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22:天下人の決心

 の国。

 紀伊きい国の古い呼び名は、鬱蒼と生い茂る樹木からきている。

 大陸プレートに押し出された地質体が、海洋プレートの沈み込みを受けて太平洋側に突出して隆起した紀伊半島は、雨の多い湿潤な高地である。

 豊かな自然の景観は深い信仰をはぐくんだ。大陸から仏教が届いた後には土着の自然崇拝と混じりあい、熊野三山などの巡礼地が生まれた。


 交通の便はよくない。


 深い山を越えて人々を結びつけるのはまつりごとでもあきないでもなく、信心しんじんだ。信仰の持つ、深いが弱い力の届く範囲は狭い。人々は寺社を中心に独立性の高い共同体を作って生活した。時代が平安から鎌倉、室町へと移り変わっても、紀伊での暮らしに大きな変化はなかった。


 ただひとつ、鉄砲をのぞいて。


 豊かな自然の中での暮らしは、狩猟なくして存在し得ない。

 紀伊での鉄砲は、兵器としてより先に狩猟道具として普及した。仏教は殺生を忌避するが、人間社会は原則として現状追認で動く。「だって仕方ないじゃない」はあらゆる戒律の上位に存在する。免罪の社会的手順を組み込めば、信心と殺生の両立は可能だ。

 鉄砲上手が増えてくると、傭兵としての需要も高まる。

 紀伊の鉄砲撃ちは、各地の戦へと駆り出された。

 石山本願寺と織田政権の戦いが激化すると、傭兵として石山本願寺に雇われる者が多くなった。石山本願寺は、傭兵の供給地としての紀伊を確保するため、信仰の影響力を最大限に活用した。

 しかし、それは諸刃の剣であった。

 石山本願寺から押し寄せる念仏ナムアミ将校コミッサールの信仰圧力は、それ以外の宗派に危機感を与えた。単独では真宗に抗しきれない弱小宗派は、現状を打開するために外部勢力を引き入れる決断をする。

 敵の敵は味方。

 織田信長を頼ったのだ。


 天正五年(1577年)、二月十六日。

 和泉いずみ香庄こうのしょう(現:大阪府岸和田市)に織田領の各地から一万五千の兵が集結していた。この中には、光秀が指揮する明智勢千も含まれる。普段であれば後方で補給計画の作成と連絡を行う金造もまた、光秀と共に香庄こうのしょうにきていた。


「君が秦創はたつくり金造きんぞうだね。父上と惟任これとう日向守ひゅうがのかみから聞いているよ。聡明で頼りになる勝手方かってがただと」

「はっ。過分な評価、恐れ入ります」


 金造は年下の若者に頭を下げる。

 金造は数えで二十四才。光秀の側近として入洛じゅらくして九年、急成長する明智家の中で、勝手方として実績を積み重ねてきた。


「兵糧周りは、君に任せれば大丈夫だと聞いている。よろしく頼むよ」

「はっ。微力を尽くします」

「じゃ。お願い。ぼくは疲れたから休ませてもらうよ」


 若者はあくびをすると、ひらひらと手を振って立ち去った。

 金造はしばらく頭を下げたままの姿勢を保ち、小さくため息をついた。


 ──仕事の邪魔をしないのであれば、十分のはず。


 金造は内心にある失望を、理路りろでつついてしぼませる。


 ──初陣も、その後も、大過なく務めておられる。


 こたびの雑賀攻めにおいても、濃尾のうび国衆の寄り合い所帯である五千の兵を動員し、行軍させ、ここ香庄こうのしょうまで無事に連れてきている。

 先々に兵糧がすでに準備されているのだから行軍が滞るはずはないのだが、それでも若い身空みそらで五千の兵を予定通りに動かせたのは、それなりの才覚である。


 ──お父上が偉大すぎるのだ。ただ、それだけだ。


 若者の名は、織田おだ信忠のぶただ幼名ようみょう奇妙丸きみょうまる

 数えで二十一才。すでに秋田城介あきたじょうのすけの官職を得ている。官位は正五位下しょうごいのげ。武家としては破格の出世だ。むろん、本人の実績ではない。父の引き立てがあればこそだ。

