24:平蜘蛛の行方
天正六年(1578年)。
正月が過ぎ、安土城から坂本城へ光秀が戻ってきた。
金造は、帳簿を横に光秀を出迎える。
「おかえりなさいませ。安土城はいかがでしたか」
「年賀の出仕のあと、御殿のお披露目があった。狩野永徳の画とか、驚目であったな。それと信長様から茶器をもらったぞ。宗久殿を招いてお披露目せねばな」
「茶器、ですか」
「うむ。八角釜だ」
「なるほど」
「金造は本当に、こういうのに興味ないのな」
「仕事が忙しいんですよ」
「それについては、すまんな」
明智家の勝手方である金造は、年末年始も仕事である。
少し前までと違い、今の明智家は銭や米を借りるだけではなく、貸す側にも回っている。
公家にも、与力となった国衆にも、時には織田家の他の宿老たちにも。
貸すということは、つまりは取り立ても行うわけで、作業量としてはこっちの方が大きい。それに、貸すといっても蔵にある銭や米の余裕がそう増えたわけではない。
明智家が持つ、織田政権の宿老としての“信用”を担保にして金造が銭や米を集め、それを、公家や国衆に貸し付けているのだ。
これがまた、よく焦げる。戦がある。天災も襲う。予定していた収入が入らず、返そうにも返せない者たちが金造に泣きついてくる。
焦げたからといって、見捨てるわけにもいかない。借財というのは、常に「今が最善」なのだ。少し待てばよくなるかもという甘い気持ちでは、金利で確実に地獄に落ちる。それくらいなら、新たな借金をして付け替えた方がマシなこともある。
問題は、「今」の時点で、なんともならない場合も多いということだ。
「徳政令が必要になるかもしれません」
「そんなに悪いか」
「石山本願寺との戦が長いですからね。元亀元年(1570年)から数えて、今年で八年目になります」
「もう、そんなになるか……徳政令出すとしたら、どのへんだ」
「摂津と河内は絶対に。両国の国衆が抱えた借財は、限界をとっくに突破しています。今も破綻していないのは、佐久間殿が必死に支えておられるからです」
「信盛殿はなー。なんでもできるお方だから、つい甘えちゃうんだよなぁ。わしもそうだし、信長様もそうだ。感謝しかない」
光秀は信盛がいるであろう、東の安土の方角に手を合わせて拝む。金造も一緒に拝む。
石山本願寺の包囲を担当している佐久間信盛は河内、和泉、大和、紀伊を中核に七ヵ国の国衆を動員する権限を有している。だが、迂闊な動員を行えば、これらの国衆は債務不履行の連鎖でバタバタと破綻しかねない。信盛は動員を可能な限り低く抑え、勧農の励行、堤や道の普請、商業作物の植え付け支援、頼母子講の斡旋など、あの手この手で国衆と農民が「借金は返せないが、食ってはいける」状況を作っている。律令の時代と違い、今はどこも自給自足の比率が低い。ただ食べていくためだけでも銭を稼がねばならないのが、室町の時代の難しさだ。
「徳政令か……さすがにすぐには無理だな」
「はい。ですが、代替わり徳政を出すなら、今から影響範囲を調べておきませんと」
徳政令は債権の棒引きである。貸す側にとっては損に見えるが、どれだけ待っても返済の可能性が皆無な債権を抱えることは、貸す側にとっても重荷である。
なぜなら、借りた側が返済不可能な債権というものは、貸す側も複数の債務で銭や米を用意して貸し出しているものだからだ。
「それがしが去年一年間の帳簿を整理した結果として申します。これ以上、石山本願寺と銭で戦うのは、悪手です」
「悪手か」
「銭の戦いは、銭を増やす力が強い方が勝ちます。織田は武では天下に並ぶことなき力をもち、その武を“信用”に変えて銭を増やしています。ですが、本願寺の銭を増やす力にはかないません」
「念仏の力か」
「はい。本願寺は、仏の力を“信仰”に変えて銭を増やしています」
この時代の日本経済は、おおむね貨幣経済と呼べる状況にある。
