29:天下静謐への道
天正七年(1579年)。五月。
明智家京屋敷にいる光秀に、丹波にいる斎藤利三からの書状が届いた。
利三は今、丹波方面軍二千を率いて八上城(現:丹波篠山市)の包囲を行っている。二千の内訳は、明智家の派遣軍千と、丹波国衆の千だ。
「利三にしては、綺麗な字だな」
「文は重太の字ですね」
「重太は日吉神人の息子だったな。今年で何才だ」
「十六才になります。京屋敷の下人として雇ってから八年です」
「もう、そんなになるか。童の成長は早いな」
「物覚えはいいですし、計算は早くて正確ですし、字も綺麗です。それがしの自慢の弟子ですよ」
「利三との相性もよいみたいだな……どれどれ……ふむ」
書状は、黒井城(現:丹波市)の包囲についての話だった。
これまで荻野・赤井の所領となっている村から、明智に服属したいと申し出があったのだ。
「黒井城の裏手にある、由良と香良から、制札と安堵状を求められたとあるな。由良はあれか。上賀茂社の荘園があったところか」
「はい。今年に入って、丹波平定が成った暁には、どうぞよしなにという付け届けがきております。利三殿にも」
「香良はその近所か」
付城によって包囲された八上城が落城間近であることは、すでに知れ渡っている。
城主の波多野秀治からは、何度も助命退城を訴える書状が届いているが、光秀は拒絶を続けている。ここで羽多野氏に息を吹き返されては元も子もない。確実に始末をつけるつもりだ。
八上城が落ちれば、次は黒井城となる。
道を普請し、付城をつなげていく光秀の手立ては、山がちな丹波の地勢を逆手にとるものだった。
戦において丹波が難所であるのは、深い山と古い道が、寄せ手の侵攻を阻んでいるためだ。大軍を送っても補給が続かず、撤退に追い込まれる。守る側は、山の中の城に兵糧を持ち込んで籠城すれば、粘り勝ちできる。
だが、籠もった城の周囲を道で切り開かれ、付城で囲まれれば、今度は深い山と古い道が逃げ場を失わせてしまう。毛利や石山本願寺など、反織田連合と同盟を結んでも意味はない。援軍も来ないし、兵糧も運べない。
「こちらが安堵したことで、由良と香良が萩野・赤井に攻められる心配はいらぬのか?」
「こちらに、重太が見積もった図面が。村の連中が逃げ城に兵糧を入れて立てこもれば、国衆の兵力では太刀打ちできません。誰もいないので、村の畑や田んぼを荒らすことはできますが……」
「村を領地として維持したいなら、それでは意味がないな。よし、安堵状を出そう」
光秀は、由良と香良を安堵する書状を口述した。金造が本文を書き、光秀が署名と花押をつける。
「この手法。他でも使えるかもしれん」
「丹後平定で、でしょうか」
「いやいや。その後だ。天下静謐をなすために必要なことだ」
「天下静謐、ですか」
話が飛んだな、と思い金造は光秀に確認する。
「金造よ。天下静謐を妨げるものはなんだと思う」
「争いが続く理由、ということであれば……やはり境目争いでしょうか」
「うん。境目だ。百姓でさえ田畑の境界で争う。村となれば水源や山の境界でも争う。年貢がからめばさらにややこしい。そして境目の争いを治める方法として、武士が頼られ、国衆が争い、大名もそこに巻き込まれる」
戦国大名はこの時代の権力者だが、権力者は権力を使う力を持つと同時に、権力の求めるものに縛られもする。
百万石の大々名であっても、小さな村の境目争いに巻き込まれるのが戦国の世だ。
細かいところにこそ、この世の本質がある。細かいところを無視して大きなところだけで世を渡ろうとする権力者は、細かいところの実務を握る者たちに権力を奪われる。
金造には、納得のいくところだ。金造は商家の出だ。
大店の主が、細かい日々の銭のやり取りを自分では帳簿につけず使用人に任せるようになったとたん力を失っていくのを、いくつも見聞きして育った。
「由良と香良は、地元の国衆ではなく、中央を、明智を頼った。以後の年貢は明智に納める。国衆の懐には入らん。強い国衆は滅びる。弱い国衆や地侍は武士として明智が雇う。丹波の権力と武力が明智に集中する。一円支配が進む」
「領内で境目の争いがあれば、明智が定めるのですね。そして、他国との境目の争いがあれば──」
「明智が他国に出向いて片をつける。手段は戦とは限らん。国同士の争いであれば、相論で決着もつこう」
「人の世に争いの種はつきませんが、火種のまま消せるようになるわけですね」
「そうだ。それこそが、天下静謐よ。見えてきたな」
「細かい運用規則は、これからですが。先は長いですよ」
「一代で終わる仕事ではなかろうしな。せめて信忠様の代で終わらせたいものだ」
光秀は光明の見えた思いとなり、広い額を久々に輝かせた。
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明智家京屋敷から少し離れた場所に二条館がある。
そこの寝所に入った信長は、眉間を揉んでため息をつく。
筆頭家老の佐久間信盛と深夜まで交わした激論のせいで、頭が痛い。
──信盛め。手加減というものを知らぬ。
松永久秀。別所長治。荒木村重。
立て続けに起きた謀反を、今後いかに防止するか。
信長と信盛の意見は真っ向から対立した。