 信忠の父の信長は、生ける伝説である。

 十九才で尾張半国の分限ぶんげん相続から始まり、尾張統一、桶狭間、美濃争奪、上洛戦、朝倉・浅井戦、比叡山焼き討ち、将軍追放、伊勢長島の根切り、長篠の戦い、越前再征……数々の武功ぶこうに彩られた下剋上せんごくドリームの体現者だ。

 比較されては、信忠もたまるまい。


 二月十八日。

 織田勢は佐野浦さのうら(現:大阪府泉佐野市)に陣を張る。

 佐野浦のみなとには、織田勢のための兵糧として米一千俵がすでに届けられ、複数の蔵に積み上げられている。蔵といっても、柱と屋根があるだけで壁はない。


「これはまた、たいした量だね」


 金造が帳簿を広げて小荷駄に指示を出していると、ぶらぶらと信忠がやってきた。

 金造は会釈だけして、仕事を続ける──続けようとした。


「ここにある兵糧、濃尾うち明智きみの軍だけじゃないよね。他のも全部まとめて、きみが差配するんだ」


 猫のように音もなく近づいてきた信忠が、金造の背中から帳簿をのぞきこんだ。

 金造は「うひゃっ」と小さく悲鳴をあげる。


「あっ、あっ、秋田城介あきたのじょーしゅけ様っ!」

「ごめん、ごめん。邪魔をするつもりじゃなかったんだ」


 信忠がひらひらと手を振って数歩下がる。


「どうぞ、仕事を続けて。もう邪魔はしないよ」

「あ。はい」


 それでも、じっと見つめられていては、やはり気になる。

 米の運び出しが一段落したところで、金造は信忠に話しかけた。


「何か気になることでもありましたら、お答えしますが」

「んー……じゃあ、兵糧。これで足りるの?」

「現時点で佐野浦の蔵にある米を集めれば、一千と三十三俵。そして現時点で集結した御味方の数は……」


 信長直属の馬廻衆が総予備として二千。

 山手やまのて方面軍が四千。佐久間さくま信盛のぶもり羽柴はしば秀吉ひでよし荒木あらき村重むらしげが各千ずつで三千。杉之坊すぎのぼう率いる根来衆五百と織田についた雑賀の三組みからみ衆五百に先導される。

 浜手はまて方面軍が八千。滝川たきがわ一益いちます明智あけち光秀みつひで筒井つつい順慶じゅんけいが各千ずつで三千。信忠が率いてきた濃尾国衆五千はその少し後方を進む。

