海津から疋田越えで敦賀までの街道は七里半(約30km)。山道であり、一日で往復は難しい距離だ。事前に二倍から三倍の馬匹の用意が必要となる。領内から集めた馬は、仕事があろうがなかろうが、毎日、馬草を食う。
「御味方の兵は、総計でいかほどでしょう」
「京では三万を号しておるが、織田で用意した美濃尾張の兵が一万と少し。摂津、山城、大和、近江はいずれも千に満たぬ。三河衆が気張って千余り。合計で一万五千と見ておる」
「それがしも同じ見立てで」
「浅井がこたびの戦で公方様に馳走しようというならば、最低でも百頭。できれば二百頭の馬と、馬草を用意しておかねばならぬ。だがその様子はない」
敦賀と海津、塩津の間の街道は、商人も行き交う交易路となっている。馬借が宿場ごとに数頭。日々刈り集める馬草も、そのくらいだ。万の軍勢を動かすには、とうてい足りぬ。
「明智殿の──金造だったか。御味方にどのくらいの兵糧があるか見立ててみよ」
「制圧した若狭でどれだけの米を調達できたかによりますが、二日とみます」
「そのくらいだろう。小一郎殿。金ヶ崎城に米はどのくらいあったと思う」
「一日で落ちた城です。空とみるのが正しいでしょう」
「そうだな。さて、これはまずいぞ。まだ麦も実る前だ。畑も刈れん」
敦賀をおさえたはいいが、朝倉勢は無傷で木ノ芽峠に撤退している。
本来なら、ここからは交渉で朝倉を屈服させる流れだ。
交渉に時間がかかれば、先に米が尽きる。
敦賀で商人や寺社の倉を暴けば少しはもつが、兵を小分けにして略奪して回れば、今度は朝倉勢の反撃を受ける危険があった。
「何があったかは存じませんが、浅井の長政殿は織田殿の妹婿。今からでも馬を用意していただくよう、お願いはできませんか」
「手紙は送っておる。だが、反応がない」
小一郎の言に、秀貞がギョロリと目をむいた。
金造は悟る。信長の妹の市が輿入れした際、織田は連絡員として忍びを市の周辺に用意したはず。そこからの反応がない。始末されたか、身動きが取れない状態にあるのか。
糧道を担当するはずであった浅井が、まったく動いていないのだ。背後にどのような理由や思惑があるとしても、兵糧を担当する者としては、浅井はすでに敵だと思った方がいい。
金造は秀貞に膝を詰めた。
「米を運び入れましょう」
「どこに? どうやって?」
「海路で敦賀に」
「海路だと? どこからだ?」
「丹後から。御供衆の一色藤長様は、惣領家が丹後の守護の家柄です。今回の出兵でも、丹後の水軍衆を利用して海から越前を劫掠する予定と聞きおよびます」
「詳しいな?」
「我が殿と藤長様が相談している場におりましたゆえ」
「続けろ」
「小早船であれば、一艘で三十俵の米を運べます。これを敦賀に入れます」
「小早が十艘で米三百俵か。二日で一往復できれば当座の米は持つな。金造。明智家から藤長殿に話を通せるか?」
「日程からして藤長様はすでに海に出ておられます。丹後栗田の川嶋殿には、父が縁を持っております。その伝手を頼ります」
「この場ですぐ書け。わしが連署し、織田家として使いを出す」
「はっ」
金造が書をしたためると、秀貞が名と花押を入れた。
いつの間にか目つきの鋭い若者が秀貞の傍らにいた。秀貞は若者と連れ立って館の外に出た。
小一郎が、金造に声をかける。
「すまぬが、寺の名簿も急ぎ頼むぞ」
「はっ」
「丹後の水軍衆は間に合うまいからな」
「……」
「悪い話ではないぞ。へたに間に合うのは、かえって危険だ」
「間に合ってはまずいのですか?」
「御味方が敦賀に残っても、何かの拍子で大崩れよ。ここは逃げの一手じゃ」
「あの……今、思い出したのですが、こたびの朝倉攻めには、公家の方が同行しておられます。日野様と、飛鳥井様です」
「ほうか。公家衆には災難だが、信長様にとっては朗報だ。信長様は公家衆と同行して落ちられよう。落ち武者狩りを防ぐため、朽木に兵を頼もう」
「倉に公方様の米を預かっております。朽木に送ります」
「よし。信長様と公家衆が落ちれば、兄や明智殿は兵をまとめて後からだ。朝倉の追撃もあろう。無事に帰り着ければよいが」
「苦戦はしましょう。ですが、大丈夫かと」
「なぜそう思う?」
「米がないのは、朝倉も同じです」
「なるほど。大々的な追撃をするには、米を運ばねばならぬか」
「朝倉の追撃は腰兵糧のみ。越前を出たところで止まりましょう」
金造の言葉に、小一郎が頷く。
浅井が糧道を絶った敦賀には米がない。
危険があるとすれば、朝倉の追撃を振り切ったあと。
丹波を通過する時の土民の──寝返った国衆が指揮する──襲撃である。
こちらは、かなりの損耗が予想された。
「丹羽長秀殿に書状でこちらの様子を伝えておく」
「お願いします。それとできました」
金造は帳簿から書き写した寺の名簿を差し出した。
「よし! 写しを兄や皆に配るぞ。ここにある寺は米が出せるとな」
「念のため、名簿の出どころは隠してください」
「わかっとる。では朽木に行ってくる」
「お気をつけて」
小一郎を見送った金造は、気を散じようと淡海を眺望する。
湖面を行き交う船が見える。地方から京へ続く物流は、維持するだけで大量の事務処理を必要とする。平安の御代は識字率が低く、事務処理を提供できたのは寺社だけだ。
鎌倉、室町と時代が移るにつれて武士も事務処理に長けてきたが、淡海周辺では寺社の優位が揺らぐことはなかった。
便利ではある。
此度のように、逃げ帰ることになっても、兵糧を頼る先があるのだから。
──だが。
二年前の上洛戦で、織田勢が思うがままに暴れ、六角、三好をたちまち撃破できたのは、興福寺とつながりの深い義昭と、それを奉じる信長を、寺社が“消極的に”支持したおかげだ。そして義輝死後の混乱を治められない三好勢を寺社は“消極的に”見限った。
寺社の誰かが音頭を取ったわけではない。示し合わせてもいない。なんとなくである。
それなのに織田勢はどこにいても米が届き続け、三好勢はどこにいても米が不足した。
──これが逆転すれば、どうなるか。
どれだけ精強な武士団も、米が届かない場所では戦えない。
寺社に見限られれば、三好勢の落日は他人事ではなくなるのだ。
金造のこの不安は、すぐに的中することとなる。
元亀争乱と呼ばれる長く辛い戦いが始まろうとしていた。
*注1 林秀貞は、林通勝とも