信長は、監視と密告を制度化することで、謀反の芽を摘む方法を主張した。
信盛は、地方自治を推進することで、謀反の必要性をなくす方法を主張した。
「監視と密告は、うまく機能している限り、謀反を防止できるでしょう」
「機能せんか」
「はい。猜疑心を根っこに置く制度は、長続きしません」
「なぜだ」
「何かのきっかけで、目付からの報告が滞る。報告内容を間違える。制度ではよくあることです。ですが、猜疑心が制度の根幹にあれば、滞留や間違いそのものが、疑念を呼びます」
「む……」
「疑念は双方向に働きます。目付とて、自分が疑念を抱かれていると思えば、なんとかしてその疑いを晴らそうとするものです」
「誇張。歪曲」
「はい。目付の報告は大げさに、不正確になり、疑念の矛先を自分以外の他者に向けようとするでしょう」
“Quis custodiet ipsos custodes?”(誰が見張りを見張るのか?)は、古代帝国の時代から続く、統治制度の宿痾だ。
「だが、そなたの自治権拡大」
「はい」
「理想にすぎる」
「はい。世代を重ねた先の形です。各地の大名が自領を一円支配する。寺社や公家の介入は許さず、守護不入はなしとします。今川の『仮名目録』など、各地の分国法が役立つでしょう」
「現実が大事だ。今。すぐに。信忠の役に立たねば意味がない」
「信忠殿は、ああ見えて芯の強い御方です。我々が未来の形さえ示しておけば、着実に一歩ずつ、実現に向かわれるでしょう」
「ふんっ。どうだかな」
信長は顔をうつむかせ、盃を口元に運び、上目遣いに信盛を睨む。
小姓らであれば、小便を漏らしかねないほど圧のある目だ。
なお、本当は信忠を褒められ、ニヤける口元を隠すための姿勢である。
そのことを信盛もわかっているが、あえてわからぬふりをして頭を下げる。
「今。すぐに。となりますと──やはり、日向守と筑前守に働いてもらうしかありますまい」
「羽筑は勝手せんか」
羽柴筑前を縮めた呼び名を使い、信長は秀吉の危うさを指摘する。
秀吉は織田家中一の知恵者だが、それゆえに、根回しなしで仕事を進めようとする。秀吉の一職内であれば、秀吉が育てた有能な家臣たちが死ぬほど働いてなんとかするが、織田家全体の仕事となれば、そうもいかない。
「だからこそ、日向守と組ませるのです。日向守は、有能ですが──臆病者です」
信長が驚いて顔を上げた。信盛が家中の誰かを悪く言うのを、初めて聞いたからだ。
信盛が、ニヤッ、と笑う。
「あいつは、わしと一緒です。信長様とも一緒です。わしらは三人とも臆病者です。臆病だから、自分が失敗する可能性を常に考える。うまくいかなかった時に、どうすればいいかを考えておく。日向守の普請による丹波攻め。たいしたものです」
「天正四年正月」
「そう! それです! 羽多野の裏切りで順調にいっていた黒井城攻めが頓挫した。あの敗戦を、あれほどに少ない損害で切り抜けた。これが十年前まで牢人していた男の戦かと驚天しました。負け戦にこそ、その者の真の将器はでます」
「で、あるか」
信長は、自分が目をかけている光秀を信盛が高く評価しているのを聞き、よい気分になる。信盛との会話はいつもこうやって、信長の不安定な感情がうまく転がされて進む。
「ですので前線の諸将に対しては、もう少し手綱を緩めてもよろしいかと」
「む」
「諸将が失敗を恐れすぎ、信長様の叱責ひとつで我が身は終わりだと感じてしまうことが、荒木村重の謀反にもつながっておるかと思います」
「むむ」
その後は、徹底的に信盛にやり込められるのだが。
信盛が去った後、寝所に入った信長は痛む額を手で揉んだ。入ったばかりの小姓が、幼い顔に心配そうな表情を浮かべる。
「信長様。白湯をお持ちしましょうか」
「うむ」
白湯を用意する小姓の所作に、信長の鋭い目が向けられる。深夜まで付き合わされて眠いだろうに、動きに澱みがない。佳い。
信長的には愛でているのだが、小姓は心臓がバクバクと破裂しそうだ。
「そち」
「はっ、はいっ!」
声は震えても、白湯はこぼさない。細くて薄いが体幹はしっかりしている。ますます、佳い。
信盛と激論を交わしていた時も、小姓が部屋の外に控えていたのを信長は思い出す。
「信盛をどう思う」
「え」
「言え」
信長にしてみれば、さほど深い意味のある問いではなかった。
見目の佳い小姓に、信盛に叱られた自分が醜態を晒してないといいな、くらいの気持ちである。
「佐久間様は、え、織田家の筆頭家老様で、あのっ」
「まやかすか」
「いえっ、そのようなことはっ」
「言え」
「はっ」
小姓は覚悟を決め、唇を引き締め、背を伸ばす。
この場で信長に手打ちとされても恨むまい、と心に決める。
「我が存念を申し上げます」
「うむ」
「憚りながら、佐久間様はご自分のお役目を果たされていないと思います」
想像していたものとまるで違う答えに、信長は不意を打たれた。
「……ん?」
小姓はあどけなさの残る顔に強い覚悟を浮かべ、朱色の唇を開く。
「信長様に向かって、あれこれ舌を動かす前に。まずはご自分の手を尽くして石山本願寺を攻め落とされるべきでありましょう」
小姓の曇りなき眼は、ひしと信長に向けられ、キラキラと輝いていた。