 補給拠点である佐野浦と、両方面軍との間を結ぶ小荷駄隊が約千。

 合計で一万五千。


「各隊手持ちの兵糧と合わせて、およそ六日分ですね」

「これだけあって、たった六日か!」

「三日後までに、船で五百俵が追加されます。三日分ですね。小荷駄で運びます」

「三日間で増えるのが三日分とか、ギリギリじゃないか」

「それがしは上洛戦からしか知りませんが、美濃と尾張で戦っていた頃に比べるとずいぶんマシになってるそうですよ」

「そうなのかなぁ」


 金造は信忠の目が赤いのに気づいた。


「信忠様。もしかして、あまり寝れてませんか」

「う……うん……」


 信忠は金造を探るように見て、しばし躊躇い、それから小さくうなずいた。


「弟たちは、大将たるもの、後方でどっしり構えておけと言うけどね。どうも性分なのか、細かいことが気になってしまうんだ」

「そうですか」

「いや! わかってはいるのだ。ぼくのような経験のない若輩者が細かいことを知ったところで、何もならぬということは」

「信忠様」

「あ、いや金造。もちろんきみのことじゃない。きみは若いが、経験については織田家中の誰にも劣らず積んでおると聞いている」

「いえ、それがしのことではなく──」

「経験を積んだ家臣に実務を任せ、ぼくは後ろで大まかな方向性だけを示せば……いいはずなんだけど、なぜかこう……細かいところが気にかかってしまうんだ……」


 金造は居住まいを正し、信忠に頭を下げた。


「信忠様のお考えは、正しゅうございます」

「え」

「上に立つものは、実務を下の者に任せる。それはその通りです。ですが、細かいところを知らぬまま、大まかな方向性だけ示して良かれとするのは、危ういことです」

「そう……なのか? ぼくは正しいのか?」

「はい。米でご説明いたしましょう」


 金造は積み上げられた俵に手をあてた。


「それがしが、坂本城の普請を任されていた時のことです。坂本は比叡山のお膝元。比叡山を焼かれたばかりの坂本の民草は、夫役ぶやくで普請の手伝いをイヤイヤやらされており、仕事はいっこうにはかどりませんでした」

「そりゃそうだろうね」

「そこでそれがしは、夫役の人足にも飯を振る舞うことにしました。米の消費は増えますが、普請は捗るだろうと思ってのことです」

「普請を長引かせようと、よけいに手を抜かれたりはしなかったの?」


 信忠が興味をもって食いついてきた。


「はい。そこで手すきの足軽も、普請に参加させました。混ぜて働かせると、人は簡単には手を抜けぬものです。順番としては、まず混ぜて働かせてつらさを味あわせ、続いて飯の振る舞いをはじめました。逆ですと、恨みの方が高まります」

「なるほど、細かいね」

「ですが今度は、夫役の人足が食べる量より、米の消費が増えてきました」

「なぜ」

「何者かが、炊く前の米を俵から抜いて城の外に持ち出していたのです。夫役の人足のため余分に炊きはじめたので、抜いた分が紛れてバレないと思ったのでしょう」

「待って。じゃあ、なぜバレたの?」

「米は俵を開き、枡ではかって使います。釜で炊くため薪も使います。米の減り具合が、薪の減り具合を上回っていれば、炊く前に抜いていたことになります」

「細かいね」

「それがしは、そういう性分にございます」

「ぼくと同じか」


 金造と信忠は、顔を見合わせて笑う。


「かくなる仕儀しぎ。信忠様でしたら、いかがなさいます」

「犯人が見つかったら、どうなるの?」

初犯しょはんであれば、腕を切り落とします」

「……まあ、そうだよね」


 ほう、と息をつく。


「ぼくとしては、普請を早く終わらせろ、米を抜いている犯人を見つけて処罰せよ、としか言いようがない」

「はい」

「だが、それではまずいんだね?」

「まずいというか、危ういです。厳しく沙汰すれば可能でしょうが、禍根かこんを残します。それでは、なんのために人足に飯を振る舞ったのかとなります」

「米を抜かれるのを見過ごしたら?」

「民草になめられます。これまた禍根となります」

「難しいね」

「はい」

「金造、きみはどうしたの?」

搦手からめてでいきました。米を抜いたのは飯を炊く女衆でしょう。であれば、家で待つわらべに食わすためです。そこで、童に薪を運ばせ、握り飯と交換させました。それと、日之介、これは足軽頭ですが、人足の顔役を通して警告を与えました。これでも米抜きが続くようなら、容赦はせんと」