貨幣経済では、貨幣の量が経済規模となる。貨幣の供給や、信用が不足すれば、経済規模が縮んで不景気になる。信長の撰銭令も、鐚銭と呼ばれる信用の低い貨幣を流通の中に組み込んで、経済規模全体を底上げするための施策であった。
だが、この時代にあっても、取引のかなりの部分は、貨幣の裏付けを持っていない。古代から大陸の貨幣を用いて経済を動かしてきた日本では、貨幣が経済規模に見合う流通量になったことなど、一度もなかった。
貨幣の不足分には、何らかの担保が必要だ。
戦国大名は年貢や、戦の勝利など、“信用”を担保にしている。
同じように、寺社は“信仰”を担保にしている。
「念仏を唱えたら、銭が増える。“信用”経済ならぬ“信仰”経済かあ……勝てんわ、それは」
「しかも八年の間に石山が“信仰”貸しした分が、彼ら自身にも返済不可能な規模に膨れ上がっている可能性があります。石山本願寺を焼き払ったり、根切りにしたら、そいつが弾けるかも」
「弾けたら、どうなる? 比叡山の時は、さほどでもなかったろう?」
「わかりません。比叡山を焼いた時に弾けなかったのは、“信仰”貸しの総量が少なかったせいかも。延暦寺とか、銭には困ってませんでしたし」
「石山本願寺だって、さほど銭には……あ、ごめん。戦が始まってからは、すごい困ってるわ。困らせたわ。わしらが」
八年間。
石山本願寺は、海路で兵糧を集め、鉄砲上手を雇い入れ、焔硝も鉛も海外から買い付けている。最初は銭でも支払っていただろうが、今はほぼすべてが“信仰”貸しだ。
“信仰”貸しの負債が弾ければ、巻き込まれて堺も吹き飛ぶ。
「“信仰”貸しを弾けさせないためには、石山本願寺と和睦し、石山を退去させるしかないのだな」
「はい。堺を失えば、織田は焔硝の一大供給拠点を失います」
「敵だらけの状況で、それはキツいな」
光秀は、ゴロリと床に寝転がり、織田信忠の話を思い出していた。
──これは事故だ。
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天正五年(1577年)10月1日。
馬ヶ背城の陣にて。
「ぼくが思うに、これはたぶん……事故だ」
督戦という名目で訪れた信忠は、光秀にそう語った。
「事故?」
「ねえ日向守、弾正少弼がどういう人物かは、きみもよく知っているよね」
「は」
松永久秀。
信長の前の天下人であった三好筑前守長慶の股肱の臣である。
戦上手で、多聞山城にみられるように、城作りも名人であった。
美的感覚にも優れ、茶器の目利きでも知られている。
長慶の死後は三好から離れ、義昭の上洛を助けて幕臣となった。
義昭と信長の対立後は織田につくことになったが、強者に阿るような下品な男ではない。
「……それだけに、今回の久秀殿の謀反には、納得のいかぬ思いがありました」
「うん。ぼくも同意見だ。それに、久秀じいちゃんは、ひどく茶目っ気のある人だった。ぼくが最初に会った時、こういうことがあったんだ──」
まだ奇妙丸と呼ばれていた童の前に、久秀は珍しい壺を二つ、並べてみせた。
南蛮船が呂宋から運んできたのだという壺は、黒褐釉の、味わい深い色合いをしていた。
「ほとんど同じ形、同じ色合いの壺で。久秀はどっちがいい壺だと思うか、ぼくにたずねた。これは試されてるな、と思って必死に違いを探したよ。でもよくわからなくて。しょうがないから、適当に片方だけを選んだんだ」
すると久秀は、その場で、もう片方の壺を叩き割った。
そして、びっくりした顔で固まる奇妙丸(信忠)に、残った一つを献上した。
「目も口もまんまるにしたぼくに向かってさ。『奇妙様の呂宋壺は、これで天下に二つとない名品となりましたぞ』って呵々大笑するんだよ。何がなんだかわからなくて、ぼく泣きそうになっちゃったよ。まったく、童相手にさー。希少価値とか言われてもわかんないよ」