「なるほど、うまい手だ! 金造。きみは知恵者だよ」


 金造は苦笑いする。


「結果がうまくいっただけです。正直、冷や汗をかきました。本来なら、人足に飯を振る舞う前に考えておくことでした」

「ふむふむ」


 信忠はウロウロと蔵の中を歩き回る。


「金造、きみの目的は城の普請を早めることだった。しかし、細かいところまで詰めずに人足に飯を振る舞ったせいで、米を抜かれる不手際となった」

「はい」

「幸いにも米を抜かれることにはすぐに気づけた。米と薪の消費を、きっちり帳簿につけておいたからだ。これも細かいところだよね」

「はい」

「細かいところにこそ、事の本質があるんだ。大まかな方向性を上が決めたところで、細かいところを下に丸投げでは、望む結果はついてこない」

「はい。もちろん、うまくいくこともありましょう。ですが、うまくいかないかもしれません」

「しかし……」


 ウロウロ。


「では、どうすればいい? 細かいところというのは、それこそ、細かくみていけばキリがないよね」

「はい」

「どこかで決心は必要だ。でも、細かいところを見過ごしていれば、物事はうまく進まない。そうなったら……」


 金造は無言のまま、信忠の思考がまとまるのを待つ。


「……そうか。命令を出すものは、覚悟を決めて決心する必要があるんだ。自分か、家臣か。誰かが細かいどこかを見落としていた時に、止めるか、このまま進めるか、修正して進めるか。命令を出した側が決めねばならないんだ」

「はい」

「……金造。きみ、さっきから『はい』しか言ってなくない?」

「はい。その理由も、考えればおわかりのはずです」


 信忠は足を止め、金造を見た。

 答えは、最初から信忠の中にあった。

 ただ、言葉にできていなかった。

 それは、なぜか。


「ぼくが細かいところが気になるのは、自分の決心に自信がない人間だからだ。決心が正しいのか間違っているのか、知りたいからなんだ」


 信忠の弟、信孝のぶたか信雄のぶかつは細かいところが気にならない。

 なぜなら、自分の決心は「正しい」と思っているから。

 うまくいかないなら、それは家臣の不手際であって、決心した自分は悪くない。


 ──弟たちが、いつも呑気のんきなわけだ!


 信忠は、涼しい顔をしている金造をにらんだ。


「金造、きみもぼくと同じ人間だな。仲間が増えると嬉しいか」

「嬉しいです。それと、こう言ってはなんですが、信長うえ様も信忠様と同じ、細かいことが気になる人間だと思いますよ」

「……うん。その通りだ。父上が癇癪ばかり起こす理由も、今わかった」


 天下人てんかびとの決心。

 それが、どれほどの重荷か。

 想像するだけで、信忠は心がすり減りそうだった。


「……継ぎたくないなぁ」

「天下の者どもは、そう思うお方にこそ、継いで欲しいと願うかと」

「はぁ……なら、秦創金造」

「はい」

「惟任日向守が、ぼくの父上に尽くしているように。きみはぼくに尽くせよ」

「我が殿の許しがあれば。それがしは明智家の勝手方です」


 むっ、と信忠が唇を尖らせる。


「将来の話だよ。どっちも隠居した後!」

「なら、その時に改めまして」

「細かいなぁ!」

「そういう性分ですので」


 佐野で兵糧の分配を行った後、金造は小荷駄隊と共にこの地に残った。

 二月二十二日。

 織田軍は志立しだち(現:大阪府泉南市)に進み、信長は馬廻衆と待機。

 ここから山手方面軍四千は杉之坊らに先導され、山を越えて根来へ。

 信忠と光秀を含む浜手方面軍八千はさらに海沿いに進み、淡輪口たんのわぐち(現:大阪府岬町)から孝子きょうし峠を越えて中野城なかのじょうを目指す。

 二月二十八日。

 中野城が降伏して開城。

 最後の拠点である雑賀城さいかじょうを山手方面軍が囲む中、浜手方面軍は部隊を細かく分けて紀の川周辺を略奪し、火をつけて回った。

 三月十五日。

 雑賀衆はついに信長に屈し、誓紙を差し出して降伏した。

 信長は、寛大な条件で雑賀衆を赦免し、撤退する。

 誓紙を信じてのことではない。身内の間で裏切り殺し合うことで、お互いへの猜疑心を植え付けることにこそ、紀伊攻めの意味があったからだ。


 ──毒は埋めた。後は放っておいても腐り落ちよう。


 心に毒を仕込む、天下人の決心。

 だがその毒は、信長自身の心にも、じわり、じわりと染み込んできていた。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
[一言] 歴史にIFは無いけれど、もしも信忠が順当に信長の後を継いでいたらってのは、個人的には見てみたかった可能性の一つではあります。
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