信忠は下をむいて、ため息をつく。
顔を上げた時、信忠の瞳には冴え凍る煌きがあった。
「久秀じいちゃん。父上に内緒で、石山本願寺の切り崩し工作をやってたんだと思う」
「信長様に内緒で……また危険な真似を……」
「成功して本願寺を屈服させることができたら、久秀の武功は末代まで残る。そして、久秀の力量を見抜き、引き立てた筑前守の眼力の確かさも」
「筑前守の……それは……」
「久秀じいちゃん、年を重ねるほどに筑前守のことが気になってたみたいでさ。なんか最後にデカい事をして、名前を残したかったみたい。父上の前に、三好長慶って天下人が京にはいたんだぞ、って」
「そうだったのですか……」
「とはいっても、劣勢の石山本願寺の懐に入るのは簡単じゃない。そこで久秀じいちゃん、もう一手、父上にバレたらヤバい手を打った」
「この上、何をやらかしたんです」
信忠は、何か平たいものを捧げ持つ手の形をしてみせた。
「自分が本気で信長を裏切り石山本願寺に賭けるって証に、茶器を献上してみせたんだ。父上がどれだけ欲しがっても、断り続けた名物を」
「まさか──平蜘蛛。平蜘蛛の茶釜ですか!」
「うん。名物、古天明平蜘蛛。あれは今、石山本願寺にある」
光秀は、人生の最後の日々に豪胆な賭けをした久秀の行動に心を強く揺さぶられた。
同時に、知ってたら殴ってでも止めたのに、とも思う。
「……それで。どこから、誰に、漏れたんですか」
「そこがどうも事故っぽくて……父上が、久秀じいちゃんに、また平蜘蛛の茶釜をよこせって手紙を送ったらしい」
「え。いつです」
「京で前関白の前久殿の息子の信基殿の元服をした後だから、七月の下旬。内容も、じいちゃんもそろそろ隠居したいだろうし、平蜘蛛をくれたら、安土城に隠居部屋を用意するから一緒に住もうって感じで……」
「えええ……それは……秘密が漏れたのではなく……」
「うん。父上のいつもの、相手に伝わりにくい系の冗談なんじゃないかと思う」
「ですが、久秀殿はそうは思わなかった」
「そうだね。父上にバレたと思うだろうし、動揺していろいろまずいこともやらかしたみたい。結局、その流れで……」
覚悟を決めた久秀は天王寺砦に火を放ち、信貴山城に籠もる仕儀となった。
「この件、他に誰が」
「ぼく。光秀。それと信栄と信盛の親子。父上も、今頃はもう、わかってる……と思う。ぼくが気づいてることも含めて」
「どうなさいます」
「久秀じいちゃんに、最後に一回だけ、『平蜘蛛を差し出したら、父上にとりなす』って伝えようと思う」
光秀は考える。
差し出そうにも平蜘蛛はすでにない。
では、信忠の言葉は久秀にとってどんな意味を持つか。
──このじじいに、見栄を切って死ねと。奇妙丸様はそう仰せか。
最初は事故とはいえ、久秀は最後には自らの意志で信長に叛旗を翻した。一族と家臣を巻き添えにして。そこに弁明の余地はない。どんな結果であれ、責任は取らねばならない。
「よき、お考えかと思います」
「ありがとう」
三好長慶の股肱としての矜持を掲げて果てるのならば、最後は堂々と。華々しく。
久秀と信長の間に誤解などなかった。「天下一の名物を、信長にくれてやるわけにはいかんな」と笑って腹を切れば、それで名が残る。
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「光秀様。寝るのでしたら、ご自分の部屋に──」
金造の声に、光秀は目を閉じたまま、口を開く。
「金造。信忠殿と文をやり取りしてるそうだな」
「はい」
「よい方だ。これからも、お支えしてあげろ」
「はい」
信忠はまだまだ頼りないところもあるが、天下人の後継者として得難い資質を持つ。
他者の面子を大事にするところだ。
天下統一までの艱難辛苦は信長と、光秀ら家臣団が背負えばよい。
光秀はこの時、そう考えていた。




